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第二章 双璧之王 – 一

 時の皇帝、奏陽が病床に臥したのは、広陵からの使節が帰国して間もなくのことであった。あまりに突然のことであり、国内の動揺を防ぐため、また対外的には隙を見せぬため、その事実はしばらくの間公にはされなかった。知るのは宮廷勤めの典医たち、僅かな側近、そして太子である伶明。彼ら以外の者に対しては皇帝自らが箝口令を敷いた。
 奏陽が倒れて三日。伶明は自室に典医たちを呼び出した。
「率直に言って欲しい。令尊のご容体はどうなのだ」
 今思えば、徐々に奏陽は痩せてきていた。それは、人知れず彼の体を病が蝕んでいたせいだったのだろうか──伶明は唇を噛み締める。
 典医たちは顔を見合わせるばかりで、一言も発しない。胸の内を口にすることを恐れているようであった。
「遠慮は要らぬ、正直に言ってくれ」
 伶明が重ねて促すと、最年長の典医が恐る恐る口を開いた。
「ご病状は、かなり重いものと思われます」
「……やはり」
 伶明は小さくつぶやいた。
「以前から少しずつ病は進行していたものと推察されますが、我々にこれまでご相談はなく……ご無理をなさっていたのでしょう」
「…………」
 伶明はため息をついた。
「一番の問題は、お食事をお取りになれないことなのです」
 典医たちは溜まっていた不安を吐き出すように、次々に語り始めた。
「どれほど柔らかく炊いた粥ものどを通らず……水だけはかろうじてお飲みになられていますが、衰弱は著しい」
「そうか」
 伶明は目を閉じた。──これは、覚悟を決めなければならないのかもしれない。父から受け渡される、天下に唯一無二のもの、帝位。それを継ぐ時が、もうすぐ来るのかもしれない……。
「太子さま」
 典医の声に、伶明ははっと目を開く。
「今のうちに、陛下にお目通りおき下さいませ」
 典医は真剣な顔で彼を見つめていた。
「お言葉を賜るなら、今ですぞ」
「…………」
「妃どのや妹君にも、ぜひ」
 伶明はうなずいた。
「……ああ。令尊の許しを得たなら、すぐにでも」
 特に華星には、一度くらい父親として優しい言葉を掛けてやって欲しい。自分よりも誰よりも、彼女に。伶明はそう願った。

  × × ×

 華星の指が左頬の横の髪をかき上げるそのさまを、璃春は見るともなく眺めていた。彼女の薬指が、左耳に触れる。――そこに見慣れぬ影が揺らめくのを見て、璃春は小首を傾げた。
「どうしたの、それ」
「え?」
 華星はびくりと手を引っ込め、彼女の左耳は再び豊かな黒髪に覆われる。しかしその奥にきらりと光るものがあるのを、璃春は見逃さなかった。
「新しい耳飾り? 見せてよ」
 華星は手を伸ばしてくる璃春を一瞬留めようとしたが、やがて諦めたように小さくため息をついた。
 華星の左耳で揺れているのは、金色の小さな耳飾りだった。石は嵌っていないが繊細な細工が施されたそれは、璃春の目を惹きつけるのには十分なほど美しい。もう片方を見ようと右耳に視線を向けた璃春は、おやと目を見開いた。
「これ、片方しかないの?」
「え、ええ。そうなの」
 華星は口ごもりながらも答え、微笑んだ。
「拾ったのよ」
「拾った?!」
「あんまり綺麗だったから、気に入ってつけてるの」
「確かに綺麗だとは思うけど……」
 仮にも姫君である華星が、拾った耳飾りを身に付けるとは。――眉を顰める璃春の目の前で、華星は両手を合わせた。
「お願い。お母さまや哥哥には、璃春が市井で見つけてきたということにしておいて」
「ええ?!」
 璃春は目を剥く。華星は合わせた手の指先を口元にあて、じっと璃春を見つめた。
「片方だけしかなくて、掘り出しものだったとか……」
「ま、まあそれくらいならいいけど……」
「ありがとう」
 華星はぱっと顔を明るくして微笑んだ。それを見て、璃春もつられて笑う。
「それ、本当に気に入っているのね」
 華星が何かを特別に気に入り、手放そうとしないのは珍しいことだ。幼い頃から側にいる璃春は、彼女がいろいろなものを諦め、手放すところを何度となく見てきた。たとえば彼女らがまだ幼かった頃、中庭に迷い込んてきた仔猫。華星は買いたがったけれど、広妃の許しは出ず、諦めざるを得なかった。同じ頃、他国から貢物として届けられた珍しい青い小鳥。華星が興味を惹かれているのは璃春には見て取れたが、彼女は口に出して欲しいとは言わなかった。結局それは、太子である伶明の所有物となった。華星はそういう少女なのだ。欲しいものを欲しいとは言わず、ひっそりと諦める。彼女はそうして手に入らなかったものを、ちゃんとすべて忘れているのだろうか。それとも……。
「璃春?」
 華星に名を呼ばれ、璃春ははっと顔をあげた。
「大丈夫?」
「うん。ぼうっとしただけよ。――あと、その耳飾りのことだけど」
 彼女を安心させようと、璃春はぐっと拳を握り締めてみせる。
「わたしが市井で買ってきたってことにしていいわよ。ちゃんと誤魔化しておくから、安心して」
「助かるわ。ありがとう」
 華星は礼を言い、再び左手でそうっと耳飾りに触れた。その瞬間の、彼女の表情――璃春ははっと息を呑んだ。どこか寂しげで、何かを懐かしむようで、それでいて切なく甘い……。
 本当に、その耳飾りは拾ったものなのだろうか。誰かに貰ったのではないか。誰か――彼女が心を寄せる異性に。
 一瞬、伶明かと思った。それで、母親には秘密にしたいのかと。しかし、華星は「お母さまや哥哥には」と言った。つまり、伶明に貰ったものではないのだ。華星にこんな顔をさせる男性が他にいるということになる。一体、誰なのだろう。――だが誰であれ、秘密にしなければならない相手に違いない。
 璃春は静かにつぶやいた。
「ねえ、華星」
「なに?」
 華星が真っ直ぐに璃春を見る。その瞳を、璃春はじっと見つめた。
「忘れないでね」
 ほんのりと微笑みを浮かべ、璃春は華星の手をぎゅっと握る。華星は驚いたように瞬きを繰り返した。
「わたしは、ずっと華星の味方だよ」
「璃春……」
「みんなが華星を責めても、わたしは華星の味方をするから」
「…………」
「だから、何かあったらわたしを頼ってね。頼りないかもしれないけど……でもわたし、頑張るから」
「…………」
 しばらく黙っていた華星が、やがて璃春の手を握り返した。やわらかな掌。
「ありがとう」
 彼女の瞳の色は伏せた睫毛に隠されて、璃春からは窺うことができなかった。

