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第三章 変革之兆 – 四

 興と広陵の間は、比較的頻回に商人が行き来している。それはたいてい広陵の者たちで、羊毛やそれを用いた織物、羊肉、馬肉の干したものなどを興に運んでいた。時には皇族や政府高官から軍馬を求められることもある。ただし、広陵が国外に送るのは二級以下の馬だ。草原の民である彼らは、一級の馬を決して手放さない。
 一方、商人が興から持ち帰るのは塩である。内陸国である広陵にとっては、興からもたらされる塩は大変貴重なものであった。それゆえに、興との貿易を許されているのは一部の商人で、実質的に通商は広陵の王家によって管理されている。
 広陵に興側からの商人が訪れないのは、その民が遊牧生活を送っていることが大きな理由だろう。彼らは季節や気候に応じて臨機応変に移動するから、彼らがいつどこにいるのか、他国の者には予想がつかないのだ。広陵が歴史上長く独立を保つことができたのも、彼らの生活形態の特殊性によるところが大きい。

 その日、土毅は興から戻った商人に話を聞いていた。彼らは広陵にとって、重要な情報源を兼ねている。
 土毅は商人の話を聞き、目を見開いた。
「役人が殺された……?」
「はい」
 その商人が耳にしたの話というのは、蘇曳に向かった役人らが山賊に殺害されたというものであった。都中が彼らの死を悼み、喪に服していたという。
「山賊ねえ」
 土毅は首を捻った。
「なんで山賊が役人を襲うんだ? 一文の得にもならんし、中央に目を付けられるだけじゃないか」
 商人は恭しく答えた。
「その山賊、蘇曳から都に送られるはずの税も強奪したとか。役人はそのことで調査に向かっていたそうでございます」
「ふうん……」
 土毅はつぶやいた。──どうも腑に落ちない。中央側も、山賊が出没すると知っていたのなら軍を護衛につけるべきではなかったか。もし、蘇曳が山賊の存在を上伸せず黙っていたのだとしたら……これはかなりきなくさい話になってくる。血税を強奪していくほどの賊が、地元の住民に対して大人しく振る舞うはずがない。蘇曳の手に負えないのなら早々に中央に対して討伐の援助を要請すべきだ。そうしなかった理由として考えられるのは──蘇曳側と山賊がつながっているという可能性。
「中央はどう動く? 軍を出すか?」
「詳しくは存じませんか、そのような動きはございませんでした」
「……そうか」
 今のところは泳がしておくということか、あるいは言い逃れようのない証拠を掴むべく罠を仕掛けるか。
 土毅は話を変えた。
「他には?」
「先の書簡に対する返書を、お預かりして参りました」
 商人は卓上にその紙束をすっと滑らせる。土毅はすぐに手に取り、封を切った。忙しく眼球が動く。
 ……やがて、土毅は顔を上げた。商人に向かい、声を掛ける。
「ご苦労さま。今日はもう退がってくれて構わない」
「はい。失礼致します」
 商人が包から退出していった後、土毅は書簡に再び視線を落とした。──ご招待に応ずる、とある。つまり……。
「華星が、広陵に来る……!」
 土毅はつぶやく。その頬は、まるで赤子のように紅潮していた。

