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第三章 変革之兆 – 七

 広陵で用いられる移動住居、包は、夜の中にひっそりとその白い姿を浮かび上がらせている。周囲には大小様々な包が数十ほど点在しているはずなのだが、今見えるのはそのうちの十個足らずだった。朝になれば、離れて建つ分まで見えるようになるだろう。
 
 華星らがその集落に辿りついたのは、既に黄昏時であった。彼女らのために設けられた包に案内された後、今宵は歓迎の宴が催されると伝えられた。なかなかの広さのあるその包には、華星と広妃、そして璃春と広妃の連れてきた侍女ふたりの五人が滞在することになる。彼女らは汚れた旅装束を解き、用意されていた着替えに袖を通した。広妃は感慨深げにつぶやく。
「もう一度広陵の服を着られるとは、思わなかったわ」
 衣服のつくり自体は、興とさほど違わない。ただ、広陵のもののほうが簡素で、動きやすさを重視されているように思われた。
「あら。似合うわ、華星」
 着替えを終えた娘を見て、広妃は微笑んだ。
「そうね――あなたも、ここの血を引いているのですものね」
「……ええ」
 華星は控えめにうなずく。確かに、初めて身につけたはずの衣服であるにも関わらず、彼女の体に良く馴染んだ。
「着替えはお済みになりましたでしょうか?」
 外から、若い女の声がした。華星らを迎えに来たのだろう。
「ええ、今行きます」
 広妃が答え、華星もまた出口に向かって歩き出した。
「行ってらっしゃいませ」
 侍女らは宴ではなく、別の場で食事を取るという。璃春は華星にこっそりと目配せをした。――土毅の耳飾りは、今は彼女に預けている。あまりおおっぴらに揃いのものをつけるのも良くないだろう、という華星の配慮だった。
 華星は璃春に小さな微笑みを返した。きっと、宴の場で土毅に逢える。言葉を交わすことはできなくとも、きっとその場にいるはず。そう思うだけで、不思議なほどに気分は高揚するのだった。
 
 宴の場では、華星にとっては初めて逢う「親戚たち」が一同に会していた。思えば土毅も土葉も、彼女の従兄弟にあたる存在なのだ。伯父、伯母、そして彼らの息子や娘たち。彼らは皆、あたたかく華星を迎えた。
珪華(ケイカ)の娘が、もうこんなに大きいなんてねえ」
 伯母のひとりが、そう言って笑う。珪華。母の本当の名前はそういうのだと、華星はこのとき初めて知った。考えてみれば当たり前だ。広妃、という呼び名は、広陵から来た妃ということを示す以外の何者でもないのだから。華星にすら本名を明かさなかった母――過去を、故郷を捨てるためのけじめだったのかもしれない。
 当の母はあまり酒にも手をつけず、さほど楽しんでいるようには見えなかった。華星が心配そうに見上げると、何でもないわ、というように笑みをみせる。
「疲れただろう。明日の朝はゆっくり休みなさい」
 伯父のひとりが、広妃の肩に手を置こうとした。それを、広妃は自然な動きですっと避ける。
「哥哥」
 広妃は微笑みを浮かべたまま、言った。
「わたしは、興の妃です」
「…………」
「あなたの小さな妹妹(いもうと)では、ないのです」
「何を言っているんだ」
 伯父は解せないことを言う、と眉を寄せた。酒のせいか、やや顔が赤い。
「おまえは永遠におれの妹妹だ。どこに嫁に行ったって変わるものか。なあ?」
 同意を求めるように周囲を見回す。数人の者が頷き返した。
 ――突然、広妃は立ち上がった。
「申し訳ありませんが、気分が優れないので……今宵は失礼致します」
「お、おい!」
「広妃どの」
 土毅が声を上げる。
「ご無礼を致しました。お赦し下さい」
「何を言ってる、土毅!」
 抗議の声をあげた伯父を、土毅は右腕を軽く差し出すことで留めた。その表情は、険しい。
「伯父さん。広妃どのは、わが国の国賓ですよ」
「しかし、おれの妹妹だぞ?!」
「わからないのならわからないでもよろしいが――」
 土毅は鋭い眼差しを向けた。
「外交の邪魔は、していただきたくありません」
「…………」
 甥に圧倒され、彼は口をつぐんだ。
 広妃は土毅に軽く一礼をして、後を追おうとした華星を止めた。
「大丈夫よ、華星。あなたは興の姫として、ここにいて。いいわね?」
「……はい」
 華星は頷く。――彼女には、母の心理がおぼろげながら理解できていた。母が故郷を離れるとき、どれほど辛かったか。どれほどの努力をして、望郷のこころを断ち切ったか。親の死に目にも会えなかった、それがどれほど悲しいことだったか。二十年間、どれほど寂しかったことか。家族への愛情と、自分を捨てたことに対する恨みと、矛盾したふたつの感情の間でずっと揺れ動いてきたのだ。何事もなかったかのようにあたたかく迎えられても、それは彼らが彼女にした仕打ちを一方的に忘れ去られてしまっているようで、受け入れることはできないだろう。
 帰郷が嬉しくないわけではない。家族に再会できたことが嬉しくないわけではない。ただ、素直に喜べるほど、母の二十年はしあわせなものではなかったのだ。せめて、彼女の苦節をねぎらってくれれば。謝罪してくれれば。感謝してくれれば。――理解してくれれば。
 やや白けた場の雰囲気を救ったのは、温和な土葉の声であった。
「華星さん。広陵の食事は、お口にあいますでしょうか」
「ええ」
 華星は即答し、微笑む。
「何だか、あたたかい感じがします」
 それは決してお世辞ではなかった。興の宮殿での食事は、ここで供されるものよりもずっと豪華で手の込んだものだったが、華星は広陵の質素な食事の方が好きだ、と思った。肉は肉のままの、菜は菜のままの味がして、それぞれの旨味が良く引き出されている。新鮮なものばかりだからだろうか、と思った。
「あたたかい……ですか」
 答えたのは、土毅だった。華星ににこりと笑いかける、その耳朶にはあの耳飾り。――外してきて良かった、と華星は思った。
「それは良かった」
 その声に潜む彼の優しさに気付き、華星は微笑む。きっとここが土毅の国だから、そしてここに土毅がいるから、こんなにもこの食事はあたたかいのだろう。
 目が合うと、土毅はわずかに頬を紅潮させて視線をそらした。その様が、先ほど伯父に相対した時の毅然とした様子とはあまりにも違っていて、華星はくすりと笑みを漏らす。草原之民の王としての土毅と、実のところまだ二十歳の青年に過ぎない土毅。どちらも彼で、そしてそのどちらの彼も、華星には好ましく思えるのだった。

