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第三章 変革之兆 – 六

 興と広陵との国境には、興側の建てた高い壁が聳え立っている。商人などを通すための門の脇には駐屯小屋があって、近くの街から兵士が順に派遣されて見張りの任務についているのだ。
 鉄柵でできた門は、今は開いていた。華星らの車を警備してきた興の軍は、ここから引き返すことになる。この門の側で、広陵側の出迎えと落ち合う手はずになっていた。
 車が止まってすぐに、駐屯小屋の扉が開いた。姿を見せたのは国境を守る兵士数人とひとり、武装をしていない若い男である。身に纏うのは広陵の衣服であった。興の兵士と軽い調子で談笑しているが、そのなりは決して身分の低い者のものではない。
 止まった車から、広妃と華星が順に降りる。既に、侍女たちは車を降りていた。男は彼女らに歩み寄り、深々と礼をする。
「遠路遥々お越しいただきありがとうございます。我が名は土葉。王、土毅の実弟です。皆様の案内役を仰せつかりました。どうぞよろしく」
 広妃と華星を順に見て、にこりと笑う。――人懐こい笑顔が土毅に似ている、と華星は思った。
「それから」
 土葉は広妃に向き直り、膝をついた。
「お初にお目に掛かります――叔母上」
「土葉」
 広妃は目を細める。その瞳に映る感情は複雑すぎて、華星には慮ることすらできなかった。
「お出迎え、ご苦労様」
 彼女の短いねぎらいの言葉を受け、土葉は立ち上がった。
「早速出発させていただきますが、よろしいですか?」
「ええ」
 頷く広妃。土葉はつと華星を見た。
「旅は不慣れでいらっしゃることでしょう。何かお辛いことがありましたら、何なりとお申し付け下さい」
「はい」
 華星は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。土葉は優しく微笑み掛ける。
「――兄からもくれぐれもよろしくと申し付かっておりますれば、どうぞご安心を」
「…………」
 華星は思わず息を飲んだ。このひとは、知っているのだろうか。土毅と自分が何度か会っているということ、想いを通じ合わせているということ。――たぶん、知っているのだろう。そしてきっと、彼は土毅の味方なのだ。
「では、車へどうぞ。御者を向かわせます」
 土葉は袖を翻し、門の方へ歩いていく。そこには立派な黒毛の馬が一頭繋がれていて、そのたてがみの向こうには、広陵の広大な大地が地平線まで続く様子がうっすらと見えていた。

  × × ×

 広陵に入ってからの道程は、ひどく楽なものであった。土葉ら広陵の人間たちは元々野営に慣れていて、手際も良い。また土葉の人柄か、彼は侍女らともすぐに馴染んで、終始和やかな雰囲気の旅となった。
 現在広陵の民が暮らしている場所まで、あと一日となった夜。寝つけずにいた華星は、母とともに寝ていた包からこっそりと抜け出した。
 もうすぐ、土毅に会える。そのことは彼女の胸を喜びで満たしたが、同時に都にいる兄のことが気に掛かった。兄は自分の手紙を読んだだろうか。怒っただろうか。悲しんだだろうか。――もう、こんな自分のことなど嫌いになっただろうか。帰った時、一体どんな顔をして会えばいいのだろう。
 ――ぱちん。横手から聞こえた火の爆ぜる音に歩み寄ってみると、そこには土葉が座っていた。華星の姿に、目を丸くする。
「華星さん」
「あ、あの」
 彼女は慌てた。
「眠れなくて……ちょっと、散歩を」
「危ないから、こちらに来て下さい」
 真剣な顔の土葉に手招きされ、華星は駆け寄る。
「この辺りには野犬が出ますからね。火を持たないでふらふら出歩くと、危ないですよ」
「は、はい」
 土葉は自分の座っている敷物と、良く似たものをもう一枚取り出し、草叢の上に広げた。
「さあ、どうぞ」
「……ありがとうございます」
 華星は礼を言い、その敷物の上に座った。隣では、土葉の横顔が炎に赤く照らし出されている。
「お会いできて嬉しいです。華星さん」
 土葉の言葉に、彼女は顔を上げた。視線の先で、土葉は屈託のない笑みを浮かべている。
「哥哥があなたのことをいろいろと話すものだから、どんな方なのだろうかと気になっていました」
「いろいろ……ですか」
 華星は困ったように眉を寄せた。土毅は一体、自分のことをどんな風に話していたのだろう。まさか悪口を言われていたとは思わないが、自分のいないところで噂をされていたと思うと何となく居心地が悪い。
「やあ」
 土葉はおもむろに空を振り仰いだ。
「今夜は星が綺麗ですね」
 その言葉につられ、華星は顔を上げる。
「わあ……!」
 空一面に溢れる光の粒。華星は思わず歓声を漏らした。
「ほんとう、すごく綺麗…!…」
 まるで、地平線に光の滝が零れ落ちるよう。華星の唇には知らず知らずの内に笑みが浮かんでいた。
「ねえ、華星さん」
 土葉はのんびりとした口調で言った。
「星はずっと昔から、こうして夜空を飾り続けているのだそうですね。ぼくらのご先祖は夜毎に星を見上げ、方角をよみ、そしていつしか天候を知る術をも覚えた……」
「…………」
 華星の読んだ本の中には、天文学を記したものもあった。彼女はそれを思い出す。
「あちらが、北ですよね」
 す、と指差して見せると、土葉は驚いたように彼女を見つめた。
「良くおわかりになりましたね? 興では星をよむことなどないと思っていたのですが」
「ええ。わたしも、以前書物で読んだだけです」
 華星は微笑む。土葉は目を瞬かせた。
「書物……ですか」
「あの」
 華星は躊躇いがちに尋ねた。
「広陵には、あまり書物はないのですか?」
 以前華星の部屋に来た土毅が、書籍に強い興味を示したことを思い出したのである。
「そうですね」
 土葉は頷く。
「ああいうかさ張るものは、ぼくらのような遊牧生活には適しませんから。知識の類は、たいてい親から子へ口伝で伝えられていくのです。ぼくら王族は読み書きを身につけなければなりませんが、民のほとんどは字が読めないのですよ」
「ああ、それで」
 華星はつぶやいた。
「土毅は、わたしに本を教えてくれと言ったのですね……」
「本を、教えてくれと?」
 土葉は鸚鵡返しにつぶやく。
「哥哥が、そう言ったのですか?」
「ええ」
 華星はうなずいた。土葉は顎に手を当て、考え深げに言う。
「哥哥は、実用的でない知識にはまるで興味を示さない人なのですよ」
 ――なるほど、確かに土毅は役に立たない薀蓄には見向きもしなさそうだ。華星はくすりと笑う。
「その哥哥があなたに知識を請うたということは、あなたの読む本とは一体――」
「わたし、宮廷の書庫にあった本を、片っ端から読み漁っていたんです。歴史書も、兵法書も、天文学も……」
「ほう」
 華星の言葉に、土葉はますます感心したようだった。
「あなたは面白い(ひと)ですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
 土葉は微笑む。
「なるほど、哥哥が気に入るわけだ」
「…………」
 華星は言葉につまり、俯く。顔が赤くなるのを、土葉に悟られなければいいと思った。夜風に冷えた指先を、膝の上で組み合わせる。こころの中で、つぶやいた。――土毅。早く、逢いたい。