  × × ×

「……駄目だな。高圧的過ぎる」
 伶明は、戒絽への書簡の草稿を放り捨てた。先帝の元で外交文書の起草を務めていた官吏に書かせたのだが、どうも伶明にはしっくり来ない。
「戒絽の王とわたしとは、親子ほどの年の開きがあるのだ。その点を考慮しなくてどうする」
 伶明はつぶやいた。──とはいえ、今後の外交が難しいものになることは百も承知だった。高飛車にならぬよう、それでいて侮られぬよう。反感を買ってはならぬが、図に乗らせてもいけない。現在の危うい均衡をどう保てばいいものか──いや、そもそも本当にそれはまだ保たれているのか。実は既に崩れ始めているのではないか……伶明はため息をつき、傍らの鵬嵩を見遣った。
「おまえ、書簡は書けるか」
「は……」
 鵬嵩は困ったように目を瞬く。残念ながら、地方官吏であった彼が他国相手の書簡など経験しているはずもなかった。
「お言葉とあらば、今すぐにでも勉強致しますが」
「……いや、構わない」
 さすがに重要な外交文書を、その道の素人に書かせるわけにもいくまい。伶明は床に落ちた草稿を拾い上げた。自分が何とか指示を出して、形にせねばならない。これも皇帝である自分の仕事なのだと言い聞かせる。
「……あの、陛下」
「何だ?」
 どこか躊躇いがちに口を開いた鵬嵩に、伶明は視線を投げる。
「失礼ですが、妹君に助力をお願いされては如何でしょうか」
「妹?」
 聞き返し、伶明は眉を寄せる。
「誰に、何の助力だって?」
「実は、幾度か書庫で妹君にお会いしたのです」
「書庫……」
 伶明ははっとした。
「華星か?!」
「はい」
「華星に、何をさせるというのだ」
 警戒して表情を険しくする伶明に、鵬嵩は言う。
「わたしはいつも書架の中で迷ってしまうのですが、あのお方がおられると、いつもすぐに探している書の場所に連れて行って下さるのです」
 伶明は思わず苦笑を浮かべた。
「華星は書物が好きだからな……」
「はい、そのようにお見受け致しました。しかも、かなり幅広い分野に精通しておられる」
「……それで?」
「あの才能を埋もれさせておくのは、惜しいことではありませんか。何らかの形で、政に携わっていただけたなら──」
「鵬嵩」
 伶明は静かに鵬嵩を遮った。
「わたしは大切な妹を──いや、未来の妻をわたしの仕事に巻き込み、煩わせたくはない」
「…………」
「わたしはそこまで力不足な皇帝か?」
 冷ややかな伶明の言葉に、鵬嵩は慌てて首を横に振った。どうやら自分は彼の逆鱗に触れてしまったらしい、と悟る。
「そういうつもりでは……しかし、少々僭越に過ぎました」
 深々と頭を下げる。
「何卒、お許しを」
「いや」
 伶明は表情を和らげた。
「おまえが華星のことを評価しているのは良くわかったし、そのこと自体は嬉しく思う」
「は……」
「また書庫で会ったら、話相手になってやってくれ」
 伶明はふ、と目を細めた。
「華星は、宮廷内でも少し特殊な存在だからな……」
 ──他国の血を引く、呪われた姫君。実父である奏陽に軽んじられていたことも相まって、華星は宮廷内ではひどく地味な存在だった。彼女自身がそれを望んでいるような節すらあって、伶明が歯がゆく感じるほどである。
「わたしは……華星には何の悩みもなく、しあわせに過ごして欲しいのだ……」
「…………」
 伶明の言葉は独り言だと判断し、鵬嵩は口を挟まなかった。――彼の言葉の端々から、妹に寄せる想いの深さを感じる。それにもかかわらず、あの少女は決して満たされているようには見えない。何かがすれ違っているのではないか……鵬嵩は懸念せずにはいられなかった。

  × × ×

 広妃らが広陵に向けて出立する数日前の、夜半過ぎ。伶明の私室の扉が控えめに叩かれた。伶明は書類に落としていた視線を上げる。
「誰だ?」
「哥哥。華星です」
 その声に、伶明は微笑を浮かべた。
「入っておいで」
「…………」
 しばしの間を置いて、華星が扉を開け、部屋に入ってきた。伶明の卓上に積まれた書類の山に、彼女は目を見開く。
「あの……お忙しかったですか?」
「少しの間なら、構わないよ」
 伶明は立ち上がり、華星の側に寄った。
「どうかしたのかい? 珍しいじゃないか、ここに来るなんて」
「ええ……哥哥に、お話があったのですけど」
 華星は落ち着かない様子で瞬きを繰り返している。伶明は困ったように眉を寄せた。
「今夜は、ちょっと忙しいな」
「そうですか……」
 華星は少し視線を落としたが、やがて微笑を浮かべて顔を上げる。
「では、また出直してきます」
「夜は冷える。華星は部屋で待っておいで。時間ができたら、わたしの方から行くから」
 伶明の言葉に、華星は頷いた。
「はい。お待ちしています」
「お茶くらい、淹れさせようか?」
「いいえ」
 華星は首を横に振った。
「哥哥のお休みになる時間が遅くなってはなりませぬから、わたしはこれで」
「そう? 折角会えたのにな」
 伶明は顔を曇らせ、華星の髪にそっと指を滑らせる。
「おまえはもうすぐ広陵に行ってしまうし……」
 軽く、抱き寄せた。彼女の体は抵抗もなく、彼の腕の中におさまる。
「早く、帰って来るんだよ」
「…………」
 肩口で、彼女は頷いたような気もする。だが、確かな返事はかえって来なかった。

「…………っ」
 華星は伶明の部屋の扉を閉めると、ぐったりと壁に背中を預けた。――言えなかった。今夜こそは、とこころに決めてきたのに。
「広陵に行く前には、必ず……」
 小さな声が、夜のしじまを震わせた。