instagram

第四章 戦場之姫 – 九

 伶明が広陵に向けて出立する、その前夜。妹、晶香が彼の部屋を訪れた。
「哥哥」
「なんだ」
 翡翠の器に満たした酒に、月を映す。彼はその揺らめく光を、ぼうっとした眼差しで眺めていた。
「哥哥は……、姐姐を連れ戻しに行かれるのですか」
 晶香の言葉に、伶明は顔を上げた。
「連れ戻しに?」
 眉を寄せる。
「華星の帰ってくるべき場所は、ここだろう?」
「…………」
 晶香は眼を伏せた。華星と同じ、長い睫毛がかすかに震える。
「そうでしょうか……ここに、姐姐の居場所はあったのでしょうか……」
「何が言いたい?」
 伶明は苛立ったように器を卓の上に置いた。水面が激しく揺れ、月はかき消える。
「哥哥」
 晶香は強い口調で彼を呼んだ。
「姐姐を、自由にしてあげて下さい」
「……どういうことだ」
「姐姐はわたしや妹とは違う。こんな、狭い宮殿の中にいるべき人間ではないと思うのです」
 彼女の言葉に、伶明は少し怯んだようだった。
「何が、違うと? おまえと華星の、何が違うというのだ」
 晶香は昔の記憶をたどるように、眼を細めた。
「……姐姐は、特別です。いろんなことを知っていて、そしてもっともっと、知りたがっていていらっしゃった。難しい書物も難なく読みこなしておしまいになるし――わたし、開いただけで目眩がしてしまったわ。姐姐は困ったように笑っていらっしゃったけど、その時、わたしは思ったのです。このひとは違うって。城の中の、どのおんなのひととも違うと」
「…………」
「哥哥も、そうは思いませんでしたか。わたしなんかよりずっと姐姐の側にいらっしゃったのだから、良くご存じでしょう?」
「…………」
 伶明は答えなかった。彼の脳裏にも、分厚い本を抱える華星の姿が浮かぶ。しかし、彼女が何の本を読んでいるのか、積極的に尋ねることはしなかったように思う。本を読む彼女の横顔が、彼はあまり好きではなかったからだ。何となく近寄りがたいような、彼を寄せ付けない雰囲気をまとっているように思えて仕方がなかったからだ。
 だが、晶香は彼とは違う印象を抱いていたらしい。
「わたしは、姐姐のそういうところが好きなのです。聡明で、優しくて……本当に、尊敬しています。だからこそ」
 両手をぐっと握りしめ、彼女は伶明にうったえた。
「姐姐は、哥哥が思うように無理やり戦場に出されているわけではないと思います。そんな、弱いひとではありません」
 伶明はかっと頭に血を上らせた。
「何故、そんなことが言える。おまえに、何がわかるというのだ!」
「では」
 晶香は食い下がった。
「哥哥は、姐姐の何をご存知なのです」
「…………」
 伶明は絶句する。晶香は華星とよく似た瞳の色で、じっと彼を見つめていた。
「姐姐はこの宮殿の中で、ずっと己に掛けられた『呪い』と戦ってきた。そして――わたしも含めて、だれも、姐姐を解き放ってあげられなかった。それは、哥哥も同じではありませんか」
「…………」
「少なくとも今広陵にいる姐姐は、『呪い』とは無縁のはず。自由のはずです」
 伶明は眼を閉じた。晶香の言葉がずうっと彼の胸の奥に差し込んで、痛みをおぼえるほどであった。
「だから――もうすぐ、この宮殿の外で姐姐とお会いになるのだから」
 晶香はふと、声の調子を緩める。
「どうか、姐姐の言葉に耳を傾けて差し上げて下さい。姐姐の本当の胸の内を、どうか」
「…………」
「きっと、姐姐もそれを望んでいるはずです。姐姐は哥哥のこと、大好きなんですから」
「……そうだろうか」
 伶明はつぶやいた。――華星は本当に自分を愛してくれているのだろうか。晶香の言うとおり、彼女に掛かった「呪い」ひとつ解けない、無力な自分を。
「哥哥」
 俯いた彼の膝に、晶香はそっと掌を置いた。
「当たり前です。哥哥は姐姐の、たったひとりの哥哥なのですから」
「…………」
「それに」
 晶香は微笑んだ。
「噂で聞きました。このたびの戦、広陵が蒐原を討ったことで、我が国は大層助かったと。そして、広陵を動かしたのは――」
「華星……」
 うなずく。
「ええ。姐姐はこの国を守って下さった。きっとそれは、ここにわたしたちが――哥哥がいるからではないでしょうか」
「…………」
 伶明は晶香の手を取り、そっと押しやった。
「おまえの言いたいことはわかった。――明日の出立は早い。わたしはもう休む。おまえもさがって休むが良い」
「哥哥」
「……頼む」
 伶明は顔を背けていた。
「わたしを、ひとりにしてくれ」
「…………」
 晶香はおやすみなさい、とつぶやき、彼の部屋を後にした。

