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第二章 双璧之王 – 七

 伶明の即位は、予定通りに滞りなく行われた。儀式そのものは荘厳ではあったが短時間で終了し、夕刻からは新皇帝主催の宴が大々的にもうけられた。これは、伶明と他国の首領たちの交流を目的としたものである。奏陽の時代は、周辺諸国に対してあくまで興の立場を上とする朝貢外交を強いたが、年若い皇帝である伶明が同じ態度に出れば強い反感をかうだろう。伶明自身もまた、外交路線を穏便なものへと転換したいと願っている。宴席上でも伶明は控えめな笑みを浮かべ、やや酔いの回った様子の者たちの会話を聞く側に回っていた。
 ふと、伶明は土毅に目を留めた。彼は水晶の杯を手にし、ゆっくりと唇を潤している。こうしてみるとやはり、一国の主としては一際若い。だが、今後は同い年である伶明もまた、皇帝としてこの国を率いていかなければならない……。
「土毅どの」
「……はい」
 土毅はすぐに杯を置き、伶明に向き直った。伶明は詰問調にならぬよう、穏やかに問い掛ける。
義母(はは)とは会えましたか?」
「ええ。お取り計らい、感謝致します」
 土毅は静かに微笑した。伶明は軽くうなずいて、彼の謝意を鷹揚に受け止める。
「義母は、祖国を懐かしんでいるでしょうね」
 何気なくつぶやいた言葉だったが、土毅は素早く反応した。
「そのことなのですが……実は、今年は先々代の十周忌にあたります。広妃どのには実父にあたるお方なれど、未だ墓参りもかなっておられぬとか」
「ほう、左様でしたか」
 伶明は目を見開いた。
「もし陛下にお許しいただけるなら、一度ぜひ広妃どのを広陵へお招きしたいのですが」
「……考えておきましょう」
 伶明は慎重に答え、そして一言付け加えた。
「それから、わたしのことは伶明とお呼びいただけませんか」
「え?」
 土毅はきょとんと瞬きをした。そんな表情をすると、この男はひどく子供っぽく見える。
 伶明は苦笑を浮かべた。
「即位したからといって、名を呼んでもらえぬのは寂しいものです。特にあなたとは年も近い」
「……それでは」
 土毅はうなずいた。
「伶明どの、と呼ばせていただきましょう」
「ええ。……これからもよろしくお願いしますよ、土毅どの」
「ええ」
 伶明が卓を超えて伸ばした手を、土毅はゆるく握った。伶明の手はほっそりとして白く、指が長い。同じ年齢とはいえ、土毅の日に焼けた手の甲とは随分異なって見える。
 ――ふたりの若き王の握手。それを、諸国の王たちは遠巻きに眺めていた。

