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第二章 双璧之王 – 三

 興の皇帝の訃報が広陵に届いたのは、土毅らが帰国して間もなくのことであった。先日訪問したばかりとはいえ、隣国の皇帝の葬儀を無視はできない。土毅は使者に対し、参列を約束した。
 土毅の留守を預かるのは、弟の土葉である。土毅は彼を私室に呼んだ。事務的な連絡を済ませ、国の首領としての立場を離れると、ふたりはすぐに仲の良い兄弟の顔に戻る。
「あの時、宴に姿を見せなかったのは体調が優れないせいだったんだな」
 土毅はつぶやく。
「皇帝が変わって、さてどうなるか」
「先日、太子どのには会えたのですか?」
「ああ」
 土毅は脳裏に伶明の姿を思い浮かべた。──華星の異母兄。だが彼自身は彼女とあまり似ておらず、父である皇帝とも異なった印象だった。母親似なのかもしれない。柔和な微笑みを湛えた彼は、理知的な、育ちの良さを感じさせる男だ。父親よりは線が細く、ふとした声音にも感情がにじむような人間味もある。政治能力はともかく、人望では父親を上回るだろう。だが、多くの点で彼は未知数だった。
「広陵に対する敵意は特に感じられなかったが……今後どうなるかはわからんな。父親の強権外交を引き継ぐのか、穏健派に転じるか」
「そうですね……」
 思慮深げに目を伏せる弟を見遣り、土毅は言った。
「なあ、土葉」
「はい?」
「おまえにひとつ、言っておきたいことがある」
 土毅は外に通じる(とばり)を開けた。涼しい風が、ふわりと彼らの周りを吹き抜けていく。
「おれには、どうしても欲しいものがあるんだ」
「欲しいもの……ですか」
「ああ。これは広陵の長としててはなく、おれ自身が欲しているんだが」
「哥哥自身が?」
 土葉は兄が何を言おうとするのかはかり兼ねているようで、鸚鵡返しに聞き返すだけだった。
「…………」
 土毅は空に投げていた視線を傍らの弟に戻し、ふ、と笑った。
「興の姫が、欲しいのさ」
「え……?」
 土葉は目を丸くする。その表情に、土毅は笑みを深めた。
「名は華星。おれたちの叔母上が産んだ、いわゆる、呪われた姫君だ」
「……ああ」
 土葉は息をのみ、うなずいた。その姫のことなら、彼も良く知っていた。政略結婚で嫁いだ叔母、広妃──だが、太子を望まれたにも関わらず生まれたのは姫だった。しかも、広妃は二度と子を産めなくなったという……。
 その総ては姫のせいではない。だが、彼女は呪われていると言われる──哀れだな、と土葉は思った。
「しかし、何故」
「何故だろうなあ」
 土毅は照れるでもなく、ひどく穏やかにつぶやいた。
「それ、本人にも聞かれたけど……」
「言葉を交わしたことがあるのですか?」
 驚く土葉に、土毅は苦笑した。
「さすがに、話したこともない相手に惚れられねえだろう?」
「……それは、そうかもしれませんが」
「とにかく──だ」
 土毅は真顔に戻り、土葉を見つめる。
「おれは広陵の長だから、国益を優先して動く。だが、おれは土毅というひとりの人間として、この恋を成就させてみせる」
「哥哥……」
 茫然としていた土葉が、ふと身を乗り出した。
「しかし、先方は一体どう想っているのです? まさか、相手が望まぬのに力づくで手に入れようとする哥哥ではありますまい」
「当然だ」
 土毅はうなずく。
「華星の気持ちなら──もうすぐ確かめられるさ」
「皇帝の葬儀で、ですか……?」
 土葉の言葉に、土毅は微笑で答える。
「……わかりましたよ」
 土葉はため息まじりに言葉を吐き出し、笑った。
「この不肖の弟、何なりとお手伝いしましょう」
「ありがとうな」
 恬淡と礼を述べる兄──眩しげにそれを見つめた土葉は、広陵の大地に力強くしなやかに()いる、あおい若草を思った。

