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第二章 双璧之王 – 五

 何者かに体を軽く揺り動かされて、華星は目を覚ました。
「華星」
 目の前には、璃春の顔。華星は寝起きのぼんやりした頭で彼女を見返した。
「なに? もう朝……?」
「違うの。まだ夜なんだけど、華星にお客さまが見えてるのよ」
「ええ……?」
 体を起こした華星に、璃春は手早く衣服を押しつけた。
「着替えたら出てきて。じゃあね」
「え? ちょっと、璃春……!」
 お客とは一体誰なのか。華星が尋ねる暇もなく、璃春は手にしていた燭を卓上に置き、寝室を出て行ってしまった。
「…………」
 華星は困惑しつつも、仕方なく服を着替え、鏡の前で軽く髪を整えた。左耳に例の耳飾りをつけるのは、すでに癖のようになっている。一通り身仕度を終えた華星は、寝所の帳を開けた。
「……よう」
 踏み出した華星の足が、ぴたりと止まる。目を大きく見開いたまま、華星は硬直した。
「ど、どうして……」
 視線の先に立つ土毅は、穏やかに笑っている。
「おまえに会いたくて探してたら、璃春にばったり会って……ここに連れてきてくれたんだ」
「…………」
 華星はただ茫然と土毅を見つめていた。璃春が灯したのか、壁の燭台には火が入っていて、ふたりの姿を夜の中に薄ぼんやりと浮かび上がらせている。
 土毅は一歩、彼女に近付いた。彼女はあとずさることもなく、立ち尽くしている。土毅は笑みに少しだけ困ったような色を乗せ、華星に手を伸ばした。大きな掌が、彼女の頬に触れる。
「少し、痩せたか? 顔色が悪い」
「…………」
「そりゃそうか。親父さんが、いきなり亡くなったんだもんな……」
「…………」
 華星は自分の頬に触れている土毅の手に、そっと指先で触れた。土毅の掌は、馬の手綱を握りなれているせいか皮膚が厚く、かさついている。だが、彼女の知っているどんな掌よりも――暖かかった。
「っ……」
 華星の目から、涙が溢れた。噛み殺せない嗚咽が、唇から漏れる。
「華星」
 土毅は彼女の名を呼び、その肩を抱き寄せた。華星の涙を全て包みこもうとするように、土毅は彼女の頭を胸に抱える。
「あ……ああっ……」
 華星は彼の背にしがみつき、声を上げて泣いた。何故自分が泣いているのか、彼女にはわからなかった。ただ、土毅がここにいる。自分に会いに来てくれた。そのことが嬉しくて、かなしくて、たまらなかった。

  × × ×

 華星が泣き止むまで、土毅は彼女の背中をずっと撫で続けていた。やがて、彼女が落ち着いたのを確認すると、土毅はそっと彼女を離した。
「落ち着いたか?」
「……ごめんなさい」
 取り乱したことが恥ずかしかったのか、華星は泣き腫らした顔を俯けた。
「気にするな」
 土毅は笑い、彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「前、言っただろう? 怒りたいときは怒れ、泣きたいときは泣けって」
「…………」
「な?」
「……ありがとう」
 華星は袖で顔を拭き、ようやく顔を上げた。その唇に浮かんだ微笑みに、土毅は安堵する。
「でも、びっくりした。まさか、あなたがここにいるなんて」
「華星には滅多に会えないからな。こういう機会は逃したくなかったんだ」
「……璃春に、打ち明けておいて良かったわ」
 華星は独り言のようにつぶやき、頬を染めた。
 ――華星は、自分に会えたことを喜んでくれている。土毅はそう感じて、嬉しくなった。
「璃春に聞いたぜ。おれの耳飾り、大事にしてくれているんだって?」
「…………」
 土毅は華星の髪をかき上げ、左の耳朶を露にした。そこに揺れる、金の煌き。彼はまた、己の右耳を指し示す。そこには彼女と同じものがついていた。
「これを見て、璃春はおれが誰だかわかったみたいだった」
「そう」
「最初はどうなることかと思ったけど、助かったよ」
「璃春は、わたしの一番の友達だから」
「……そうか」
 土毅は微笑む。
「いい、友達だな」
「ええ」
 華星はうなずく。その穏やかな表情を見下ろしていた土毅は、やがて彼女の肩にそっと腕を回した。
「なあ、華星」
「……何?」
「皇帝の戴冠式が終わるまで、おれはこの宮殿の中にいる。その間に、何回か話をしに来ていいかな」
「どうやって……?」
「今夜みたいにさ。璃春に手伝ってもらえれば、何とかなるだろ」
「見つかったらどうするの? 大変なことになるわ」
 眉を寄せる華星に、土毅は言う。
「だって、次いつ会えるかわからないんだぜ? 今のうちに会っておかないと」
「…………」
 華星は目を伏せた。
「だったら、なおさら会わない方がいいと思う……」
「どうしてだよ」
 語気を強めて尋ねると、彼女の睫毛が細かく震えた。
「今、たくさん会ってしまったら、帰ってしまったあと、困るもの」
 華星は膝の上で拳をぎゅっと握り締めている。
「あなたがいる生活に慣れてしまうのは……怖いわ」
「…………」
 土毅は少しだけ息を止め、やがてゆっくりと息を吐いた。
「おれと一緒にいるのは、嫌か?」
「…………」
 華星は首を横に振る。土毅はさらに問いを重ねた。
「おれがここにいたとき、どう思った?」
「……うれし、かった」
「おれだって、おまえに会えて嬉しかったよ」
 土毅は体を捩り、華星の上半身を抱き締めた。
「おまえのこと、心配してたんだ」
「心配?」
 土毅は背を屈め、華星の顔を覗き込む。
「おれが帰ってから、一度も消えてしまいたいって思わなかったか?」
「…………」
 華星は答えなかった。だが、その表情は事実を如実に語っている。土毅はため息をついた。
「そうか」
「…………」
 華星は黙って俯いている。土毅は彼女の体に緩く腕を回したまま、小さくつぶやいた。
「それでも、おまえが消えずにいてくれて――良かった」
「え?」
 華星が顔を上げると、土毅の柔らかな微笑みが目に映った。
「約束したもんな。いつか、おまえにあの詩の本当の意味を教えてやるって」

