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第四章 戦場之姫 – 三

 土毅に連れられて己の包に戻ってきた華星を、困惑顔の璃春が出迎えた。彼女は包の外に立ち尽くしている。
「どうした?」
「広妃さまが、華星を中に入れるなと……わたしのことも追い出しておしまいになって」
 土毅の問いにこたえ、璃春は強張った表情の華星を心配げに見つめた。
「何かあったの?」
「…………」
 華星は俯き、答えない。土毅はそんな彼女の頭にぽん、と手を置き、包に向かい足を進めた。閉ざされた帳の中に、声を掛ける。
「広妃どの」
 返事はない。しかし、土毅は気にした様子もなく語り続けた。
「おれは、華星をあなたから奪いたいわけではありません。華星も、あなたから離れたいわけじゃない。ただ、おれたちは互いの側にいることを望んでいるだけ」
 ゆっくりとした、それでいて力強い口調であった。
「あなたが留まりたいと言うのなら、広陵はいつでもあなたを迎え入れましょう。興が何か言ってきても、おれが何としてでもあなたを──そして華星を守ります。それだけの覚悟はあるのです」
 土毅の拳を、華星の小さな手がきゅっと包んだ。土毅は華星に目をやり、頷いてみせる。
「おれを信用できないなら、信じていただけるよう努めます。至らないところがあれば正します。ですから、どうか──」
 土毅は言葉を切った。包の中から、広妃の侍女が姿を見せたのである。彼女は浮かぬ顔をしていた。
「広妃さまから伝言です」
 華星に向き直り、口を開く。
「『あなたはあなたの望むようにすれば良い。わたしのことは気にかけるな』と。それから」
 土毅を見据え、言った。
「『土毅どののお話は承りました。お返事はまたいずれ』とのことです」
「…………」
 土毅はしばらく何事か考えていたが、やがて顔を上げ、華星と璃春を見た。
「おふたりはこちらに。包はまた別に用意させよう」
「……ありがとう」
 力なく微笑む華星の頭をくしゃりと撫で、土毅は璃春に言った。
「華星を頼むぞ」
「はい!」
 璃春は勢い良くうなずき、歩き始めたふたりの後を追った。
 
 
  × × ×
 
 
 翌朝早く、土葉が華星を迎えに来た。
「蒐原を阻むための戦略を決めねばなりません。是非華星どのにもお力添えを」
「……はい」
 驚いた表情の璃春をよそに、華星はすっと立ち上がった。
「璃春、行ってくるわね」
「え、ええ」
 振り返り、微笑む。──その華星の表情に、璃春ははっと息を呑んだ。昨日からひどく落ち込んだ様子でいた華星に、血色が戻っている。背筋も真っ直ぐに伸びて、大国の姫に相応しい威風が備わっていた。
 璃春は深々と頭を下げる。
「行ってらっしゃい」
 自分にできるのは、彼女の背中を力強く押してやることだけ。璃春はこの幼馴染を、心から誇りに思った。

