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第三章 変革之兆 – 五

 広陵へ発つ日の朝、広妃ら一行は城門の前で伶明らの見送りを受けた。国境までは警備の兵がつき、そこに広陵の迎えが来ることになっている。全部で約十日ほどかかる予定だった。
 華星はちらりと背後を見た。二頭の馬に引かれた美麗な車。それに乗って、彼女らは移動することになる。宮殿を出たこともない彼女にとっては、突然の長旅であったが、母と璃春、そして母つきの侍女が二人──彼らが傍らにいてくれると思うと心強かった。それに、旅路の先には土毅がいる。彼女を、待ってくれている……。
 心残りなのは、結局伶明と話ができなかったことだ。きっと多忙だったのだろう。外交を巡って、興は今難しい立場に立たされている。先帝の代に力ずくで併合した蘇曳と蒙當――さらには隣国との関係も合わせて、今後の情勢は流動的だ。皇帝という立場に慣れない伶明がそれに当たるのがどれほど神経を使うことか、慮れないほど華星は子供ではない。
 その伶明が、つと華星の側に近寄ってきた。
「……華星」
 彼もまた、彼女との時間を取れなかったことを気に病んでいるらしい。すまなげに目を伏せ、彼女の手を握った。
「帰って来るまでに、厄介ごとにはけりをつける。そして、おまえともちゃんと話をしよう」
「哥哥」
 華星は兄を見上げた。その瞳に映る自分の顔は、ひどく真剣だった。
「机の上に、哥哥宛のお手紙を置いて来ました。お時間ができたら――読んで下さい」
「あ、ああ」
 伶明はやや不安げに頷く。どことなく、華星の様子がいつもと違うのに気付いているのかもしれなかった。それはそうだ――彼女は生まれてから、ずっと兄の側で育ってきたのだから。一度たりとも、遠く離れたことはなかった。それが良いことだったのか、そうでなかったのか、彼女にはわからない。ただ確実なのは、この広陵への旅が彼らにとっての岐路になるだろうということ。その前に一度、彼らは歩み寄りの時間を持つ必要があったのではないかということ……。
 華星は軽く首を振った。――そんなことを、今更思っても仕方がない。
「哥哥、どうかお元気で」
「華星も、道中気をつけるのだぞ」
 伶明は強く彼女の手を握る。彼の掌は熱を持っていた。
「辛くなったら、いつでも帰っておいで」
「…………」
 華星は微笑み、伶明の手を離す。その時、背後の車から彼女を呼ぶ声がした。母、広妃だ。
「それでは……」
 華星は身を翻し、伶明に背を向ける。
「哥哥」
 小さく、華星はつぶやいた。
「……さようなら」
 何故か、別れの言葉を言わずにはおられない。――まるでそれは未来を予感したかのようだったのだが、今の彼女にはそのことを知る由などなかった。

