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第三章 変革之兆 – 二

「哥哥」
 草を踏み分け近付く足音に、土毅は寝そべっていた体をわずかに起こした。
「……なんだ、土葉」
 弟の顔を見上げ、土毅はまぶしげに目を細める。土葉は彼の横に腰を下ろした。
「いえ、哥哥の姿が見当たらなかったのでどこに行かれたのかと」
「誰か、おれを探していたか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「そうか」
 安心したように、土毅は再び地面の上に体を伸ばした。土葉はそんな兄を笑って眺める。
「哥哥は、昔からふらりといなくなってはこうやっていましたね」
「ああ……そうだな」
 土毅は目を閉じた。
「考えごと、ですか?」
「ん……まあ、そういう時もあるけど」
 土毅はふ、と笑う。
「ぼうっとしているだけのことも、多いかな……」
「何だか意外です」
 土葉の言葉に、土毅は片目を開けた。
「何がだ?」
「哥哥は何でもてきぱき片付けて、決断も早いし、無駄な時間など許さないような気がしていて」
「そうかあ? おれ、結構ぐだぐだ悩む方なんだけどな」
 兄の言葉に、土葉は苦笑した。
「哥哥が悩んでいる姿なんて、見たことがないんですけど……」
 自分などより遥かに王としての資質を備える兄だからこそ、彼は後継者争いが起こらないうちに早々と補佐役に徹することに決めたのだ。兄にとって信頼に足る人物でありたい、一番近くで支えになりたいと。だがその自分ですら、兄が思い悩む姿など見たことはない。
「おまえがおれを評価してくれるのは嬉しいけど」
 土毅は静かに言う。
「おれはそんなに強い人間じゃない。あれこれ思い悩むことくらいあるさ」
「……そうなんですか?」
 土毅は手の甲を額に当てた。
「まあ、あんまり口に出しては言わないからな……」
「言って下さればよろしいのに」
 信頼されていないのかと顔を曇らせる土葉に、土毅は違う、と首を振った。
「話してどうにかなることなら、ちゃんと話すさ。おれが言っているのは、もっとおれの個人的な……そうだな、気のもちよう、に近い。一歩を踏み出す前に、おれ自身の中を整理する時間が必要なんだ」
「…………」
「おれは今、一体何をどうしたいのか。それは何の為なのか。どうやって遂行するのか。その後は、何がどう変わるのか……ひと通り考えておきたいたちだから」
「それは、知りませんでした」
 土葉はつぶやいた。土毅は目を閉じたまま、口元だけで笑う。
「物事が動き出すと、なかなか立ち止まって考えられないだろ? 特に、おれは直情型だから」
「確かに、馬に乗っていても哥哥は脇目もふらずに駆けて行きますよね」
「そうそう。ここらの地理は頭に入っているからいいけど……うっかり崖から落ちるようなことになったら、洒落にならないだろ?」
「……なるほど」
 土葉は微笑んだ。──兄は謙虚に己の欠点を見つめ、補おうとしている。王として必要な、それでいて失われてしまいがちな資質を、彼はちゃんと持ち合わせているのだ。それは、土葉にとって喜ばしいことだった。
「けど、今回は──」
 土毅は独り言のようにぽつりと言った。
「うっかり暴走しそうだなあ……」
「今回……?」
 兄の顔を見下ろした土葉は、ああ、と合点する。
「例の姫君ですね?」
「う……」
 土毅は口ごもり、顔を赤らめた。土葉はくすくすと笑う。
「いいのではありませんか? 恋とはそういうものでしょう?」
「……って、おまえなあ」
 土毅は呆れ顔で土葉を見上げた。
「そういうもんだからって、うっかり国を亡ぼすわけにはいかんだろうが」
「……危なくなったら、ぼくが必ず哥哥を止めますよ」
 土葉はきっぱりと言った。
「だから、哥哥は心配しないで下さい」
「……土葉」
「それに、ぼくもその姫君に興味が出てきました」
 土葉は空を振り仰ぐ。──兄の心を掴んだ姫君とは一体どんな女性なのか、一度会ってみたい。
「近い内に、会わせてやるさ」
 土毅はつぶやき、そして気が付く──いつの間にか、風の向きが変わっていたことに。