  × × ×

 宴には、皇族の女性たちは出席していない。宴席を辞した伶明は、その足で華星の部屋を訪れた。
「哥哥」
 伶明を見て、華星は顔をほころばせる。伶明はほっと息をついた。
 璃春に茶の用意を命じ、華星は伶明を椅子へと導く。伶明は彼女の手を取り、握った。
「こうやっておまえとゆっくり顔を合わせるのも、何だか久しぶりな気がするな」
「そうですね」
 華星は伶明を見上げ、にこりと微笑んだ。
「哥哥、ご即位おめでとうございます」
「そんな、他人行儀な言葉は要らないよ」
 伶明は苦笑した。
「わたしはわたしで、何も変わらないのだから」
「……でも、お忙しくなったでしょう?」
「それはそうだけれど」
 璃春が湯気のたった茶器を運び、卓上に置いていった。伶明は手を伸ばし、器の側面に指を這わせる。伝わってくる温もりが、心地よかった。
「……あの、哥哥」
「ん?」
「わたしに何かお手伝いができることがあったら、何でも言って下さいね」
 華星は真っ直ぐに伶明を見つめた。伶明は驚いたように瞬く。
「華星……?」
 真剣な彼女の眼差しに、伶明は当惑した。苦笑を浮かべ、彼女の髪を撫でる。
「何も心配は要らないよ。華星の手を煩わせたりはしない」
 伶明はゆっくりと語り掛ける。
「わたしがおまえを守ってあげる。だから、安心してわたしに任せておいで」
「…………」
 華星は何事かを言おうとするように、唇を小さく開けた。だが、結局何も言わずに口をつぐんでしまう。
 伶明は茶器を手に取り、その芳醇な香りを楽しんだ。目を細め、つぶやくように言う。
「おまえの側では、何も考えないで、のんびりしたいな」
「……そうですか」
 乾いた声が気に掛かり、伶明は華星の顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
「……いいえ」
 華星は薄く微笑した。
「何にも」
「そう?」
 伶明は卓上に茶器を置き、華星の頬に手を触れる。
「何か、言いたいことがあるんじゃない?」
「いいえ」
「……なら、いいけど」
 伶明の胸に、わずかな違和感が生まれた。何か、華星は隠しごとをしているのではないか……自分の知らない、何かがあったのではないか。
「哥哥は、ずっとわたしに優しくして下さいましたよね」
 だが、今の華星の笑顔はいつもと変わりないようにみえる。伶明は戸惑いながらも、彼女を見つめた。
「それは、何故なのです? 妹なら、他にもおりますのに」
「そりゃあ、三人とも大切な妹だけれど」
 伶明は華星の長い髪を指で梳く。
「おまえは……おまえだけはわたしが守らなければと、そう思ったんだ」
「…………」
 華星の眼差しと、伶明のそれが絡み合った。
「誰も知らない、おまえの優しさも知性も……わたしだけが知っている」
 伶明は目を細める。
「おまえには、いつでもわたしの側で笑っていて欲しいんだよ」
 突然、華星は左右に激しくかぶりを振った。それは、ひどく珍しい仕草だった。
「でも……わたしは強くなりたい。守られてばかりではなくて、強くならなければならないのです」
「華星?」
 華星は伶明から視線を外し、拳を握り締める。
「そうでないと、わたしは……わたし自身が……」
「華星」
 伶明はやんわりと彼女を遮り、華星を優しく抱きしめた。
「何も心配しなくていい。わたしがずっと側にいるから」
「……哥哥」
「強いことは大切かもしれないが、なろうとしてなれるものでもない。おまえの強さは、わたしが引き受けるよ。それでいいだろう?」
「…………」
 華星は伶明の腕の中で俯いた。静かに強張っている肩を、伶明は何度も撫でさする。──だがどれだけ時間が経っても、彼女の体から力が抜けることはなかった。
 その時彼女に起こっていた本当の意味での異変に、伶明は結局気付かなかったのだった――そして最後まで、彼は気付くことはできなかったのである。

  × × ×

 その日の夜更けに、土毅がふらりと華星の部屋に現れた。華星はしっかりと服を着て、彼を待っていた。眠れなかったのだろうか、少し目が赤い。
「戴冠式は終わった。そろそろおれは広陵に帰る」
 そう言うと、華星は小さくうなずいてみせた。
「それで……決めたか」
「……ええ」
 土毅の問いに、華星は再びうなずいた。その白い顔はわずかに強張っている。
「わたし……」
 ――ごくり、と。己が唾を飲む音が、土毅には大きく聞こえた。
「あなたと、広陵に行きたい」
 ゆっくりと、目の前に差し伸べられる手。土毅はそれをとん、と受け取った。冷えた指先を、強く握り締める。
「わたしは……」
 華星の顔を見つめながら、土毅の心の臓は爆発しそうなほどに早鐘を打っていた。
「あなたと、還りたい」