  × × ×

姐姐(あねうえ)は、もうあちらにお着きになったのかしら」
 晶香の声に、伶明はぴたりと茶碗を持つ手を止めた。
「……さあ、どうだろうね」
 できるだけ落ち着いた声を返し、再び茶に唇をつける。
 
 伶明の、そして華星の異母妹である晶香が彼の元に現れたのは、恐らく鵬嵩あたりの差し金であろう。華星が発ってからというもの――そして最近数日は特に、伶明の体調は優れなかった。夜もあまり眠れないし、少しのことでひどく苛立ちがちである。そんな彼の様子を見兼ねて、鵬嵩は伶明に一日ゆっくり休むよう上申したのだった。仕事を離れ、たまには休養を取ることも必要だ、と。確かに、帝位についてから現在に至るまで、伶明は働きづめに働いてきた。そろそろ気を緩めなければ、本当に体を壊してしまうかもしれない。
 伶明と晶香とは、義理の兄妹とはいえあまり親しい付き合いはなかった。それぞれの母親の身分でいえば似たようなものなのだが、伶明は唯一の男児であったという理由で太子となり、晶香は良くも悪くも何の注目を受けることもなく母親の元でのびのびと育った。姫であるという意味では華星と同じ立場であるはずなのだが、ふたりから受ける印象は随分と異なっている。晶香の率直で純真なところを、伶明は華星を想うのとはまた違う意味で気に入っていた。
「姐姐は、可哀相です」
 突然の言葉に、伶明は驚いて顔を上げた。あどけない顔立ちの彼女は、ぷう、と頬を膨らませている。華星には決して見られない表情だった。
「華星の、何が可哀相だって?」
「『呪われている』なんて。誰が言い出したんでしょう」
「さあ」
 伶明は目を伏せた。
「口さがない者は多いからね……」
「哥哥も皇帝になられたんですから、そういうことはもう言わないようにって命じることはできないのですか?」
「そりゃあ、目の前でそういう話をされれば、止めるけれども……」
 伶明は口ごもった。
「改めて(おおやけ)にするのも、どうかと思うし」
「それはそうかもしれませんけど」
 晶香は唇をとがらせた。
「もしわたしだったら、きっと耐えられません」
「……そういえば」
 伶明はつぶやいた。
「華星は、わたしに辛いとか、嫌だとか、愚痴を零したことがないな」
「あら」
 晶香は驚いたように目を見開いた。
「哥哥にもですか?」
「うん」
 伶明はため息をつく。
「愚痴くらい、いくらでも聞いてあげるのに……」
「姐姐は、お優しいから」
 晶香は微笑みを浮かべた。
「哥哥にも、つい気を遣ってしまわれるのでしょうね。嫌な話を聞かせたくはないと」
「…………」
 伶明はふと思い出す。そういえば一度だけ、彼が即位して間もない頃に、華星が彼に感情をあらわにしたことがあった。――わたしは強くなりたい。守られてばかりではなくて、強くならなければならないのです。そう言った彼女。あれは、どういう意味だったのだろう。
「姐姐は何を聞いてもすぐに教えて下さるし、知らなかったこともきちんと調べて、後で知らせて下さる」
 晶香はひどく優しい表情で華星を語る。
「この宮殿の奥にずっと籠もっているだけなんて、勿体ないと思います」
「…………」
 伶明は俯いた。――何か、自分は間違えていたのかもしれない。そして間違いを正すこともないまま、彼女をこの手の中から解き放ってしまったのかもしれない。
 今でも、華星を妃にしたいという気持ちに変わりはない。だが、彼女が広陵から帰って来たら一度、しっかりと向き合い、話をしなければならないだろう。彼女が一体何を考え、何を感じているのか。ゆっくりと時間を掛け、耳を傾けよう。そう思った。