  × × ×

 車には、広妃と華星が乗っていた。侍女らは別の車で、その周囲を騎馬に乗った兵たちが護衛している。
 広妃は車に着いている小さな窓から、じっと外を眺めていた。
「……二十年前も、こうやってここから外を見ていたわ」
「…………」
 きっと、嫁入りの時のことを言っているのだろう。今の華星とさほど年の変わらない時分のことである。突然故郷と引き離され、異国に嫁がされた母。どれほど心細かったことだろうか、と華星は胸を痛めた。
 広妃は華星を見て、にこりと笑う。
「あの時はひとりぼっちだったけれど、今はあなたが一緒だものね。もう、寂しくはないわ」
「……母上」
 華星はおそるおそる口を開いた。
「何?」
 軽い調子で聞き返す母から目を逸らし、躊躇いがちに尋ねる。
「母上はもし過去に戻ることができたなら、どうされますか?」
「え?」
「令尊との結婚を、頑なに拒むことだってできたはずですよね。今度は、そうされますか……?」
「…………」
 華星は目を伏せたまま、母の答えを待った。――きっと、母は頷くだろう。何故なら、母のしあわせはそこから分岐した先にあるからだ。奏陽とは結婚せずに広陵にとどまり続けた未来――自分が生まれ出ずることのない未来に。
 広妃はふ、と息を吐いたようだった。
「華星。何を言っているの?」
「え……?」
 今度は華星が聞き返す番だった。思わず顔を上げた先で、広妃は優しく微笑んでいる。
「過去に戻ることなどできはしないし、今更戻りたいとも思わない」
「え……でも……」
「――だって」
 広妃は戸惑う華星を抱き寄せた。
「戻った過去に、あなたはいないのでしょう? そんなの、耐えられないわ」
「……母上」
「あの男のことは、もうどうだっていいのよ。でも、あの男と出会ったからこそ、あなたが生まれたの」
 広妃は何度も彼女の髪を梳く。
「あの男は、わたしにあなたを産ませてくれた――そのことだけは、感謝しているのよ」
「で、でも」
 華星は声を震わせる。
「わたしは、太子になれなくて……母上を皇太后にすることはできなくて……」
 自分自身が女だったばかりか、自分は広妃から子を産む能力を奪ってしまったのだ。「呪われた姫」――人は皆彼女をそう呼ぶ。きっと、亡き父すらそう思っていたに違いない。それなのに、母は……。
「華星」
 広妃は優しい声で囁いた。
「わたしね、伶明を見ていて思ったの。皇帝になることは、必ずしもしあわせなことじゃないって。誰よりも大きな重圧と、責任。それと、死ぬまで戦わなければならない。わたしはただあの男への意地と、自分の誇りと――そのために、あなたが男だったらと願っていたんだわ」
「…………」
「我が子が苦しむ姿を見たいと願う母親なんて、いないのよ。あなたがしあわせになってくれることが一番なの」
「で、でも」
 華星は顔を上げた。広妃の笑顔が、涙で滲んで見える。
「それでは、母上のしあわせはどこにあるのです? わたしは母上にもしあわせになっていただきたいのに……!」
「華星」
 広妃は彼女の涙をそっと拭った。
「わたしがあなたにしあわせになって欲しいのは、あなたのためだけじゃないの」
「……え?」
 華星は目を見開く。その瞬間、ひとつぶの涙が頬を伝って落ちた。そこに、広妃は己の頬を寄せる。
「わたしは、あなたがしあわせそうに笑っている姿を見る時が、一番しあわせなのよ」
「…………!!」
 華星は息を飲んだ。
「わたしは、わたしのしあわせのために、あなたをしあわせにしたいと願っているの」
 広妃は華星をしっかりと抱きしめる。
「だからといって、わたしがあなたをしあわせにする方法を理解しているわけではないのもわかっているわ。だけどね」
 彼女の肩を抱く広妃の腕は、細かく震えていた。
「あなたが本当にしあわせになれる場所を見つけた時は、あなたの背中を押してあげる。たとえ、それがわたしから遠く離れた場所だっていいの」
「母上……」
 華星は胸の痛みに耐え、目を閉じた。母の声は優しい。けれど、痛い。「わたしから遠く離れた場所」――そう言った時の母は、ひどく辛そうだった。自分が土毅の側にいることを選べば、母から離れてしまうことになるのだろうか。母を悲しませることになるのだろうか……。
 揺れ動く彼女の胸の内を知るはずもない広妃は、ゆっくりと言葉を続けた。
「わたしはね、それは伶明の側じゃないと思った。だって、彼の側であなたが本当にしあわせそうに笑っている姿を、わたしは見たことがなかったから」
「…………」
 ――そうだっただろうか。自分は、兄の側ではしあわせでなかったのだろうか。そんなはずはない、と思う。楽しいことも、嬉しいこともあったはずだ。けれど、それはしあわせと同じ意味なのだろうか。良くわからない……。
「華星」
 答えない華星に、広妃は言い聞かせるように言った。
「今、こうして伶明と離れてみるのは、いい機会だと思うわ。ゆっくり考えて。自分の未来を――人任せに、運命任せにしては駄目よ」
「…………」
 華星は顔を上げ、頷いた。――母は言わなかったが、きっと運命任せにした結果が己の現在なのだと、わかっているのだろう。過去に戻りたいとは願わなくとも、現状に決して満足はしていないのだ。
 窓から差し込む光が、やがて茜色に染まっていく。体を寄せ合った母娘を乗せて、車は夜に向かって走り続けた。

  × × ×

 華星らが広陵に発ってから二日目の夜。伶明は華星の部屋に入り、手紙を探した。明かりもなく、ひとけもない彼女の部屋は、ひどく寒々しい。伶明は体をぶるりと震わせた。
 手にしていた燭の炎で卓上を照らし出すと、すぐに手紙は見つかった。表に彼の名が記された巻紙で、丁寧に封まで施してあった。伶明は燭台を起き、封を切るのももどかしげに中を開く。
「…………」
 几帳面に書かれた文字を追っていた伶明は、やがて凍りついた。
 
『哥哥。このような形でお話をすることを、どうかお許し下さい。
 わたしを妃にというお話を、一度白紙に戻していただきとうございます。わたしは哥哥と兄妹のままでいたいような気がするのです。この旅の間、わたし自身今度のことをゆっくり考えてみる所存ですが、哥哥もどうか今一度お考え直し下さい。
 哥哥のことは、大好きです。そのことはどうか信じていて下さい。わたしは永遠にあなたの妹であり、あなたはわたしの哥哥なのですから。
 どうぞ、お元気で。
 
 ――華星』
 
 彼の手から、はらりと手紙が零れ落ちた。伶明は慌てて拾い再び目を通すが、文字列は変わることなく彼に訴え掛けてくる。――妃にというお話を、一度白紙に。兄妹のままで。今一度お考え直し下さい。
「何故……何故なんだ、華星」
 伶明はつぶやいた。だが、それに答える者は誰もいない。
 数日前の夜、華星が自分の元を訪ねたのはこのことを言うためだったのか。何故、あの時すぐに彼女の話を聞いてやらなかったのだろう。もしそうしていたならば、自分は必ず彼女を引き止めたのに。広陵へなど行かせなかったのに。どれほど自分が彼女を愛しているか、ちゃんと示してみせたのに……!
「華星……!」
 本当なら今すぐにでも追いかけたい。何故だと問い掛けたい。ちゃんと、面と向かって話をしたい。しかし、彼の皇帝としての立場がそれを許さない。即位してからというものの、それはまるで足枷のように彼に絡みついているのだった。
 主のいない空虚な部屋の中、彼女の残像がゆっくりと薄れていく。伶明は暫しの間、茫然とその場に立ち尽くしていた。