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第三章 変革之兆 – 三

 蘇曳に派遣した役人が殺害された。――張皓からその報せを聞いた伶明は、衝撃に顔を青ざめさせた。
「どういうことだ?」
「蘇曳側は、山賊の仕業であろうと申しております」
 張皓はいつもと変わらず冷静であったが、それでもやはり口元には緊張が伺えた。
「租税を略奪したのも、同じ山賊であろうと」
「山賊だと?!」
 伶明は拳で机を打ちつけた。鈍い音が部屋の空気を震わせる。
「それを信じろというのか……!」
 伶明はぎりと奥歯を噛みしめた。
「山賊の仕業というのなら、山狩りをすれば良い。蘇曳に軍を派遣しようではないか!」
「お待ち下さいませ」
 張皓は静かに遮った。
「山狩りをしても、見つからなければ蘇曳の言葉が真実かどうかの見分けはつきますまい。賊は軍におそれをなして解散したのだと、言い逃れることもできましょう。また、偽の賊を作り出すやもしれませぬ」
「偽の賊?」
「…………」
 張皓は伶明の問いに直接は答えず、声をぐっと低めた。
「今回のこと。もし蘇曳が嘘をついていると仮定して――蘇曳だけで事を為したとお思いですか」
「…………」
 伶明は眉間に皺を寄せる。
「そうとは思えぬな」
「はい。蘇曳といえば、戒絽と国境を接する国。そして、戒絽は――」
「令尊の葬式にも、わたしの戴冠式にも、欠席した」
 伶明はつぶやいた。
「なるほど、戒絽が……?」
「あくまでも可能性のひとつでございます」
「では、一体どうすれば良いのだ。蘇曳の言っていることが嘘か誠か、どうすれば見分けられる?」
「蘇曳に、命令を下されませ。山賊を探し出し、生け捕りにして都まで護送してくるようにと」
「蘇曳に捜索をさせるのか? それこそ、見つからぬという報告を寄越すだけでは……」
「期限をつけるのです」
 張皓はきっぱりと言った。
「期限はひとつき。そのうちに見つからなければ、山賊の話は出まかせと判断する。もし本当に山賊が存在したなら、今年の租税は減免してやる……と」
「…………」
 伶明は視線を落とし、頭を働かせる。
「もし山賊が存在しないなら、蘇曳には捕まえる事はできない。しかし護送してこないわけにもいかないだろうから、何とかしてでっち上げるか……」
「でっち上げたとしても、いずれ我らの手に落ちるのです。ゆっくりと吐かせれば良いだけのこと」
 伶明は頷いた。
「もし山賊が存在して、それが蘇曳の手に負えないようなら……蘇曳自ら軍の派遣を要請してくるだろうな」
「左様」
「なるほど、わかった」
 伶明は大きく息を吐き、椅子から立ち上がった。
「蘇曳に特使を派遣しよう。……武装した護衛をたっぷりとつけてな」
「は」
「それから――」
 伶明は顔を歪めた。
「殺害された、役人たちの遺族に十分な見舞金を払ってやれ」
「……畏まりました」
 張皓は深々と頭を下げる。――そして顔をあげた時、彼はわずかに微笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます」
「何がだ?」
 不思議そうに尋ねる伶明に、張皓は言う。
「陛下が、役人の遺族を気に掛けて下さったことを、嬉しく思ったのです」
「……当然のことだ」
 伶明はそう言うが、張皓は首を横に振った。
「いいえ、決してそのようなことはありませぬ。……政とは、時に非情なもの。しかし完全に情を失ってしまっては、国を治めることは不可能となる」
「…………」
「民の上に立つ者は、情に傾くくらいがちょうど良いのではありますまいか。非情に振る舞い、民に憎まれるのは我ら家臣の務め。王は民に愛されなくてはなりませぬ」
「……張皓」
 伶明は目を見開いた。彼の言葉に、胸を打たれたのである。そして、同時に己を恥じた。張皓は自ら選んで非情を貫いているのである。誰が民に疎まれたいだろう、憎まれたいだろう。それを――張皓は国の安定のためには厭わないというのだ。伶明は、己の未熟さを思い知らされたような思いであった。
 だが、張皓はすぐに笑みを消し、いつもの無表情に戻った。
「そういえば、広陵から書簡が来たとか」
「ああ」
 伶明は頷いた。
「義母上と華星を、先々代の十周忌の式典に招待したいそうだ」
「ここで広陵との結びつきを強くしておくことは、後々必要になるかもしれません」
「そうだな。蘇曳や戒絽と事を構える可能性がある以上、後顧の憂いは断っておきたい」
「それに――」
 突然、張皓は口をつぐんだ。
「何だ?」
 伶明が促すと、張皓は暫し逡巡した後に口を開いた。
「あちらの王族は広妃どのの家族にあたる方々。お二方をあちらへやっても、人質として使われる心配はありますまい」
「…………」
 伶明は苦笑を浮かべる。
「おまえの頭の回転の速さには、舌を巻くよ」
「陛下のお身内を危険に晒したくはありませぬからな」
「ありがとう」
 伶明の謝辞に、張皓は深く頭を下げて答えた。
「……それが、わたくしの務めでございますから」

