instagram

第四章 戦場之姫 – 二

 広妃は包に入ってきた娘の姿を見て、腰を浮かせた。
「華星……!」
「母上」
 華星は青ざめた顔で、それでもにこりと微笑んでみせる。
「広陵は興を(たす)けると約束してくれました」
「……あ」
 広妃は声にならない吐息を漏らした。華星はそんな彼女の手を取り、握る。
「良かったですね」
「か、華星。あなた」
 広妃は娘の顔を見上げた。
「あなたが、説得したの……?」
「…………」
 華星は答えない。
 ――蒐原が、興を攻めようとしている。その情報が入ってしばらく、辺りは騒然としていた。だが、積極的に参戦を推す者などいなかったはずだ。所詮は他国同士の話。そういう空気であったのを、広妃も感じていた。それなのに、今や広陵は興の側につくという。華星が出掛けていたわずかな時間に、一体何があったのか。
 広妃は娘の髪を、頬を撫でた。
「あなたが……」
 独り言のように、つぶやく。
「あなたの方が、帝位にはふさわしかったのに……」
 それは呪い。太子を産めなかった広妃に掛けられた――そして広妃が太子になれぬ華星に掛けてきた、呪い。
 だが、華星ははじめて、首を横に振った。
「いいえ、わたしは――」
 しゃらり、と耳飾りが鳴る。
「太子として生まれなくて、良かった」
「華星……?」
 戸惑う広妃に、華星は何も言わず静かに微笑んでいた。
 もし華星が太子であったなら、土毅とは隣国の王同士、決して近しい間柄になどなれなかった。華星が興の姫であったからこそ、土毅と出会うことができたのだ。そして――恋に落ちることも。
「母上。少し一緒に来ていただけますか?」
 華星に手を引かれるまま、広妃は立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「土毅さまが、お話をしたいと」
「土毅どのが……?」
 訝しげな広妃の声を背中で聞きながら、華星は真っ直ぐに前へと足を踏み出していた。

  × × ×

 蘇曳で戦闘が起こって間もなく――相手は山賊などではなく、蘇曳と戒絽の連合軍であることが明らかになった。増兵の要請が届き、中央としてもそれに応えざるを得なかった。ここでの勝敗は、今後の興の行く末に大きく関わってくる。
「蒙當はどうする?」
 伶明は張皓に話を持ちかけた。
「独立を認めることの是非よりも、ここであっさり引き下がって良いものかと思ってな」
「ご懸念はわかります」
 張皓はうなずく。
「我々にとって蒙當がどうしても必要な土地というわけではありませぬが、国には威信というものがありますから……」
「そうなのだ」
 伶明はため息をついた。
「蒙當ももう少し平和的な方法で独立を持ちかけてくれれば、話し合いに応じたのに」
 蒙當を併合した張本人である令尊ならば、独立など決して赦さなかっただろう。しかし、自分は令尊ではない。彼の息子であり、皇帝という地位を引き継ぎはしたが、全く別の人間なのである。そこのところをまるで理解されていないのが、どうにも歯がゆかった。
「独立は――陛下がもしもそれで構わぬとおっしゃるのなら、承認しても構わぬと思います」
 張皓は静かに言う。
「ただし突然に役人を追放した、その行為については謝罪を求められませ」
「謝罪を……?」
 伶明は顔をあげた。張皓は重々しくうなずく。
「役人は、我々に命じられて派遣されていただけ。彼らには何の罪もありますまい。にも関わらず、蒙當は彼らから住まいを取り上げ、追放したのです。彼らの受けた苦痛や恐怖はいかばかりか……」
「それもそうだな」
 伶明は顔をしかめた。
「命が奪われるようなことがなくて何よりだった」
「全くです」
「蒙當の件は、ひとまずそれで良しとしよう。謝罪を要求する文書を送り、出方を見る」
「はい」
 伶明は深いため息をつき、椅子の背に体を預けた。
「ところで――まだ広陵から遣いは来ないのか」
 広妃らが帰ってくる前に、広陵から遣いが来ることになっていた。それを受けて、国境まで迎えの軍を向かわせることになっているのである。現在の混迷した状況を思えば、一刻も早く彼女らの帰国が望まれるところであった。
「はい。未だ連絡はありませぬ」
「そうか……」
 忙しさの中で、ふと忘れそうになる。華星が自分の妃にはならないと言ったこと。一番近くにいたはずの彼女が、今はこんなに遠い。彼女が今何を想い、何を感じているのか。何ひとつわからないことが、辛かった。
「とにかく――」
 張皓の声に、伶明ははっとした。彼の硝子玉のような目が、じっと伶明を見つめている。
「今は我が国にとって試練の時。陛下には、どうぞお気を強くお保ち下さいませ」
「……ああ」
 伶明はうなずいた。華星の面影を、瞼の裏から振り払う。
「わかっている」
 彼女を守るためにも、自分は政に邁進しなければならない。彼女に何も心配をさせないために。ずっと、しあわせでいさせるために。