 土葉とともに向かった包には、既に土毅や他の男たちが集まっていた。華星の姿を見て驚いている者もいる。誰かがその疑問を口に出す前に、土毅が静かに口を開いた。
「華星どのには、興の代表として協議に参加していただく。──異論はあるか」
「…………」
 当然ある、と言いたげな顔をしている者が多かった。無理もない。一国の行く末を決めるやもしれぬ蒐原との戦、そのための会議である。そこに異国の者を招き入れるなど、国益を損なうに決まっている。
 だが、土毅の口調は有無を言わせぬものであった。
「これはおれが決めたことだ。良いな」
「…………」
 華星は特に表情を変えぬまま、真っ直ぐに前を見ていた。周りからの胡乱な眼差しなど、気に掛けていないようである。──土毅が側にいることが、何より彼女を強くしているのだった。自分の一番の味方が、すぐ側にいる。何も恐れるものはない。
 結局誰も異議を申し立てることのないまま、会議は始まった。中央には国境付近の地図が広げられている。華星はやや前かがみになり、それに視線を落とした。
「蒐原の兵力は数千とも見積もられている。一方、我らがすぐに動員できるのは僅か数十に過ぎぬ。真正面から戦っては勝ち目はない」
「奇襲を掛けてはいかがか。数千とはいえ、あちらは歩兵混じりの兵力。対する我らは全て騎兵。一騎当千とはこのことであろう」
「奇襲と言われても、国境付近は川沿いの平地。どこに隠れるというのだ」
 口々に交わされる議論を、土毅は黙って聞いている。時折ちらりと華星に視線を投げるが、彼女は身じろぎもしなかった。飛び交う声を聞いているのか、いないのか。それすら判然としない。これほど集中している様子の彼女を、土毅は初めて見た。いつもの柔らかで儚げな雰囲気を纏った彼女とは、明らかに違っている。
「身を隠すところがないというのなら、壕を掘るか」
「いや、それでは騎兵の意味がないであろう。馬は壕には隠せぬぞ」
「では壕に兵を置き、同時に騎兵を少し離れたところに忍ばせるか」
「うむ……そうなるか……」
 意見を求めるように視線を向けられ、土毅は小さく咳払いをした。静まり返った場の中、彼は口を開く。
「華星どのは、いかがお考えか?」
「…………」
 華星は顔を上げた。少し困惑したような顔をしたが、それでも土毅が目線で促すと、彼女は迷うことなく指先で地図の上の一点を指し示した。
「蒐原と興の国境には河があります。その上流は、広陵を通っている」
「そうです」
「たとえばその水をせき止めておき、蒐原の兵が通ると同時に解放する」
「……なるほど」
 土葉が小さくつぶやいた。華星はすらすらと後を続ける。
「見張り役は、壕で待機を。可能なら、水と同時に大木の丸太を流してもいいでしょう。この方法なら──」
「蒐原にはしらばっくれることができる……か」
 土毅の言葉に、華星はうなずいた。
「はい。鉄砲水は自然現象でもあり得ること。丸太は事故で流れ出してしまったとでも言えば良い。──ですが、きっとおそらく蒐原は何も言ってこないでしょう」
 華星の瞳がきらきらと輝いていた。小川のせせらぎのように、彼女の声はとどまることなく流れる。
「抗議すれば、彼らが興との国境に兵を向けていたということを公にするのも同じですから」
「…………」
 土毅はぐるりと場を見渡した。今度こそ、誰の目にも異論の色はなかった。
「今の戦法を下地にして、各部隊が詳細を詰めろ。平行してすぐに準備にかかれ。夜、もう一度会議を行う」
 土毅の言葉に、一斉に皆が動き始める。その姿を見ながら、華星はほっと息をついた。──恐らく、この戦では広陵の者は誰も死なない。蒐原側にも、さほどの損害はないだろう。ただ、蒐原には知らしめておく必要があるのだ。広陵は、興につくのだということを。

  × × ×

 土毅とふたりになった華星は、心配げに彼の顔を見上げた。
「上手くいくかしら? わたしの案は、机上の空論かもしれないわ」
「心配要らないさ」
 土毅は水をぐびりと音を立てて飲む。
「おまえの案を採用すると決めたのはおれ。実行するのもおれの名のもとで、だ。責任はおれがとる」
「それは……!」
 反論しようとした華星を、土毅は押し留めた。
「おれは、広陵の王だ。おれには広陵を率いる義務がある」
「…………」
「それに」
 土毅は、黙り込んだ華星の頬に人差し指の背を滑らせる。
「おれにしかできないことは、おれがやる。おまえは、おまえにできることをやれ。……異国の姫であるおまえには、広陵の民たちの矢面に立つことはできない」
「……わたしに、できること?」
 不安を湛えた華星の瞳に、土毅の力強い笑顔が映った。
「ああ。言っただろう? おまえは、おれの右腕になるんだと」
「……ええ」
 その言葉は、華星にとっては大切な記憶。彼女の唇に、知らず知らずのうちに笑みが浮かんだ。土毅はそれを見て、表情を緩める。
「それは、おまえにしかできないことだ」
「…………」
 それを聞いた華星は少し俯き、やがて顔を上げた。
「ねえ、土毅」
「なんだ?」
「わたしを、戦場に連れて行って欲しいの」
「なっ……?!」
 土毅は息を飲んだ。華星は重ねて言い募る。
「わたしが本当にあなたの右腕になれるというのなら、わたしはあなたの側に寄り添っていたいの。それがたとえ、どんな場所であっても」
「しかし……」
 危険が大き過ぎる。そうでなくとも血なまぐさい戦場に、愛する女性を伴いたくはない。土毅はためらったが、華星は重ねて言った。
「お願い」
 目が合う。彼女は真剣な眼差しで彼を見つめていた。決して生半可な気持ちで言っているのではないのだと、土毅は思い知らされる。彼女には覚悟があるのだ。戦場がどんな場所かも十分考えた上で、それでも彼の傍らにいたいと言う。
「…………」
 長い沈黙の後、土毅は低く言った。
「わかった」
 華星の顔がぱっと明るくなる。
「ただし――」
 土毅は彼女を強く抱き締めた。
「絶対におれの側を離れるな。おまえは、おれの右腕である前に」
 ――おれの心臓なんだからな。
「…………!」
 その言葉に、華星は一瞬目を見開き――やがて目を閉じてうなずいた。頬に押し当てられた土毅の鼓動。それが、全身に大きく響いていた。