  × × ×

 伶明から夕食をともにしようと誘われた華星は、璃春を連れて王宮の離れにある水晶殿へと向かっていた。水晶殿は小さな建物ではあるが、その床には水晶が使われており、真下を流れる人工の小川を足元に見下ろすことができる。宮殿の中でも、最も凝った作りをしていた。普段は使われておらず、皇帝のみが鍵を開けさせることのできる場所である。
「ねえ、華星」
 璃春が小声で尋ねる。
「伶明さまのこと。どうするの?」
「…………」
 華星は目を伏せた。――わかっている。いつかは、伶明に打ち明けなければならない。自分は、彼の妃にはならないと、そう決めたのだ。伶明は華星の大好きな兄であることに変わりはない。それでも、華星は選んだ。その責任を、自分は取らなければならない。しかし……。
「今はまだ、無理だわ」
「…………」
 心配げに見つめる璃春に向け、華星は微笑む。
「大丈夫、ちゃんと考えるから」
「うん……」
「心配掛けてごめんね」
 軽く頭を下げた華星に、璃春は慌てて首を横に振った。
「わ、わたしこそごめんなさい、不躾なこと聞いちゃって……」
「いいのよ。それに、気に掛けてもらえるのは嬉しいこと」
 華星は大きく深呼吸をした。夕暮れの空気は冷たく、彼女の体の熱を冷ましていく。
「世界に自分のことを気に掛けてくれる人が誰もいなくなってしまったら、わたしが生きている意味なんてないと思うの」
「…………」
 璃春は黙って華星の後頭を見つめた。
「誰もわたしを知らない、誰もわたしに興味がない、そんな世界で生きるのは寂しすぎるわ……」
 ――だから、璃春が自分を心配してくれることは嬉しいのだと。華星は少しだけ振り返り、微笑んだ。
「ねえ、華星」
 璃春は静かに口を開く。
「そんな、誰にも気に掛けてもらえない人なんて、いないよ」
「…………」
「うまく言えないけど……生きていれば必ず誰かに出会うし、そのうちの何人かはきっと華星のことを気に掛けるはずよ。華星じゃなくたって、そんな、誰からも見向きされない人間なんて、いない」
 璃春はもどかしげに両手を握り合わせた。――言葉が見つからない。きっと、あの土毅という青年ならもっと華星を上手く説得してくれるだろうに。
 華星は何度か瞬きをして、そして微笑んだ。
「呪われてる――なんて注目のされ方は、さすがにちょっと嫌だけどね」
「…………」
 璃春が何かを言う前に、華星は再び足を踏み出していた。水晶殿に向かい、真っ直ぐに歩いていく。
 ふと、璃春は不思議に思った。――広妃は、愛娘が「呪われた姫君」と呼ばれていることを知らないのだろうか。彼女の耳には入らないように、配慮されているのだろうか。しかし、本人の華星でさえ知っているのに……。
「もし知っているんだったら」
 璃春はつぶやく。
「こんなところ出て行っちゃえば良かったのに」
 もし広妃の立場がそれを許さないのだとしても、華星をひとに預けることもできたのではないか。太子ではないのだから、宮中で育てなくとも咎められることはなかっただろう。時折広妃が会いに行くことは可能だし、そうすれば華星は自分に関する噂を知らずに済んだのではないか。
 そう考えたところで、璃春はふと苦笑する。広妃が華星を手放すわけはない。彼女にとって、華星は最後の拠なのだ。故郷を失い、家族を失い、そして夫とは家族を築けなかった悲しい女――広妃の、最後の砦なのだから。