  × × ×

 華星と広妃が入った包には、土毅だけがいた。
「わざわざご足労をお掛けしてすみません」
 土毅は広妃に向かい一礼した。広妃は戸惑いを隠そうともしなかった。
「わたしに、お話があるとお聞きしたのですけれど……」
「はい」
 土毅は落ち着いた様子で、広妃を真っ直ぐに見つめた。
「正確には――おれと、華星からお話があるのです」
「え?」
 広妃は驚いて振り返った。華星は母を見返し、口を開く。
「母上」
「な、なあに?」
「わたしは、わたしのしあわせを見つけました」
 土毅は歩み寄り、華星の手を取った。
「わたし――」
 寄り添うふたりが揃いの耳飾りをしているのに気付き、広妃は息を飲む。
「土毅のことが、好きなのです」
 華星は顔を紅潮させ、それでもきっぱりと言い切った。
「彼の、側にいたい」
「おれもです」
 土毅は華星の手を離し、立ち尽くす広妃の足元に片膝をつく。
「華星とともに生きたい。おれにとって、唯一無二の女性(ひと)です」
 広妃は口元を喘がせた。
「どうして……そんな、いきなり」
「興へ行った時に宮殿でお見かけしたり、少しお話をしたりしたことはあったのです」
 土毅は広妃を見上げる。
「そのたびに、おれは彼女にこころを惹かれていました」
「…………」
 華星は胸の前でぎゅっと拳を握っていた。
「華星の知性、思慮深さ、そして優しさ――もっと良く知りたいと思い、今回もご招待させていただいた」
 土毅はちらりと華星を振り返り、口元に笑みを浮かべた。
「知れば知るほど、華星は魅力的です。もっと知りたくなる――側にいたくなる。おれは広陵の王としてではなく、ひとりの男として彼女を愛している」
「……土毅、どの」
「必ず、しあわせになります」
 土毅の言葉に、広妃は目を見開いた。彼は真剣な眼差しで彼女を見上げている。
「彼女がいれば、おれはしあわせになれる。反対に、おれの存在が彼女のしあわせであるように――あらゆる努力を惜しみません。ですから」
 土毅は一度言葉を切った。
「……華星とともに生きることを、どうかお許しいただきたい」
「それは」
 広妃は努力を払って何とか平静を取り戻し、口を開いた。
「広陵が興を援けるための、条件ですか?」
「そうとっていただいても構いません」
 土毅は落ち着き払ってそう応えた。
「おれが広陵を援けたいと思うのは、それが華星の故郷だからです」
「…………」
 広妃は華星を見る。彼女はひとつ、うなずいた。
「お願いします――母上」
「…………」
 広妃の肩が細かく震える。
「……また、奪われるの?」
「え?」
 聞き返す土毅には構わず、広妃は叫んだ。
広陵(くに)はわたしから家族を、故郷を奪った! 今度は娘を奪うのね……!」
「母上!」
 華星が慌てて口を開くが、広妃は激しく首を横に振った。
「好きにすれば良いわ。華星のしたいようにしなさいな。伶明にも伝えておくわ。あなたは異国の王に取られてしまったって!」
「母上、聞いて下さい――」
「もう何も、聞きたくない!」
 広妃は駆け寄った華星を突き飛ばし、包を飛び出した。鼓動が早鐘を打ち、汗が吹き出る。悔しさと怒りで眩暈がした。――おまえは、興に嫁ぐのだ。そう父に告げられた日のことを思い出し、ひどく苦しかった。

「母上っ……」
 追おうとした華星を、土毅が引き止める。
「今は、やめとけ」
「で、でも……!」
「今はいくら話したって、きっと通じないさ」
 土毅は険しい顔でつぶやいた。
「おれは華星を奪うわけじゃない。そもそも、華星を奪うことなんてできないさ。華星は、華星だけのものなんだからな」
「…………」
 俯いた華星を、土毅は抱き寄せる。
「急だったから驚かせちまったんだろう。時間をおいて、ゆっくり考えてもらって……ちゃんと話ができるくらい落ち着いたら、また話そう」
「…………」
「大丈夫だ。おれは絶対に諦めない。必ずわかってもらうから」
 ――華星には自分しかいないのだということ、自分には華星しかいないのだということ。
「わたし」
 華星はつぶやく。
「母上を傷つけてしまった……」
 ――母に呪いを掛けた自分。母からしあわせを奪った自分。そんな自分が、母を裏切っていいはずなどないのに……。
「華星」
 土毅は華星の涙に濡れた頬を拭い、口付ける。
「自分を責めるな。おまえは何も悪いことなどしていない」
「本当……?」
 華星は目を大きく見開いた。
「わたし、悪くないの?」
「ああ」
 土毅はうなずく。
「おまえは何も悪くないよ。おれが保証する」
 華星を抱き締め、ささやいた。
「だから――側にいてくれ。離れないでくれ」
「……ええ」
 華星はうなずく。
「わたしは……土毅と一緒に、いたい……」
 それだけが、彼女の願い。たったひとつの祈り。
 
 ――貴方の元へ、還りたい。