  × × ×

 鵬嵩は宮殿内の書庫に向かっていた。中央政府に勤めることに慣れぬ彼は、数々の見知らぬしきたりに戸惑うことしきりであった。さいわい、伶明はそういったことを気にしないたちであるようだが、他の家臣らの目も気になる。自分を取り立ててくれた伶明の気持ちに応えるためにも、一日も早くここでの常識を身につける必要があった。
「多分、そういうものをまとめた書物があると思うんだけど……」
 鵬嵩はつぶやきながら重い樫の扉を押し開けた。独特の紙の匂いがつん、と鼻をつく。
「ほう」
 目の前に広がる膨大な書架に、鵬嵩は感嘆のため息をついた。
「これはすごい……」
 国中で最も蔵書が充実している場所なのだから当然だが、鵬嵩はこれだけの本を一度に見たことなどなかった。ここに収められている知識の数々を思うだけで、酩酊にも似た心地に襲われる。
「……おっと、いかんいかん」
 鵬嵩は首を左右に振った。仕事の合間を縫ってここに来ているのである。さっさと目当ての本を見つけ出し、仕事場に帰らなければ。
「しかし……」
 この膨大な本の中から、どうやって目的の捜し出せば良いのか。見たところ、書庫を専門に管理する者がいるわけでもなさそうである。
 ――自力で何とかするしかあるまい、と心に決めた鵬嵩は、手近な書架からあたることにした。靴音が高い天井に響く。
「誰か、そこにいるのですか?」
 突然の声に、鵬嵩は足を止めた。女の声である。しかも、年若い。
「わたしは鵬嵩です。あなたは、一体どなたです?」
「…………」
 軽い足音がしたかと思うと、鵬嵩の右手からひとりの女性が姿を見せた。長い黒髪の、十代半ばを少し過ぎたくらいの少女である。服装を見るに、女官ではなさそうだった。恐らくは、もっと身分の高い――。
「あ、あなたは……?」
 鵬嵩が重ねて尋ねると、少女は軽く首を傾げた。
「何か、本をお探しなのですか?」
「え、ええ。実は……」
 手短に事情を話すと、少女は彼を手招いた。
「お探しのものは、こちらです」
「え?」
 少女は鵬嵩の疑問符には答えぬまま歩き出し、彼は慌てて後を追った。
「たぶん、こっちの書架にあると思うのだけど……」
「…………」
 ――この少女は一体何者なのだろうか。鵬嵩は訝しく思ったが、あえて尋ねようとはしなかった。何となく想像がついた、ということもある。たぶん、彼女は三人いるうちの姫君のうちの誰かなのだろう。年齢からみると、長女か、次女か。それにしても、まさか姫君がこの書庫に通じているとは……。
「あなたは、良くここに来られるのですか?」
「ええ」
 少女は即答した。鵬嵩は重ねて尋ねる。
「女の身であるあなたが、一体何を読まれるのです?」
「……何でも」
 少女は一瞬立ち止まり、振り返った。おとなびた、物静かな微笑みが浮かんでいる。
「…………」
 何となくそれ以上聞くのもはばかられて、鵬嵩は黙って彼女の後をついて歩いた。
 いくつかの書架を縫って歩いたあと、少女はぴたりと足を止める。
「たぶん、この辺りです」
「ありがとうございます。助かりました」
 鵬嵩は頭を下げた。
「いいえ」
 少女は言った後、彼をじっと見つめた。
「……哥哥を、どうぞよろしくお願いします」
 鵬嵩は息を飲んだ。――それでは、やはり……。
「あなたは――」
「華星、と申します」
 少女は礼儀正しく辞儀をした。鵬嵩は慌てて礼を返す。
「し、失礼しました。わたくしは鵬嵩と申します」
「ええ」
 少女――華星は控えめに微笑んだ。
「お名前は先ほど伺いました。それに、お噂は常々哥哥から聞いております」
「は、はあ」
 鵬嵩は頭をかく。――どうも、自分よりもずっと年下のこの少女を相手に調子が出ない。彼女の纏う独特な、浮世離れした雰囲気に呑まれてのことかもしれなかった。
「先ほどは、失礼なことを言ってすみませんでした」
「失礼なこと?」
 華星はきょとんとした。表情が変わると印象までもがころりと変化して、ひどく幼い雰囲気になった。鵬嵩は内心でほっとする。
「女の身でどうのこうの、と……差し出がましいことを言ってしまいました」
「ああ」
 華星は笑った。
「そんなこと、お気になさらないで」
「しかし……」
 鵬嵩は渋面を作った。咄嗟に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまったのだが、思い返してみれば随分と失礼な言葉である。かつて地方官吏であった彼が伶明に法整備を進言したのと同じように、たとえそれが一般的ではないことであろうとも、女が書物を読んで悪いということはあるまい。
「わたしはただ、趣味で読んでいるだけ。殿方のように、仕事のためというわけでもないのですから」
「…………」
「それでは、失礼致します」
 鵬嵩が答える言葉を見つけられずにいるうちに、華星は一礼してその場を歩き去った。

 ――辺りから彼女の気配が消えた後。
「華星どの……か」
 鵬嵩は小さくつぶやく。彼女の出会いは、彼の中に鮮烈な印象を残していったのだった。