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第二章 双璧之王 – 六

 戴冠式の準備に追われる伶明の元に、迎賓館に勤める役人から知らせが届いた。
「広陵の長が、広妃さまにお目通り願いたいと申し出ております」
「土毅どのが?」
 伶明は書類を繰る手を止め、顔を上げた。
「はい。叔母にあたる御方であるので、この機会に一度お話がしたい……と」
 皇族に関わることであるから、役人もわざわざ伶明自身にお伺いを立てに来たのだろう。
「…………」
 伶明は机の上に筆を転がした。目を伏せ、考える。──令尊は、あの男に気をつけろと言った。その言葉が、気にかかる。だが、単純に叔母に会いたいだけだとしたら。広妃に会ったところで、彼女から得るものはそうあるまい。彼女は政策や軍の中枢を何も知らない。もしかすると、異国と繋がりのある彼女を、奏陽がわざと遠ざけていたのかもしれなかった。
「いいだろう。広妃に取り次いでやれ」
「はい」
 礼をして下がっていく役人を見送り、伶明は再び筆を取った。
 彼が即位すると決まった日から、恐ろしく仕事が増えた。皆が自分に決断を仰ぎ、指示を求めてくる。張皓ら側近に意見を求めることも多いが、それでも最終的に決裁するのは彼なのだった。その重圧と、孤独感。多くの人に囲まれているのにも関わらず、伶明は寂しさを感じる。少しずつ、「伶明」本来の人格がかき消されていって、「皇帝」というものに置き換わっていくような、不気味な感覚を味わっていた。誰もが新皇帝である彼を必要としている。だが、誰も伶明自身を必要とはしていない……。
「いかんな」
 伶明はつぶやいた。
「まだ正式に即位もしていないのに、今からこんなことでどうする」
 己を叱咤する。──興の太子として自分は選ばれた。それが、運命が彼に課した定めなのだ。決して逃げ出すことはできない。
 もし彼が不出来な皇帝となれば、きっと口さがない者たちは彼の出自を取り沙汰するだろう。やはり賎(いや)しい身分の女から生まれた者だからだと──それだけではない、話は広妃や華星にまで及ぶかもしれない。広妃どのが男児をお産みになっておられれば、せめて華星どのが母上から子の源を取り上げてしまいなさらなければ……。亡き母のことも、義母のことも、そして華星のことも、決して悪くは言わせない。そのためには、自分が皇帝として相応しいと納得させなければならないのだ。
 ふと、伶明は顔を上げた。
「土毅……か」
 同い年にも関わらず、既に王としての才覚を現しつつある若者。奏陽すら一目おいていた彼に、興味が湧いた。
「一体、どんな男なのだろう……」
 味方につけることができるのか、いずれは敵に回るのか。伶明の胸の奥が、ぴりと緊張した。