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

「華星……」
「あなたのいるところに、いきたい」
 華星は微笑んだ。
「どれだけ時間が掛かっても、ちゃんと待っているから。だから……」
 華星は頬をうっすらと紅潮させている。
「わたしを、連れて行って」
「華星」
 土毅は彼女を強く抱き締めた。
「わかった。必ず、連れて帰る」
 ――次期皇妃と目されている彼女を、一体どうやって連れ帰るのか。興とことを構えることになるかもしれないのに、それでもいいのか。土毅は頭の片隅でちらと考えたが、すぐにそれを彼方へと追い遣った。細かいことは、どうにだってなる。大切なのは、華星が自分を選んでくれたということ。自分とともに帰りたいと言ってくれたこと。今はそれだけで良かった。
「華星」
「何?」
 身を捩って彼を見上げる華星の、その瞳の中に自分が映っている。
「おれが、好きか?」
「…………」
 華星の頬がさらに赤くなった。
「答えてくれよ……なあ」
 土毅は彼女の頭を自分の肩に押しつけ、ささやく。
「その言葉で、おれは頑張れるから」
「わたしの……言葉で?」
「ああ」
「……土毅」
 華星は両腕を伸ばし、彼の背中をかき抱いた。
「わたし……土毅が、好き」
「華星」
「あなたと、一緒にいたい……」
 それがどれほど困難なことであるか、華星にもわかっていた。兄のこと、母のこと、国のこと――だが、今は全てどうでもいいことのように思えた。この身に絡みつくものを全て振り捨てて、駆け出したい。その先で土毅が待ってくれているのなら、どこまででも全速力で走れる。そんな気がした。
「……なあ」
 土毅は上ずった声で尋ねた。
「なんで、おれなんだ?」
「あら」
 華星はくすりと笑う。
「理由が必要?」
 ――それは、かつて土毅が華星に言った言葉。「理由がないと駄目なのか? 理由がないと――安心できないか?」と。土毅はそれを思い出し、笑った。
「そうだったな」
 本当は、理由がないわけではない。土毅にも、華星にも、それぞれが理由を持っている。だがそれらは言葉にするとひどく陳腐なものになってしまいそうな気がした。いくら言葉を並べても、そこにきっと意味はない。ただ側にいることを、傍らで生きることを、心の底から望んでいるのだ。
「華星」
 土毅は、腕の中の少女の髪に頬を寄せる。
「……好きだよ」
 出会ったときに感じた、強さと脆さ。籠に閉じ込められた、孤独で美しい魂。それでも歌うことをやめないそれは、自由に生きていた彼を引き寄せ、捕らえた。
 この少女は、籠の中に入れて愛でるべきものではない。手に手を取って、広い世界を自由に飛び回るのだ。そのための翼なら、彼女は既に持っている。――立派な、大きな翼。青い空を夢見ながら、今はまだそよ風に震えているだけの翼。いつか、彼の側で力強く羽ばたくだろう。
「絶対に、いなくなっちゃ駄目だ」
 土毅はつぶやく。
「おまえが、おれには必要なんだから」
「…………」
 華星は驚いたように目を見開き、土毅を見つめた。
「わたしが……あなたに、必要?」
「あたりまえだろ。好きなんだから」
 まじまじと見つめられ、土毅は顔を赤らめて目を背ける。それを見て、華星は微笑んだ。
「そう……」
 こんなに強い人が、自分を必要としてくれている。そのことが、華星には無性に嬉しかった。
 確かに、伶明は優しい――けれど、それは彼女を決して楽にはしてくれない。彼女を救ってはくれない。優しくされればされるほど、彼女は苦しくなる。守られてばかりの自分、優しくされてばかりの自分、役に立たない自分、弱い自分。己に対する嫌気は募るばかりだった。
 伶明には感謝しているし、兄として愛してもいる。だが、彼の側では自分は変われない。そして、自分はもうこのままではいたくない。自分の居場所がわからず、何を拠りどころに生きればいいのかもわからないような、そんな生き方はしたくない。――呪われているというのなら、その呪いを解かなければならないのだ。

 ――夜が白む前に、土毅は自分に宛がわれた部屋に帰らなければならない。
「華星」
 土毅は抱き締めたままでいた彼女の体を、そっと離した。
「待っていろ」

 還りたい
 還りたい

「おまえの元に、おれは必ず還るから」

 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 華星は土毅をじっと見つめ、やがてしっかりと頷いた。