  × × ×

 奏陽がこの世を去ってから、半月が過ぎた。その葬儀が、伶明の次期皇帝としての最初の仕事である。張皓ら側近に助けられながら、彼は何とか準備を整えているところだった。葬儀の直後には、己の即位も控えている。これまでに経験したことのない重圧が伶明を襲っていた。
 徐々に集まり始めた諸国の賓客たちとの謁見をこなしつつ、ふと空いた時間。伶明は数日ぶりに華星の部屋を訪れることにした。この前までは毎日のように顔を合わせていたのに、皇帝への即位が決まった途端にそれすら不可能になってしまった。伶明はため息を漏らすが、それでも彼女の元に行けるのは嬉しかった。彼女の笑顔を見て、話を交わすことができれば、この疲れも癒せるような気がする。
「華星」
 声を掛けるが、返事は戻って来なかった。璃春ら侍女の姿もない。
「…………」
 少し躊躇った後、部屋の中に足を踏み入れる。机の上に乱雑に本が積み上げられているのが目に入り、伶明は苦笑した。背表紙を眺めると、彼自身も読んだ覚えのある史書などのほかに、兵法書なども混ざっていて、何の為に彼女はこれを読んでいるのだろうと訝しく思った。太子として教育された伶明と違い、華星にはさほど深い教養は求められていない。皇族の子女として恥ずかしくない程度の見識があれば、十分なのである。だが、華星は自らその枠を超え、伶明とほぼ変わらぬ程度の知識を身につけた。伶明が彼女に惹かれた理由のひとつは、その聡明さである。美しく着飾ることしか頭にないような女より、自分と対等に議論ができるものの方が面白いではないか。それにもちろん、華星が美しくないというわけではない。
「華星……?」
 名を呼びながら奥へと進んでいくが、彼女の姿はない。伶明は寝所の帳の前に立ち、再び躊躇った。ここまで勝手に入ってもいいものだろうか? いくら兄とはいえ――いや、先帝には結婚を許された仲なのだから――しかし――。
「…………」
 暫しの逡巡の後、伶明は華星の寝所に入った。
「……華星」
 白い敷布の上に、黒い服を着た華星が丸くなっている。
「…………」
 伶明は足音を消し、歩み寄った。そうっと屈みこんで顔を覗くと、彼女は眠っているようだった。白いおもてには何の表情も浮かんでいない。寝息すらたてておらず、伶明が思わず彼女の口元に手をかざして呼吸を確認したほど、静かに眠っていた。
 ――そういえば、華星は眠っている時が一番楽しいと言っていたか……。伶明はため息をつき、腰を屈めたまま華星の寝顔を眺めた。そうはいっても、たいして楽しそうには見えない。眠っているのだから当たり前か。
「何の夢を見ているのだろうね」
 伶明はつぶやき、彼女の髪をそうっと梳く。すると、彼女の左の耳朶に目が止まった。金色の、小さな耳飾り。彼には見覚えのないものだ。
「…………」
 手を伸ばした時、華星がぴくりと動いた。伶明は慌てて身を引く。
「ん……」
 華星が身じろぎし、小さく呻いた。伶明はふ、と笑う。小動物のように身を丸めて眠る彼女が、ひどく可愛らしく見えた。
 薔薇色に上気した頬に、唇を寄せる――その時。
「、き……」
 華星が何か、つぶやいた。伶明はぴたりと動きを止める。彼の視線の下で、華星がふわりと微笑んだのだ。彼が見たこともないような、自然で穏やかな笑み。――何の夢を見ているのだろう。それとも……「誰か」の……?
「…………」
 伶明は立ち上がり、華星に背を向ける。何故かひどく、胸騒ぎがしていた。

 華星の部屋の前で伶明は璃春と出会い、足を止めた。璃春は膝を折って礼をした後、首を傾げて伶明を見上げる。
「起きていらっしゃいましたか? 先ほど少し眠ると言っておられたのですけど……」
「あ、ああ。うん」
 伶明は曖昧につぶやき、笑みを作った。
「まだ眠っているようだったよ。また、出直す」
「何かお伝えしておきましょうか?」
「いいや」
 伶明は首を横に振る。
「特に用があったわけではないからね」
「そうですか」
 再び礼をして辞そうとした璃春を、伶明は呼び止めた。
「少し、聞きたいことがあるのだけど」
「はい?」
 振り返った璃春に、伶明は躊躇いがちに尋ねる。
「華星には……誰か、特別仲のいいひとはいるのかい?」
「仲のいい、ひと?」
「ああ。君たち侍女以外に……たとえば、誰か男のひとで」
「男性、ですか」
 璃春は首をひねった。
「わたしの知る限りでは、特に……」
「そう、ありがとう。――あ、それから」
 伶明は慌てて付け加えた。
「華星の新しい耳飾り、知ってる?」
「あ……ああ、ええ」
 璃春は頷いた。
「わたしが市井で買ってきたものなんです。綺麗なのですけど、片方しかなくて……でも、華星が気に入ってくれて」
「そうか」
 伶明はほっと息をついた。――それならいい。
「呼び止めてごめんね」
「いいえ」
 璃春はそう言った後、ふと伶明を見上げた。
「……伶明さま、ご多忙と存じますが、どうぞお体をお大事に。華星も気に掛けていましたから」
「そう……華星も」
 口元を緩める。華星が自分を気に掛けてくれていた、そのことが彼には何より嬉しかった。

「…………」
 立ち去る伶明を見送ってから、璃春はほう、とため息をついた。――伶明に、嘘を悟られはしなかっただろうか。
 璃春は耳飾りの送り主を知っている。ちょうど三日ほど前、華星が打ち明けてくれたのだ。
『これはね、広陵の土毅という方にいただいたのよ……』
 絶対に秘密なのだと。そう言って、華星は璃春にだけ教えてくれた。彼女のその気持ちを、璃春は決して裏切れない。
 まだ華星自身も気付いていないのかもしれないが、「土毅」の名を口にした時の彼女の表情は、璃春がついぞ見たことがないような――。
 伶明は、非の打ち所がないほど良い人物だ。賢明で、優しさと意志の強さを兼ね備えている。彼が華星を必ず幸せにしたいと願っていることも璃春は良く知っているし、伶明にならばそれができるのではないかとも思っていた。
 華星自身も、伶明を慕っていることに違いはないだろう。だが、それはあくまで身内として――家族としての愛情のように見える。
 彼女が本当に求めているのは、伶明ではないのかもしれない。土毅という名の異国の王がどのような人物なのか、璃春は知らないが……少なくとも、華星の内から本物の笑顔を引き出したのは、彼だ。それだけは、間違いなかった。
「……どうか」
 璃春は両手を胸の前で組み、つぶやく。
「華星が涙を流すことがありませんように……」
 幼い頃からずっと華星の側にいた彼女の、それがただひとつの願いだった。