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第四章 戦場之姫 – 七

 伶明はゆっくりと書簡に封をした。その上に、自らの手で皇帝の印を捺す。力のこもった拳は、小さく震えていた。
「…………」
 そんな彼を、戒絽より帰国した鵬嵩が憂いをたたえた瞳で見つめている。

 戒絽との和平を取り付けた鵬嵩がようやく都の土を踏んだとき、どこか浮き足立っているような気配を感じた。興には平和がもたらされたのではなかったのか、何故戦時と同じような雰囲気に包まれているのか――その疑問は、皇帝に謁見するや否や解消されることとなった。
「広陵に兵を?!」
 驚く鵬嵩に、伶明は醒めた眼差しを投げる。
「おまえも聞き及んでいるだろう。……華星が今、どのような状況に置かれているのかを」
「…………」
 ――やはり、華星どのに関係しているのか。鵬嵩はそう口には出さぬまま、ほぞをかんだ。やはり自分が戒絽で憂慮していたことが現実になろうとしている。華星ひとりをめぐって、興は再び戦乱へと突き進もうとしている……。
「噂なら、聞き及びましたが」
 控えめにつぶやくと、伶明はため息をついた。
「わたしは既に隠密を放ち、調べさせている」
「は……」
「おまえの聞いている噂で、間違いはない」
「では」
「ああ、そうだ」
 伶明はうなずいた。
「華星は――興の姫である彼女は今、草原の粗野な民たちによって戦場へと駆り出されているのだ」
「…………」
 鵬嵩はえもいわれぬ違和感を胸に、口中の唾液を飲み下した。――華星どのが、無理やり戦場に? 幾度か見た彼女の瞳を思い出す。しんと静かな、それでいて鋭い光を宿した、深く煌くふたつの闇。花のような唇から紡がれる、豊かな知識。彼女ほどの人物が、己の意に反して戦場に引きずり出されている、と?
 そもそもそそれは鵬嵩の聞いた噂とは違う。彼が耳にしたのは、華星が草原之民を率いているという話だった。数多の勝利を彼らにもたらし、戦女神として崇められていると。そして若き草原之王すらも、彼女には一目置いているらしい。……そこにある感情が尊敬だけなのか、それとも男女の何か、そういったものを含んでいるのかは、鵬嵩にはわからなかったが。
「陛下、一度書簡をお送りになって、華星さまにお帰りいただくようにうながしてみては」
 鵬嵩は言った。
「広妃さまと華星どのを広陵に残したままでは、攻め入ることもできますまい。おふたりが人質として利用されてしまいます」
「勿論だ。既に書簡は書きあがっている」
 伶明はつと立ち上がり、大きな窓の側に歩み寄った。高台にある宮殿からは、都が一望できる。伶明はそれを、なぜか憎しみにも似た激情のこもった目で睨みつけていた。
 ふと、鵬嵩は尋ねた。
「張皓どのは、何と?」
「張皓?」
 伶明がつぶやくその声は、絶対零度の響きであった。
「『妹君が、広妃どのに続く絆になってくださるかもしれませぬ』……だと」
「…………」
 ――それはつまり、華星を広陵に遺せと……草原之王か、またはその兄弟に嫁がせよと、そういうことであろう。
 おそらく、張皓も己と同じ可能性を考えているのだ。つまり――華星は広陵の誰かに心を惹かれているのではないかということ。だが、そんな言葉が伶明に受け入れられるはずもない。鵬嵩は目を伏せた。伶明は温厚な、聡明な主君であると思う。だが、事が華星のこととなると話は別だ。彼女は、伶明から視界を奪ってしまう……。
「呪われた姫君、か」
 つぶやいて、はっと伶明を見る。彼は無反応に背を向けていて、鵬嵩は聞かれていなかったことに安堵した。

