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第二章 双璧之王 – 二

 曇天に、半旗が翻っていた。黒い喪服に身を包んだ華星はそれをぼんやりと見上げる。──胸を占めるこの感情が何なのか、彼女にはわからなかった。悲しみではない。怒りでもない。ただ、ぽっかりと空虚だった。

 数時間前。突然伶明が彼女の部屋に飛び込んできて、強く彼女を抱きしめた。
「あ、哥哥?」
「華星……落ち着いて聞いてくれ」
 驚く華星の肩に顔を伏せ、伶明は言った。
「令尊が、亡くなった」
「……え?」
 華星は顔を上げ、ぼんやりと聞き返す。伶明は深く俯いていて、彼の表情を見ることはできなかった。
「令尊が、死んだ」
「令尊が……?」
 華星はただ、鸚鵡返しにつぶやく。伶明の言う意味が、よくわからなかった。令尊が亡くなった――死んだという。つまりそれは、どういうことなのだろう……。
 彼女の背に回された伶明の腕は、細かく震えている。やがて、彼はしぼりだすように呻いた。
「華星、すまない……」
「哥哥?」
「おまえを、令尊の最期に会わせてやることができなかった……」
「…………」
 伶明の胸元に頬を押し付けられながら、華星は心が妙に静まり返っていくのを感じていた。――令尊が、亡くなった。そして、哥哥はそれを予想していた……令尊が死に瀕していることを知っていた。わたしには知らされないことを、哥哥は知っている。哥哥は、太子だから。だから、彼は危篤だった令尊にも会えた。言葉を交わすこともできた。わたしにはできなかったことが、哥哥にはできた。それは、ずっと前からそうだった……。
「華星?」
 心配げな声に、華星ははっと伶明を振り仰いだ。慌てて、いつも通りの控えめな笑みを浮かべてみせる。
「わたしなら、大丈夫です。大変なのは、哥哥の方でしょう?」
「……華星……」
「葬儀のことも、即位のことも……わたしにお手伝いできることがあれば、言って下さいね」
「…………」
 伶明は辛そうに目を細め、華星から眼を逸らした。その表情の意味が、彼女にはわからない。
「哥哥? どうかされましたか?」
「いや。何でもないよ」
 伶明は小さく笑みを浮かべ、華星を離した。
「おまえの言うとおりだね。これからいろいろと(せわ)しくなるが、よろしく頼むよ」
「はい」
 微笑んだ華星にひとつうなずき返し、伶明は彼女の部屋を後にした。

 その後彼女の部屋にやってきた広妃は、無言で泣き崩れた。慌てて抱き起こす華星に取りすがり、広妃はただ泣いていた。一体何故母は泣いているのだろう、と華星はまるで他人事のように不思議に思った。母は夫である奏陽を愛してはいなかった。むしろ疎ましく、憎しみすら抱いていたはずである。それなのに、何故彼の死を聞いて涙しているのだろう。
 ――やがて、広妃は落ち着きを取り戻したようだった。赤い目で弱々しく微笑みかける。
「ごめんなさいね。いきなり取り乱したりして」
「いえ……突然のことでしたし」
 華星はありきたりな言葉で答えることしかできなかった。
「……最期の最期まで、冷たいひと」
 広妃はつぶやいた。
「結局、死に目にもあわせてくれなかった……」
「…………」
「あなたのこともね、華星」
 広妃は彼女をそうっと抱き締める。母の手が、彼女の髪を優しく梳いた。
「我慢しなくてもいいのよ。つらいときは、泣けばいいのだから」
「……はい。でも、わたしは大丈夫です」
 華星は伶明に言ったのと同じように言い、微笑む。広妃ははっとしたように彼女を見つめ、やがて唇を噛んだ。――伶明と似た反応。どうしてだろう、と華星は訝しく思う。
「華星……」
 広妃は彼女を抱いたまま、小さくつぶやいた。
「あなた……悲しくないのね」
「…………」
「あなたにとって、あの男はあまりにも遠い存在だったから……悲しいと、思えないのね」
「…………」
 華星は息を呑んだ。――そうだ。自分は悲しくない。父親がいなくなったというのに、何とも思っていない。
「だって」
 華星は俯いた。
「最初から……いないのも、同じだったから……」
「…………」
 広妃はただ黙って彼女を抱く力を強める。――不意に、華星の目からひとつぶの涙が零れ落ちた。父の死が悲しかったからではない。その死を悲しめない自分が、悲しかった。

