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第四章 戦場之姫 – 一

 蘇曳に向かった軍から、何者かと戦闘に入ったとの連絡がもたらされた。相手が山賊なのかどうかはまだわからない。伶明はきつく眉を寄せ、張皓を見遣った。
「増軍すべきか?」
「……今はまだ、様子を見られた方がよろしいかと」
 張皓も、険しい表情を崩さない。
「我が国は四方を他国と接しております。一方に気を取られ、他方を疎かにするのは危険です」
「…………」
 伶明は忙しく思考を巡らせた。──確かに……もし戒絽が蘇曳の背後についていたとして、二国を合わせても国力では興に遥かに劣る。となれば、何か他にも策を講じている可能性は十二分にあるだろう。
 そう考えた伶明は、はっと顔を上げた。
「まさか、広陵も……?」
 広陵が広妃や華星を招待したのも、何か思惑があってのことなのか。伶明は血の気が引いたが、張皓はあくまで冷静だった。
「それは、あり得ません」
「何故言い切れる?!」
「広妃どのは広陵の前王の実妹。すなわち現王の叔母上にあたられるお方。王族の身内です。人質に使うにはあまりにも不適切でしょう」
「……それもそうか」
 ほっと息をついた伶明に、張皓はぽつりとつぶやいた。
「ただ……」
「ただ?」
 伶明は聞き咎め、聞き返す。
「……何故華星さまを合わせて呼ばれたのかは、少々気に掛かります」
「どういうことだ?」
 張皓はちらりと伶明を見たが、答えは返さなかった。しばらく待った伶明だが、やがて焦れて口を開こうとした――その時。
「失礼致します!」
 執務室の扉が勢い良く開いた。役人がひとり、息を切らして駆け込んでくる。
「何事だ!」
 伶明の鋭い声に打たれて立ち止まり、役人は荒い息をつきながら叫んだ。
「蒙當が、我が国からの独立を宣言致しました! 中央から派遣した役人を追放したとのことです!」
「――――!!」
 伶明は声を失い、さすがの張皓もわずかに目を見開いた。――今、この時期に興への反旗を翻すとは……これは、蘇曳と蒙當が通じていると見做すより他はあるまい。南の蘇曳と、西の蒙當。二方向から興は牙を向かれたというわけだ。
「陛下」
 張皓は低く言った。
「北の国境の警備を篤くせねばなりませぬ。ことによると、蒐原も……」
「くっ……」
 伶明は拳を握る。蒐原が起てば、三方から攻め立てられることになるのだ。それにしても何故、自分が帝位についてすぐにこのような混乱が湧き起こってくるのか。奏陽の嫡子として生まれた己の運命を呪いたくなった。
「広陵だけでも、しかと味方につけておくことですな」
 張皓は言う。
「さもなければ――」
「…………」
 張皓はその続きを口にしなかったが、伶明には彼の言わんとしていることはわかった。――興は今、大きな危機に立たされている。

  × × ×

 蒐原が密に興へと軍を進めている――その情報を得た土毅は、すぐさま一族の主だった者たちを集めた。無論、対応を協議するためである。
 土毅は集まった者たちの顔を見渡した。皆、土毅よりも年上のものばかりだが、誰もが彼の言葉を待っていた。
「我らの取る道は三つあると思う」
 土毅は指を一本、天に向けて立てる。
「ひとつ、傍観する。蒐原の動きなど、何も知らぬ存ぜぬで押し通すのだ」
 続いて、二本目の指。
「ふたつ、興に特使を送り、蒐原の様子を知らせる。ただし、戦には関わらない」
 そして最後に三本目。
「みっつめは――興に特使を送るのと並行して、蒐原の進軍を我らが阻止する」
 場がざわついた。まさか、土毅が戦を口にするとは誰も思っていなかったのだろう。その想いを代表するかのように、ひとりの男が口を開いた。
「ひとつめ、またはせいぜいふたつめの選択肢まででしょう。我らが他国の戦に巻き込まれる必要はありますまい。土毅どのもそう思われませぬか」
「そもそも今回のことは興が撒いた種であろう。大国の傲慢が招いた結果だ」
「我らに興の味方をする義理はない」
 口々に言う者たちを、土毅は静かに眺めた。
「ほう――それでは何故、蒐原は前もって我らに声を掛けなんだのか」
 恐らく今回のことは蘇曳と戒絽、蒐原が連絡を取り合って進めているに違いない。もしかすると、蒙當も含まれているかもしれぬ。しかし、広陵だけは蚊帳の外に置かれた。そのことの意味を考えねばならぬ――と、土毅は言ったのである。
「蒐原が進軍しているという情報が入れば、我らが不審に思うに決まっている。それなのに何故、我らを計画に抱き込もうとしなかったのだ」
「…………」
 返事はなかった。土毅は深く息を吸う。
「それは――我らと興の関係が、深いものであるからではないのか」
 言いながら、彼の脳裏には広妃と、そして華星の姿が浮かんでいた。
「それは先々代の王が決められたこと。己の娘を興に嫁がせて築いた、絆」
 土毅の言葉に、数名の者がはっと息を飲んだ。
「我らはそれを無視しても良いのか……?」
「し、しかし」
 ひとり、声をあげて反論するものがいた。
「いくら王室同志が姻戚関係にあるからといっても、参戦するのはやり過ぎではありませぬか。国民の命を危険に晒すことになるのですよ」
「蒐原の狙いが、本当に興だけなのかはわからぬぞ」
 土毅は言った。
「興という後ろ盾のなくなった我が国に攻め込まれた時、勝てるか、どうか」
「まさか、蒐原が広陵を攻めるなど……!」
「あり得ぬと言えるか」
 土毅の反問に、答える者はなかった。可能性は低いかもしれない。だが、あり得ないとは言い切れない。蒐原が興に兵を進めることすら、少し前であれば考えられないことだったのだから。
「我が国の土は豊かで、牛馬も良いものが育つ。欲しくない国などないだろうな」
 興とは友好関係を結び、貢物として馬などを献上することで何とかやり過ごしてきた。だがその興が弱体化した時、もうひとつの隣国である蒐原がどう出るか。それは誰にもわからない。
「土毅どのは――戦をお考えなのか」
 土毅はすっ、と視線を前に向けた。力強く、頷く。
「今動かずに、後悔するのはごめんだ」
 きっぱりと言い切った。
「だが、おれひとりの一存で決めることはできない。だから、こうして会議を開いている」
「勝てるとお思いなのですか……あの、蒐原に」
 興ほどではないが、蒐原も広陵よりはかなり大きな国である。勝ち目はあるのか。心配するのも無理はなかった。
 だが、土毅は再び大きく頷く。
「大丈夫だ」
 ――切り札が、ある。華星という名の、切り札が。