  × × ×

 ――蒐原との和平が為った。土毅はその知らせと共に華星のもとを訪れた。
「興も戒絽との戦を終えたと聞く。――大陸に平和が来たな」
 微笑んだ彼に、華星はうなずきを返す。だが、その口元は軽く強張っていた。
「どうした?」
 うすうす感づきながらも尋ねた彼から、華星は目を逸らす。
「哥哥は、どこまでご存知なのだろうか……と思って」
「…………」
「都にいたときも、定期的に隠密が周辺諸国の動きを探っているという話でした。わたしの耳にその内容が入ってくることはなかったけれど……」
「なるほど」
 土毅は座している彼女の隣にどっかと腰を下ろした。
「おまえが戦場に出ていることを、皇帝は既に知っている可能性があるってことか」
「ええ……」
「だとしたら、おまえの哥哥はどう思うかな?」
「…………」
 華星は少し黙った後、口を開く。返答を考えていたというよりも、それを口に出すかどうかを迷っていたようであった。
「おそらく……わたしが無理やり戦場に連れ出されたと、危険に晒されたと、そう思うのではないかと……」
「そりゃまた」
 土毅はふう、と息を吐いた。
「随分と曲解するものだなあ」
「興では女性が戦場に出るなんて考えられないことだから」
「そりゃあ、広陵でもふつうのおんなは戦には参加しねえよ。でも」
 土毅は微笑んだ。
「おまえがふつうのおんなか? 違う。おまえは特別だ」
「…………」
 困ったように眉を寄せた彼女を、土毅は肩に腕を回し抱き寄せる。
「おれは確かにおまえをひとりのおんなとして愛している。けれど、それだけじゃない。おまえの人間性、知性、そういったものを心から尊敬しているんだ。それにはおとこもおんなもない。性別にとらわれてその人間の本質を見逃すなんて、勿体ないことだとおれは思う」
 土毅はきっぱりと言った。
「おまえには軍師としての才能があった。おれはそれが花開くところを見たかった。それに、おまえ自身も望んでくれた。だから、戦場に連れて行ったんだ」
「ええ、わかっている。わかっているの」
 華星は繰り返した。
「もちろん、そのことはわたし、わかっているのだけど……でも」
「おまえの哥哥は、わかってくれない……か?」
「…………」
 華星は一瞬口ごもり、やがて口を開いた。
「ええ、そうね。それは哥哥にはきっと理解されない……できないと思う」
「……そうか」
 土毅は小さくつぶやくと、やがてぐっと眉間に力を込めた。
「とすると、おまえの哥哥は広陵を攻め滅ぼしてでも、おまえを取り返そうとするかもしれない」
「まさか?!」
「いや、十分考えられる」
 驚愕に目を見開く華星に対し、土毅はあくまで冷静だった。
「さて、どうするか……」
 彼には華星を興に返す気などない。だが、彼はこの国の王として広陵を守る義務がある。いまや相反するふたつのことを、彼は同時に成し遂げようとしていた。いや、成し遂げなければならないのだ。
「…………」
 華星はやがて目を伏せ、ため息を吐いた。
「哥哥と……母国とは、戦いたくはありません」
 令尊に存在を無視されても、宮廷のひとびとが彼女につらくあたっても、伶明だけは彼女の味方でいてくれた。「華星は何も悪くないのだよ」と、笑って抱きしめてくれた。その温もりを、彼女は忘れてはいない。遠く離れている今も、彼が彼女のたったひとりの哥哥であることに変わりはない。彼が望むような形ではなかったとしても、彼女は彼を愛している。その気持ちに嘘はないのだ。
「…………」
 複雑な表情で唇を噛む彼女を見つめ、土毅はかたく拳を握る。――あの皇帝は、自分の知らない彼女を知っている。誰よりも近くで彼女の笑顔を、涙を、見守ってきた。そんなことはとうにわかりきっていたはずなのに、何故か今は腹立たしい。子供じみた嫉妬心だ、と土毅はつとめて冷静に自己を分析した。こんな感情は何の役にも立たない。必要ない。
「わたしは……」
 華星はぽつりと口を開いた。
「いずれ、きちんと哥哥と話をするつもりでした。土毅のことも、ちゃんと話をしたかった。……わかってもらえるかどうか、自信はなかったけれど……それでも、自分の口からちゃんと説明をしたかった」
 思えば、哥哥の前ではいつも自分を誤魔化していたような気がする。曖昧に笑って、話を合わせて――ただ、彼の優しさに甘えていた。本当の自分を見せようとはせず、ただ彼にとって都合のよい妹を演じていたのだ。ただ孤独にはなりたくないと、それだけの理由のために。彼を、欺いていた。騙していた。
「でも……もう、このままではいけない」
 華星は強く言った。
「わたしがわたしとして生きていくために、もう嘘はつけない」
 自分にも――他人にも。もう、誤魔化すことはできない。
「だって、それが――」
 華星は土毅を見上げ、微笑んだ。
「あなたに教わった強さだもの」
「…………」
 土毅は目を見開き、やがて微笑みを返す。
「そうか」
 ――それが彼女の望みなら、自分はそれを尊重しよう。哥哥である皇帝と彼女との対話が実現するよう、全力を尽くそう。自分は彼女の還る場所になると誓った――それならば、自分はいつでも、いつまでも彼女を待っている。
「大丈夫」
 華星は眼差しを鋭くし、うなずいた。
「もう、戦は起きない――わたしが、起こさない」
「…………」
 土毅は恭しく、彼女のその手の甲に唇を落とした。
「おれはおまえを、信じる」
 華星が戦を起こさないと言ったのだ。きっとそれは現実になる。いや――現実にしてみせる。

  × × ×

 三日後。興からの特使が、皇帝の書を持参した。――曰く、十日以内に華星と広妃を興へ返すように。実行されぬ場合は、広陵に二国の友好関係を破壊する意志があると見做す、と。
「やはりな」
 土毅はつぶやいた。やはり、自分の見通しは誤っていなかった。
「どうなさいますか、哥哥」
 土葉の問いに、土毅は悠然と返した。
「ふたりを連れて、国境へ」
「要求を呑むと?」
 意外な言葉に目を剥いた彼に、土毅は首を横に振った。
「違う。あくまで国境へと向かうだけだ。脅しに屈するつもりはない」
「でも、何のために……」
「けりをつけるんだと」
 土毅はぽつりとつぶやいた。
「けり?」
「呪いは、とかなければならない」
「…………」
 「呪われた姫」――その言葉が土葉の頭に浮かんだ。
「そのためには……あの男が必要だ」
「…………」
 どことなく悔しげな兄の表情。土葉は苦笑した。
「あなたもひとなみに焼餅を妬いたりするのですね、哥哥」
「悪いか」
「いいえ」
 土葉は笑みを深める。
「むしろ、安心しました」
 土毅は小さく笑った。
「そうか」
 手の中の書簡に視線を落とし、目を細める。書き付けられた流麗な文字は、伶明そのひとの手によるものなのだろうか。――次の瞬間、それらが指の間でくしゃりと歪んだ。
「悪いが……」
 土毅は独り言のようにつぶやく。
「あんたのお姫さまは、もう籠の中には戻らねえよ」
 彼女の翼は広い空を、果てしない大地を――自由を知った。もう、戻らない。戻れるはずがない。
「だから、還さない」
 そのつぶやきは、土葉にすら聞こえないほど小さく――。