  × × ×

 広妃の元に土毅が訪れたのは、奏陽の葬儀から五日ほどが経った後の昼下がりのことだった。義理の息子である伶明と同い年だというその青年は、顔の作りは幼いのにどこか大人びた空気を纏っているような、不思議な印象を広妃に与えた。
 土毅は片膝を床につき、頭を下げる。長く編まれた髪が肩から零れ落ちた。
「お初にお目に掛かります。広妃どの」
「ええ。初めまして」
 広妃は鷹揚に頷きながら、土毅をじっと観察した。――亡き兄には、あまり似ていない。兄の妻の顔は……もう覚えていなかった。それもそうだ、広陵を出たのはもう二十年以上前のことになる。父が死んだという報せを受けたときも、兄が死んだときも、彼女は一度たりとも広陵に帰ることはできなかったのだから。
 いつの間にか、見も知らぬ彼女の甥が広陵の王となっている。きっと、彼女の知っていた頃の広陵ではないだろう。もう、広陵は彼女の故郷ではないのかもしれない。
 寂しさに胸を詰まらせる彼女に、土毅は穏やかに微笑んでみせた。
「突然ですが――よろしければ、一度広陵へお出でになりませんか」
「え?」
 広妃は唖然と聞き返す。この青年は、いきなり何を言い出すのだろう。まさか、彼女の胸の内をよんだわけでもあるまいに。
「今年は祖父の――つまり広妃どのの父である土路(トジ)の十周忌にあたるのです。一度、墓に参られてはいかがと思いまして」
「……そう、もうそんなに」
 広妃はつぶやいた。望まぬ政略結婚を強いた父には、決していい印象は持っていない。しかし、父は少なくとも奏陽が華星に対してしたように、自分を無視するような態度をとったことはなかった。それどころか、幼い頃は末子であった彼女を可愛がってくれた。その頃の思い出は、今の彼女を支えるもののひとつだ。自分はかつて愛されていた、その淡い記憶が異国での自分を守ってくれている。
「先の皇帝陛下は、広妃どのの里帰りをお許しにならなかったとお聞きしました」
 土毅の低い穏やかな声――それはどこか、父に似ていた。
「太子殿下がどうお考えになるかはわかりませんが、もしお許しが出るようなら……」
「そうね」
 広妃は頷く。
「もし可能なら、一度くらい広陵に帰ってみたいわ。長兄――つまり、貴方の令尊は亡くなってしまわれたようだけど、他の兄弟はみんな元気なのかしら?」
「ええ。伯父さまも伯母さまも、お元気ですよ」
「そう」
 広妃は目を細める。皆、しあわせにしているのだろうか。――自分を興へと人身御供に出して得たしあわせに、浸っているのだろうか。しあわせを願う気持ちと、それを許せない気持ち。矛盾したふたつの感情が、広妃の胸を渦巻く。
「広陵の空も、土も、風も、きっと何も変わっていないのだと思います」
 土毅の静かな声に、広妃ははっとした。
「人は変わっていく――しかし、大地は変わらない」
 彼女の視線を受けて、土毅ははにかむように笑う。
「進むべき道に迷った時は、草原に寝そべって夜空を見上げるのが好きなんです。星がゆっくりと移ろうのを見ていると、不思議と心が落ち着くから」
「……そう」
 広妃は微笑んだ。――この青年は、不思議な魅力を持つ男だ。相対する者の心を、決して強引にではなくやんわりと引き寄せる力を持っている。彼は確かに、気の荒い草原之民たちの長となる資質を持ち合わせているのだと、広妃はそう思った。
「華星も、連れて行きたいわね……」
 広妃はつぶやいた。
「でも、それは伶明が許さないかもしれない」
「何故です?」
「ええ……実はね」
 広妃は思わずそれを口にしていた。
「伶明は、華星を妃にしようとしているの」
「……太子殿下が?」
 土毅は思わず聞き返していた。広妃ははっと口をつぐむ。
「…………」
 土毅はそれ以上追求しようとはしなかった。広妃はほっと安堵する。だが、一瞬目を細めた彼の眼光の鋭さに、広妃は気が付いていなかった。