 ひとり残った伶明は、懐から一枚の紙を取り出す。「哥哥。このような形でお話をすることを、どうかお許し下さい――」。華星が残していった、置き手紙だ。伶明は彼女の筆跡の上を、ゆっくりとなぞった。「哥哥のことは、大好きです。そのことはどうか信じていて下さい。わたしは永遠にあなたの妹であり、あなたはわたしの哥哥なのですから」。
「『信じて』……か」
 信じる。信じて、いる。
 伶明はただじっと、身じろぎもせずにその紙面を見つめ続けていた。

  × × ×

 それは、星の良く見える夜だった。興に向かう旅路の途中、突然広妃が土毅に面会を申し入れたのだ。土毅はすぐにそれを受けた。
「おひさしぶりね」
「ええ」
 広妃はかすかな微笑みを浮かべ、土毅を見つめる。
「華星は、元気にしているかしら」
「……元気ですよ。あなたのことを、とても気にしていますけれど」
 華星が土毅とともに彼女の元を訪れて以来、広妃は未だ華星と言葉を交わしていないのだ。敢えて、広妃が避けているのだった。
 広妃はすっと背筋を伸ばした。
「今日は、お話があって参りました」
「伺いましょう」
 土毅は真っ直ぐに彼女を見返す。大地の色の瞳は、深く澄んでいた。
「あなたは――華星をどうするつもりなのです?」
「どうするつもりもありません」
 土岐はあっさりと答えた。
「おれは、彼女にしあわせでいて欲しいと願っている。彼女がしあわせであること。それがおれの願いです。そして、欲を言えば――そのしあわせの手伝いをおれ自らができれば」
「『しあわせ』……」
「ええ」
 土毅はまるで何でもないことのように、その言葉を口にする。
「確かに、おれにとって華星は唯一無二のひとです。側にいたい。側にいて欲しい。でも、おれは彼女を飾っておきたいわけじゃない。ともに歩みたいのです。ともに、生きていきたいのです」
「…………」
「興での彼女の暮らしのことは、あなたがよくご存知でしょうけれど」
 土毅の視線が、鋭く広妃を射る。
「華星は、しあわせでしたか?」
「…………」
 広妃は言葉に詰まった。――「呪われた姫」。しあわせな、はずがない。けれど。
 ゆっくりと、絞り出す。
「では」
 挑むように、土岐を睨んで。
「今は、しあわせなの?」
「――勿論」
 土毅は微笑した。光の匂いのする、眩しい笑みだった。
「おれが、側にいるのですから」
「…………」
「ああ、でも」
 土毅は軽い調子で続ける。
「それは、華星自身にお聞きになった方が良いのでは?」
「え?」
 そのとき、彼女はふと気が付いた。聞き覚えのある旋律が、彼らふたりを包んでいる。奏でているのは――彼女の、娘。

 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

「あなたの禁じた詩、だそうですね」
 広妃は茫然と立ち尽くす。
「何故禁じたのですか」
「…………」
 何故って――何故なら――。
「広妃どの」
 土毅の声は、優しい。

「おかえりなさい」

 ――ひとつぶの涙が頬を伝う。この男は草原之王であるのみならず、存在が草原そのものなのだ。広く、あたたかく、深い。
 広妃は涙を浮かべたまま、少しだけ微笑んだ。