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第三章 変革之兆 – 八

 山賊をめぐって蘇曳からの返答が来たのは、ひとつきという期限があと一週間後に迫った日のことであった。
「山賊の討伐のため、援軍を派遣していただきたい――とな」
 書簡に目を通した伶明は、気の抜けたようなつぶやきを漏らした。
「山賊の存在は、誠であったのか……?」
 いもせぬ山賊をでっちあげ、租税を逃れようとしたのかと思っていたのだが、勘違いだったのだろうか。役人を殺害したのも、山賊の仕業であったのか。――興への反逆を企てているのかとまで警戒したというのに、思い過ごしだったのかもしれない。
「さあ、それはどうでしょうな」
 張皓は静かに言った。彼の表情から、緊張は消えていない。
「何か、罠があるのやもしれませぬぞ」
「しかしな……」
 伶明は肘をつき、視線を落とした。
「本当に山賊がいないのだとしたら、我らの軍を呼び寄せてどうするつもりだ? 戒絽を巻き込み、戦をやらかすつもりか?」
「……その可能性も、あるかもしれませぬ」
「ではどうする。山賊はそちらで征討しろと、捨て置くべきなのか」
「…………」
 張皓は沈黙した。伶明は苛立ったように卓上を指先で小刻みに叩く。
「本当にあちらが戦を望んでいるというのなら――わたしもなめられたものだ。即位した途端に、これだものな」
 伶明の唇には自嘲の笑みが浮かんでいる。
「わたしはそんなに暗愚な太子と見られていたのか」
「陛下、それは……」
「以前」
 伶明は張皓を遮った。
「鵬嵩が、『政に華星の力を借りたらどうか』と進言してきたことがあった」
「……華星さまを?」
 張皓は驚いたようにつぶやく。
「確かに――彼女の知識はわたしに引けを取らぬだろう。太子として特別に教育されたはずのわたしに、な。あれはただ、好きで本を読んでいただけだというのに……」
 伶明は拳を握り締めた。
「わたしは……! 母の名が穢されぬように、『身分の低い女から生まれた太子』などと陰口を叩かせぬように、懸命に努力してきた! それなのに……!」
「陛下」
 張皓が再び口を開いた。
「陛下には、何の落ち度もありませぬ。自信をもって政にあたられませ」
「…………」
 伶明は張皓に視線を向ける。彼はいつも通りに落ち着き払っていた。その冷たいまでに静かな眼差しに、伶明は何故か安堵した。
「……取り乱して、すまなかった」
「いいえ。ところで――」
 張皓は何でもないことのようにそう言うと、話を元に戻した。
「蘇曳のことですが」
「……ああ」
「怪しい点が幾つかございます」
「怪しい点……?」
 張皓は頷く。
「ひとつ、山賊の具体的な情報がこちらに一切入って来ないこと。ひとつ、蘇曳の周辺からはその山賊の話が全く聞こえてこないこと」
「ふむ……」
 伶明は顎を撫でた。
「蘇曳もかつては一国であったとはいえ、そう広い領土ではありませぬ。そして彼らが言う山賊の出没地は、蘇曳の北の境の山――つまり、かつての我らとの国境です」
「山の北側では、山賊の被害の報告はないのか」
「はい。その地方にひとを遣り調べさせましたが、そのような話はひとつもないと」
「……なるほど」
 伶明はつぶやいた。
「山賊を討伐するための軍の規模など、たかが知れている。罠を張り、殲滅しようという腹積もりかもしれぬな」
「十分、あり得ることかと」
 張皓は探るような眼差しを伶明に投げた。
「如何なさいますか」
「如何……とは?」
「あちらの挑発に乗るか、否か」
 張皓は言う――きっと、蘇曳も我らがそう読むことくらい見通しているであろうと。その上で、白々しい芝居を打っているに違いない。
 伶明はため息をついた。
「戦は好まぬ。しかし――蘇曳を赦せば蒙當も、造反するであろう。そうなれば、他国につけ込まれるのは必至。……現に、蘇曳の背後には戒絽がいるやもしれぬし」
「左様」
 張皓はうなずく。
()将軍を呼べ」
 伶明が名を挙げたのは、先帝の代から仕える名将軍である。つまり――。
「蘇曳を、(しず)める」
 固い決意を宿し、伶明はきっぱりと言い切った。