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 土毅の低い声が、華星の耳元で囁く。まるでそれは睦言のように甘い音色で、華星は顔を赤く染めた。
「今はまだ、教えてもらえないの?」
 尋ねると、土毅はうなずく。
「ここじゃ駄目だ。これは、広陵の詩だから」
 土毅は目を軽く閉じる。――広陵の風、光、砂、水。華星に、見せたい。何ものにも縛られない、自由な大地。そこにいる彼ら、草原之民。その血は、華星の中にも確かに流れている。
 やがて、土毅は瞼を開いた。
「この前聞いたよな。――おれと一緒に広陵に来ないかって」
「え……ええ」
 華星は躊躇いがちにうなずく。土毅は顔を近付けて、言った。
「おれが国に帰るまでに、返事を考えておいてくれ」
「返事を……?」
「おまえがもし、おれと一緒にいたいと思ってくれるのなら」
 土毅の吐息が、華星の耳飾りに触れる。
「おれはどうやってでも、おまえをいずれ広陵に連れていく」
 華星の肩が、ぴくりと震えた。
「でも、もしそうでないなら――おれはもう、おまえに会いには来ない。約束のことも、忘れる」
「…………」
 華星が何も言えないでいる間に、土毅は彼女の髪に唇をそっと押しあてた。
「そろそろ戻るよ。見つかったらまずいし」
「ええ……そうね……」
 答える華星は、どこか寂しげである。土毅は彼女の肩を抱く腕に力を込めた。
「また来る。次はもっといろんな話をしよう。おれはおまえをもっと知りたいし、おまえにもおれのことをもっと知って欲しい」
 言って、彼女から体を離す。華星は顔を上げた。その瞳の濡れたような色に、土毅はわずかに息を呑む。
「……わかったわ」
 華星は小さく言った。
「それから……さっきのことも。考えておく」
「おう」
 土毅は椅子から立ち上がろうとして、中腰のまま止まった。
「?」
 不思議そうに見上げる華星の上に腰を屈め、ささやく。
「嫌だったら、()けろよ」
「…………」
 赤い唇に、自分のそれを寄せる。華星は――避けなかった。

  × × ×

 璃春はひとめにつかぬように土毅を送り出した後、華星の部屋に戻った。ひとり椅子に座り込んでいる彼女の顔を、心配そうに覗き込む。
「華星、目が赤いけど大丈夫?」
「う、うん」
 華星は慌てて目の周りをこすった。
「あのひとに泣かされたんじゃないわよね?」
 険しい顔で尋ねる璃春に、華星は首を横に振る。
「そんなんじゃないわ……大丈夫。わたしが勝手に泣いちゃっただけ」
「そう」
 璃春はほっと息をついた。――そして、ふ、と微笑む。
「そういえば、華星って人前で泣かないよね」
「……そうかしら」
 華星はそう答えたが、確かに璃春のその言葉は当たっていた。あんなに人前で取り乱したのは、初めてのことだ。何故か、土毅の顔を見た瞬間に体中の力が抜けて――手で頬に触れられたとき、もう駄目だと思った。
「あのひとは、華星の特別なんだね」
 璃春はつぶやくと、華星の手を握った。
「璃春……?」
「華星は、華星が幸せになることを一番に考えていいんだからね」
 彼女の瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「国のこととか、家族のこととかも大事だけど、でも一番大切なのは自分なんだから」
「……璃春」
 華星は大きく目を見開き、やがて微笑んだ。
「ありがとう」
 ――空は、かすかに白み始めていた。