  × × ×

 まだ昼にもかかわらず帳が引かれ、薄暗い皇帝の寝所。寝台に横たわる奏陽を、伶明は痛ましげな眼差しで見つめていた。
「令尊……」
 目を閉じている父が寝ているものか起きているものかはかりかね、伶明は静かな声で呼びかける。
「伶明、か」
 案外しっかりした声がかえってきて、伶明はほっと吐息をついた。
「はい。ご気分はいかがですか」
「……伶明。わたしの葬式と、おまえの即位の用意をしろ」
「なっ……」
 言い放たれたその言葉に、伶明は絶句した。
「聞こえなかったのか」
 奏陽は目を開けた。伶明を冷ややかな眼差しが射る。
「だから早く婚儀を執り行えと言ってやったのに……これで、喪が明けるまで待たねばならなくなったな」
 伶明ははっと息を呑んだ。――先日の父の言葉が脳裏に蘇る。「婚儀はできるだけ早い方が良い。急いで準備しろ」との言葉は、まさか自分の死期を予見して……?
「令尊は、予期しておられたのですか……?」
「自分の体のことは、自分が一番良く判る。医師どもに何が判るものか」
 奏陽は落ち着き払ってそう答えた。痩せた顔の中で、目だけが硝子玉のようにぎょろりと蠢いている。
「令尊、それでしたら」
 伶明は床に膝をつき、奏陽の顔を覗き込んだ。
「どうか、華星にお言葉を。一言でも、どうか」
「…………」
「お願いです、言葉を掛けてやって下さい。あの子は寂しがっています……!」
「…………」
 奏陽は目を閉じ、大きく深呼吸をした。胸が上下するのに伴って、喉の奥から奇妙な音が聞こえてくる。
「令尊……!」
「伶明」
 伶明ははっと息を呑んだ。気付かず目尻に浮かんでいた涙を、慌てて拭う。
「信頼できる臣を選んで、使え。決して情に流されるな」
 淡々と、奏陽は告げた。
「今、国の内部は落ち着いているが――他国との関係は未だ流動的だ。気を付けろ。特に」
 奏陽は薄く目を開ける。
「広陵には、気を付けろ」
「広陵に……ですか」
「ああ。新しい王――土毅、とか言ったか……」
 深く、ゆっくりとした息。奏陽はそれを何度も繰り返す。
「あの男には……気を付けろ……」
 声が途切れる。伶明は慌てて奏陽の枕元に顔を寄せた。
「令尊……?」
 目を閉じ、穏やかな呼吸をしている。暫し見守ってみたものの、様子は変わらなかった。どうやら奏陽は眠りについたらしい。
「…………」
 伶明はその場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返した。――どうしても、令尊は華星にお言葉を掛けては下さらないのか……。
「血の絆とは、一体何なのだろうな……」
 部屋を出た伶明は、眩しい昼の光に目を射られて立ち止まる。同時に、意識が現実に引き戻された。
「わたしが、帝位に……」
 ――この国の、王に。手を固く握りしめる。――その拳は彼が守るべき国に比べ、あまりにも小さく見えた。

 その翌朝。奏陽は静かに息を引き取った。