  × × ×

 話し合いが膠着状態に陥った時。会議が開かれていた包の中に人影がひとつ、滑り込んできた。気付いた土毅は、はっと息を飲む。
「華星……」
 しん、と包の中が静まり返った。確かにそこに立っているのは、華星である。彼女は青白い顔で、それでも毅然とそこに立っていた。土毅は駆け寄りたくなるのをぐっと堪える。
「何かご用ですか?」
 努めて平静を装い、土毅は尋ねた。隣に座る土葉が、心配そうな瞳を彼女に向けている。
「興の姫として、お願いがあって参りました」
 膝を折り、丁寧に辞儀をする。長い髪がゆらりと揺れた。
「お願い……とは?」
「蒐原を、討っていただきたいのです。……興の友好国として」
 華星は真っ直ぐに土毅を見据えている。その瞳には、いつものように縋りつくような弱々しい様子はない。小さな光がふたつ、燃えていた。
「我が母はその人生の全てを賭け、興と広陵との架け橋となりました。故郷を離れ、異国にひとり――若くか弱い女の身で、母は己に課せられた使命をやり通した」
 華星の言葉に広妃の兄弟らは顔を見合わせ、目を伏せた。末妹の辿った運命をよく思えば、それが苛酷なものであったことなどすぐに判ろうというものである。
「母にとって、興は既に第二の故郷も同じ。今ここで広陵が興を見放すようなことがあれば、母の努力は水泡に帰し、さらに故郷をも失うことになります」
 華星の口調は物静かではあったが、内なる激しさを秘めていた。土毅は黙ったまま、彼女をただじっと見つめている。視線が吸い寄せられたようで、目を離すことができなかった。
「母の生は、両国民の――いえ、広陵のためだけにありました。今こそ、その想いに報いるべき時ではないのですか」
 彼女の声が、辺りを打つ。
「…………」
 たかだかひとりの小娘の言葉に、多くの者が度肝を抜かれ、圧倒されていた。土毅は口元に笑みを浮かべる。――やはり、華星はふつうのおんなではない。底知れぬ可能性を秘めた、尊い宝石の原石なのだ。彼はその手の中で、この世のどんな宝玉よりも彼女を美しく輝かせてみせる。
「華星どのの言う通りだ」
 土毅の言葉に、一同の視線は彼に集中した。華星はほっとしたように力を抜く。本当はかなり緊張していたのだろう。それを見せぬよう、必死で気丈に振舞っていたのだ。そんな彼女が、土毅にはひどく愛しい。
 だが、土毅はあくまで王としての態度を貫いていた。
「蒐原が我らを無視したのは、我らが手を出さぬとたかをくくっているからであろう。つまり、我らは見くびられているということ」
「何ですと――」
「そうだ、確かに我らを無視している――」
 色めき立つ者たちを前に、土毅は声に力を込めた。
「我らは誇り高き草原之民。その誇りを傷つけられたままで良いのか?!」
 包の空気が――変わる。土毅は口元に笑みを浮かべた。
「案ずるな。おれは決して負け戦はせぬ。おまえたちは、このおれにこの国を預けたのだろう?」
 もはや、その場に反論する者はいなかった。草原之民の誇り、そして彼らの象徴である長、土毅。それが指し示すものこそ、この国の行方なのだ。
 土毅は華星に腕を伸ばした。
「華星どの」
「…………」
 華星は包の中央を歩み、土毅の手にその小さな手を載せた。土毅はそれをゆるく握る。
「興は我が友好国。お力になると約束しよう」
「……哥哥に代わり、お礼を言います」
 華星は静かに微笑んだ。大国の姫君としての気品を湛え、土毅をじっと見上げている。
「いや――」
 土毅は囁いた。
「大丈夫だ。ちゃんと対価はいただく」
「…………」
 対価。その言葉が何を指しているのかを悟り、華星はほんのりと頬を染める。土毅は笑みを深めた。――華星。おまえは、おれの側にいろ。おまえが、おまえらしくあるために――そして、おれのために。