  × × ×

「ううん……」
 土葉は難しい顔をして盤状を睨んでいた。向かいに座る華星は、澄ました顔で椀に注がれた羊の乳を啜っている。最初はその癖のある味に馴染めないように感じた彼女だが、すぐに好んで飲むようになった。
「……華星さん、本当に今日が初めてですよね?」
「ええ」
 華星は微笑んだ。彼女と土葉の前に置かれているのは合戦盤と呼ばれる、広陵の男子が好む遊びである。将軍、騎兵、歩兵などの駒を用いて擬似的に戦争を行い、陣を取り合うものだ。遊戯とはいえなかなか複雑なもので、広陵ではこれに強い者が軍で出世するという話もある。現在、盤上の情勢は明らかに華星が優勢だった。
「ぼくもそんなに弱い方ではないのですけど」
 土葉は興味深げに、華星の組んだ陣形を見つめる。
「これはどうやら、ぼくの負けのようです」
 やれやれ、とため息をついた土葉に、華星は慌てて声を掛けた。
「あの、今回は運が良かっただけですから」
「これは運じゃありませんよ」
 土葉は首を横に振る。
「たぶん何回やっても、ぼくはあなたには勝てない」
「そんなこと……」
「いえ。わかります」
 土葉はじっと盤上を睨んだ。
「あなたは行き辺りばったりに駒を動かしているわけじゃない。ちゃんと、理屈があるんです。たぶん――」
 視線を上げ、華星を見る。
「あなたはそれを、兵法書から学んだのでしょう」
「…………」
 華星は瞬きをした。
「ええ、まあ……参考にはしましたけど……」
「ほらね」
「――何がほらね、だ?」
 包の中に、土毅が入ってきた。土葉は黙って合戦盤を示す。ふたりの側にしゃがみ込んだ土毅は、やがて小さく口笛を吹いた。
「こりゃあ驚いたな。土葉が負けてるじゃねえか」
「そうなんですよ。駒の動きもすぐ覚えられてしまったし。これじゃあぼくの面子が丸潰れです」
 大げさに嘆いてみせる土葉に、華星は困ったように眉を寄せた。
「そんなことないですよ。たまたまです」
「哥哥」
 土葉は兄の肩をぐっと掴んだ。
「かくなる上は、哥哥がぼくの仇を取って下さい」
「おう、任しとけ」
 土毅は土葉の退いた場所にどっかりと座り込んだ。
「言っとくが、おれは土葉より強いからな」
「哥哥は負けん気が強くて、子供の頃から大人にまで戦いを挑んでいたんですよ。華星さんも、覚悟して下さい」
「…………」
 盛り上がる兄弟を目の前に、華星は呆気に取られている。――やがて、彼女は小さく噴き出した。声を立てて笑う彼女に、土毅と土葉は視線を交わす。
 広陵に来てわずか数日で、華星は驚くほど明るくなった。この広い大地に癒されているかのように、彼女は徐々に表情豊かになっていく。それが土毅は嬉しくてならない。
 昨日、華星はぽつりとつぶやいた。「広陵は自由なのね」と。興の王宮での生活は、やはり窮屈だったのだろうか。「呪われた姫」という噂そのものが、彼女を締め付けていたのかもしれない。
 彼が懸念していた広妃と親族の者たちの間の確執は、今のところ鎮静化していた。互いに大人の対応をしている、といったところだろうか。もし再燃の兆が見えたならば、すぐに彼が間に立って取り持つつもりだった。――もう、そんなことで華星の心を煩わせたくはない。全ては、本来彼女には関係のないことなのだから。
 華星も他の者と同じ、この地に生まれ落ちた、ただひとつの尊い命だ。それ以上でもそれ以下でもない。どんな状況の下に生まれようとも、それは彼女の責ではない。呪われた運命など、どこにもない。
「よし、先攻後攻を決めようか」
 土毅は賽の目を振る。続いて、華星が。
「では、わたしからね」
 盤に視線を落とす華星には気付かれぬよう、土毅は優しい眼差しで彼女を見つめていた。

  × × ×

 ふたりの勝負は、熾烈を極めた。
「…………」
 土葉は呆気に取られて盤上を眺めている。先ほどから戦況は一進一退。膠着状態であった。
 兄が苦戦しているのも信じられないが、何より初心者である華星がこれほどの善戦を見せていることが信じられない。――もしかして、このひとは軍師としての才能があるのではないか。彼はちらりとそう思った。男に生まれていたら、その名を大陸に轟かせるような存在になっていたかもしれない。彼女が女であったことは、興にとっては大きな損失であろう。広陵にとっては、どうだろうか。
「ああ、もう――」
 業を煮やした土毅が討って出ようと駒を手に取った、その時。
「土毅さま!」
 包の中に、男がひとり飛び込んできた。服装を見るに、伝令だ。
「何だ」
 ただならぬ男の様子に、土毅は驚いて向き直る。
「何かあったのか?」
「蒐原が」
 男は喘ぎ喘ぎ言った。
「蒐原が、興に向けて進軍しているとの情報が……!」
「?!」
 その場にいた三人は、同時に息を飲んだ。
 蒐原。それは広陵とも国境の一端を接する、興の北方にある強大な国家である。これまで興に蘇曳が併合されたときも、蒙當が併合されたときも、ずっと沈黙を守ってきたのだったが……。
「何故、今……?!」
「あ――」
 土葉の言葉を掻き消すように華星が声を上げ、勢い良く立ち上がった。服の裾が、盤上の駒を散らす。
「戒絽だけじゃない。蒐原も、繋がっていたんだ……!」
「な――?!」
 華星の言葉の意味することを悟り、土毅も顔色を変えた。
 
 蘇曳の背後についているのは、戒絽だと思っていた。しかし、そうではない。蘇曳はいわば目くらまし。興の目が南に向いている隙に、北から攻め込もうという寸法なのだろう。
 
「さて、どうするか……?」
 土毅は乾いた声でつぶやいた。