  × × ×

 華星が水晶殿に着いてからしばらくの時間が経ち、ようやく伶明が姿を見せた。約束していた時間よりも大幅に遅れている。
「すまない、華星」
 伶明は頭を下げながら部屋に入ってきた。
「会議が長引いてしまって……待たせたね」
「いいえ」
 椅子から立ち上がり、華星は丁寧にお辞儀をした。
「お疲れ様です」
「うん」
 伶明はにこりと笑うと、席に腰を下ろした。ふたりの目の前に、すぐに熱い(スープ)が運ばれてくる。伶明はその透き通った表面を箸で掻き混ぜた。
「もうそろそろ納められていなくてはならない租税が、届いていなくてね」
「税が……ですか」
「ああ。もちろん、全部ではないよ。蘇曳からのがまだ、届かない」
「蘇曳」
 華星はつぶやき、はっと伶明の顔を見た。
「令尊の時代に、併合した国でしたよね?」
「ああ」
 伶明は湯を口に運びながら、頷いた。
「張皓が気にしていたのも、そのことだった」
「事故でしょうか。それとも、故意に……」
「まだわからない。でも、すぐに調べさせるつもりだよ」
 伶明は軽く手を振った。
(まつりごと)の話はやめにしよう。せっかくおまえと食事しているのだから、楽しい話がいい」
「楽しい話、ですか」
 華星は首を傾げる。――彼女自身は、別に政治の話でも良かったのだが。
「わたしには、特に変わったことはないのですけど」
「わたしの方はいろいろとめまぐるしく変わっているが、別段楽しいことはないしね」
 伶明は苦笑を浮かべた。そして、ふと話を変える。
「そういえば、広陵の王どのから書簡が届いていた」
 ――ぴたり、と華星の手が止まる。
 ちょうどその時、卓上にはあおあおとした沙拉(サラダ)が運ばれてきた。伶明は早速、ぱり、と瑞々しい菜をかじる。
「何の、書簡ですか?」
「広妃どのとおまえを、広陵に招待したいのだそうだよ」
「わたしを?」
 心の臓が早鐘を打つ。平常を装うのに華星は必死だった。
「どうやら、広妃どのの令尊……つまり、おまえの祖父だね。そのひとが死んで、今年で十周忌らしいのだよ。広妃どのは墓参りもすませておられないというし、気の毒には思っていたのだ」
 伶明は言葉を切り、酒を一口飲み下した。
「おまえは広妃どのの唯一の実子だから、合わせて招待されたのだろう」
 ――どうやら兄は何の疑いも持っていないらしい。華星は安堵すると同時に、泣きたいくらいの罪悪感に襲われた。兄は自分を信頼してくれているのに、自分はそれを裏切ろうとしている。生まれてからずっと側にいてくれたのは、この兄だったのに。兄は自分を好きだと――妃にしたいほどに好きだと、そう言ってくれているのに。
「華星はどうしたい?」
 伶明に尋ねられ、華星ははっと顔をあげた。伶明はいつもと同じ、優しい笑顔で彼女を見つめている。
「初めての長旅だから、辛いかもしれない。だが、いい経験になるかもしれない」
「……哥哥」
 華星は驚いて目を見開いた。――きっと、伶明は母に自分が同行することにいい顔をしないと思っていた。それなのに、伶明は何も言わずに彼女の意志を尋ねてくれている。
 伶明はそんな彼女の表情に、笑みを深めた。
「おまえが行きたいというのなら、反対するものがいたとしても、わたしが必ず行かせてあげるから。安心して、任せていなさい」
「…………」
 ――任せ、て。華星はその言葉に胸を衝かれた。そうだ……兄はいつでも、わたしの前を歩いていく。そして、時々振り返っては手を差し伸べてくれるのだ。だが、隣に並ばせてくれることはない。わたしはあくまで、兄の後ろを歩く以外に道はない……。
「母上は、広陵に帰るのをとても楽しみにしておられました」
 華星は結局伶明の問いには答えず、話をすりかえた。
「母上が喜ぶと思うと、わたしも嬉しいです」
「…………」
 伶明は華星をじっと見つめていたが、やがてふう、と吐息をついた。
「それなら、華星から広妃どのに話しておいてくれるかい?」
「はい」
 伶明は、やはり広妃を苦手としているのだろう。華星は頷きながらも、心の中で何度も伶明に対する謝罪を繰り返していた。――ごめんなさい、哥哥。こんな妹で、ごめんなさい……。