  × × ×

 喪に服す準備をしていた伶明の元を、宰相である張皓(チョウコウ)が訪れた。既に喪服に身を包んでいる。
「このたびのこと、誠に御愁傷様でございます」
 深々と礼をする、その白髪混じりの頭を伶明は見つめた。人一倍猜疑心の強かった奏陽が唯一といっていいほど、全幅の信頼を寄せていた人物、それが張皓であった。年は奏陽と同じくらいであろう。伶明が知る限り常に冷静で、平常心を保つことに掛けては彼の右に出る者はいない。その平静さこそが、彼の持つ最大の強みかもしれなかった。彼の決断は決してぶれることがなく、曇ることもない。
 また彼は必要なことを行い、不必要なことは決して行わぬので有名であった。伶明の元を訪れたのも、それが今必要だからであろう。伶明は尋ねた。
「何か用があるのだろう? 何だ?」
「はい。僭越かとは存じましたが、葬礼について申し上げたいことが」
 靴音も立てずに歩み寄り、張皓は伶明を真っ直ぐに見据えた。
「言ってくれ」
「葬礼はできる限り壮大に行った方が良いと思われます。周辺諸国からも賓客を招かれませ。わが国が先帝さまの亡きあとも強大であり続けるということをお示しになる必要があるかと」
「……なるほど」
 伶明はつぶやく。
「葬儀を盛大に執り行えば行うほど、わが国の結束力は乱れておらず、つけいる隙はないということを各国に知らしめることができましょう」
「それはもっともだ」
 伶明はうなずいた。
「すぐに各国へ使者を出そう」
「取り計らっておきます」
「頼む」
 張皓は一礼したあと、再び顔をあげた。伶明は苦笑する。
「他にも何かあるのか? 言いたいことは何でも言ってくれ」
「……人事は、如何なさいますか」
「人事?」
「先帝は即位の折、先々帝の人事を受け継がず、一新なさいました。太子さまは如何なさいますか」
「…………」
 伶明は少し考えた。磨き上げられた机の上に映る自分を、見るともなく眺める。――自分は未だ、若造だ。大国の主に相応しい器には育っていない。自分はこれから、成長せねばならない。できるだけ早く、大きく。興の皇帝としての自分を、作り上げなければならぬ。
 張皓は、黙って彼の言葉を待っていた。伶明はちらりと視線を上げる。
「わたしはおまえに()く器の者を知らぬ。これからも宰相として、わたしを支えてくれ」
「勿体なき仰せに御座います」
 張皓は深々と頭を下げる。
「太子さまにお仕えできることを、光栄に存じます」
「そうか?」
 軽い気持ちで問い返した伶明に、張皓は低い声で答えた。
「はい。……太子さまはきっと善政を()かれますでしょうから」
「…………」
 伶明は思い出す――張皓は奏陽の行った、強硬的な外交手段と領土拡大政策を決して快く思っていなかった。無私のひとともいわれた彼は、あくまで主君である奏陽の思惑に従ったが、時には戦に対して反対を述べることもあったという。特に彼は広陵に対して慎重であった。広い肥沃な土地と、強く逞しい馬を持つ広陵を、決して敵に回すべきではないと考えていたらしい。そういえば、奏陽と広妃との縁談を勧めたのも張皓であった……。
「おまえの期待に背かぬようにせねばな」
 伶明は短く答え、微笑(わら)った。

 張皓が辞した後、伶明は窓際に寄って空を眺めた。まだ昼間なのに太陽は見当たらず、薄暗い。厚い雲が空を覆っていた。
「……華星」
 その名を小さくつぶやく。
 伶明は彼女を気に掛けていた。先ほど奏陽の訃報を知らせた時は、さほど動揺していないように見えたが……それが彼女の本心かどうかはわからない。また、自分の感情を押し殺しているのかもしれない。――それとも、あまりにも父親が遠い存在過ぎて、その死の実感がわかないのかもしれない。それはそれで悲しいことだと思った。たとえその出生にどんな事情があったにせよ、奏陽は華星のたったひとりの父親だったのだから。
 伶明にとっても、奏陽は決して優しい父親などではなかった。あくまで彼は伶明を己の後継者としてしか見ていなかったように思う。それでも、伶明は彼から多くのものを学んだし、教わった。それが彼らにとっての父子のかたちだったのだと、伶明はそう思っている。本来彼が父親から受けるべきだった愛情は、亡き母や他の太子付きの養育係が注いでくれた。
 華星は違う。確かに彼女には実母がいた。そして実母は彼女を愛している。だが、その愛は時に華星を苦しめているのではないか――伶明はそう思うことがあった。広妃はあまりにも己の境遇に捕らわれすぎている。望まない結婚、愛のない夫――広妃が華星に傾けている愛情は、まるでその埋め合わせのようにすら見えるのだ。
 恐らく、華星は別の形の愛情を欲している。何者にも束縛されない、自由な愛情を。
「喪が明けるまで、婚儀は先延ばしか……」
 奏陽の言い残した言葉を思い出し、伶明はつぶやく。
 ――華星に自由を、与えたい。だが、皇帝となる自分にそれが可能なのか……。一抹の不安を抱えながら、それでも必ず彼女をしあわせにしてみせる、と。伶明は誓いも新たに胸に刻んでいた。