  × × ×

 土毅が二度目に華星の部屋を訪れたのは、一度目から三日後のことだった。その日は取り止めのない会話をして別れただけだったが、さらに三日後の深夜に現れた彼は、以前とはどことなく様子が違っていた。
「土毅?」
 華星は気付き、彼に歩み寄る。
「どうかしたの?」
「……華星は」
 土毅は低くつぶやいた。
「太子の、妃になるのか」
「?!」
 華星は息を呑む。
「どうして、それを……?」
 土毅は顔を上げ、真っ直ぐに華星を見つめた。
「何で、先に言わなかった?」
「…………」
 華星が俯こうとするのを、土毅は彼女の顎を捉えて阻止する。
「なあ、何でだ?! 何で、妃になると言わなかった?! おれは、本気でおまえを広陵に連れて行きたかったのに……!」
「…………」
 華星は小さく唇を震わせた。
「……い」
 土毅は眉を寄せ、軽く腰を屈めた。華星はもう一度、繰り返す。
「わたしが、決めたんじゃない」
 華星は視線を上げた。その瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。
「哥哥と、令尊が決めたの」
「……勝手に、か?」
「哥哥には、嫌ではないかと聞かれたわ……でも、それもあなたと再会する前のことよ」
 華星は投げやりな口調でつぶやいた。土毅は彼女の顔から手を離し、考え込むように視線を落とす。
「哥哥は……優しいひとよ。呪われた子だと言われるわたしのことも、本当に可愛がってくれたもの」
「だから……嫌だとは言えなかったのか?」
「…………」
 華星は頷く。
「哥哥を傷つけたくはなかったし……それに、哥哥のことは本当に嫌いではないの。いえ」
 華星はゆるくかぶりを振った。
「哥哥のことは大好き」
「…………」
「でも」
 土毅の眼差しと、華星のそれが交錯する。
「哥哥の側にいても、わたしはきっと変われない……そんな気がする……」
 躊躇いがちにつぶやかれたその言葉に、土毅は目を見開いた。
「華星……」
 華星は目に涙を溜めたまま、小さく微笑んだ。
「それにね、お母さまは反対なのよ。皇帝の妃になるのがどういうことか、お母さまは身を持って知っているから」
「…………」
「でも、土毅も王なのよね……?」
 華星の言葉に、土毅は咄嗟に頷けなかった。――確かに、父には何人かの妻がいた。男児を産んだ女は大切にされるが、そうでなければ……。
 華星は彼の沈黙の意味を悟ったのだろう、顔を笑みの形にしたまま目を伏せた。
「わたしも、男に生まれたかったわ。そうすれば、お母さまだってしあわせになれたかもしれないのに。令尊にだって、言葉を掛けてもらえたかもしれない」
「……おまえが男で、太子になっていたら」
 土毅は言った。
「もしかしたら、敵になっていたかもしれないな」
「……土毅に、殺されるのなら」
 華星はつぶやく。
「諦められるかもしれないわ」
「…………!」
 土毅は咄嗟に彼女を抱き寄せた。
「馬鹿なことを言うな……!」
「…………」
「おまえは女で、華星で……それでいいんじゃないか。それで、良かったんだ」
「……そんなこと」
 華星はくぐもった声で言う。
「信じられない」
「…………」
 ――どうすればわかってもらえるのだろう。華星に出会えたことで、こんなにも土毅の世界は変わったのに。土毅は唇を噛みしめた。だが、そんなことを言っても彼女には無意味だ。土毅は、彼女の世界を変えるにはまだ力不足過ぎる。彼女がそれを望んでいるのにも関わらず、だ。それが歯がゆくてならない。これほどまでに自分の無力を痛感したことはなかった。
 彼女を広陵に連れて帰るだけでは駄目なのだ。それだけでは、彼女はしあわせにはなれない。妻にするだけでは、足りない……。
「……ん?」
 ふと、土毅は華星の机の上に積まれた書籍に気が付いた。彼女から手を離し、背表紙を覗き込む。
「これ、おまえが読んでいるのか?」
「え、ええ」
 華星は手の甲で涙を拭き、頷いた。
「本を読んでいると、時間とか、ついでに嫌なことも、すっかり忘れていられるの。だから、ついつい……」
「ふうん……」
「女には何の役にも立たないものだとは言われているけれど、好きだから。哥哥と同じくらいには、通じているつもり」
「そりゃすげえな」
 土毅も名前だけは伝え聞いているだけで、中身については全く知らないような歴史書、兵法書の類。――彼は顔を上げた。その目は何かを思いついたように、きらきらと輝いている。
「華星」
「な、何?」
「おれに、本を教えてくれ」
「え?」
 怪訝そうに眉をひそめる彼女に、土毅は繰り返して言った。
「おれに、おまえの知識を全部教えてくれ」
「…………」
 華星は目を丸くする。
「おまえはただの姫じゃない」
 土毅は彼女の手を取り、握りしめた。
「おまえは、おれの右腕になるんだ」
「…………」
 華星は訳がわからないと言うように、ただ目を瞬かせていた。