  × × ×

 翌朝。日が高く上ってから目を覚ました華星は、辺りを見回し、包の中に母がいないことに気付いた。
「目が覚めた? 良く寝ていたわね」
 璃春がくすりと笑って彼女の顔を覗き込む。
「広妃さまなら、お出掛けになられたわよ」
「出掛けた……?」
「ええ。ご兄弟の方が、お迎えに来られたの」
「……そう」
 昨夜のことを思い出して不安になる華星に、璃春はこっそりと耳打ちをした。
「それから――さっき、土毅さまが」
「え?」
 華星は璃春を見つめる。彼女はこくりと頷き、続きを口にした。
「少し周囲を案内したいから、朝食と身支度を終えられたら外に来て下さいって」
「わかったわ」
「あと、これ」
 璃春は華星の手に、例の耳飾りを握らせる。
「今日はつけていて欲しい、ですって」
「…………」
 華星は顔を赤らめながら、それを受け取った。――まさか、気付かれているとは思わなかった。土毅は澄ました顔をしていたが、実はこちらを時々見ていたのだろうか。そう思うと、今更ながらにひどく恥ずかしくなった。
「ほらほら、早く行かなきゃ!」
 璃春に急かされ、ぼうっとしていた華星は、慌てて着替えを始めたのだった。

「――遅かったな」
 転び出るようにして包の外に出た華星に、白い馬に跨った土毅が声を掛けた。彼の片手は、小柄な栗毛の馬の手綱を引いている。
「良く眠れたか?」
 辺りに彼女らの会話を聞く人間がいないからか、口調は興でふたりで会っていたときそのままである。華星は頷いた。
「璃春から聞いたと思うけど、辺りを案内するよ。馬、乗れるか?」
「……乗ったことないわ」
 華星は首を横に振った。土毅はやっぱり、とつぶやく。
「でもまあ、この馬はおとなしいから大丈夫だと思うぜ」
 土毅は馬から降り、華星の側に寄った。
「ほら」
 腿ほどの高さの場所に手を差し出され、きょとんと目を瞬く。土毅は彼女を促した。
「ここに足を掛けて。鞍の上によじ登るんだ」
「手に、足を?」
 戸惑う華星を、土毅は再び促す。
「いいから。ほら」
「…………」
 華星は躊躇った後、やがて彼の掌に足を掛けた。おそるおそる、鞍によじ登る――が。
「あの……」
 鞍に腹ばいになったまま、華星はつぶやいた。
「これ、無理……」
「無理?」
「こ、怖いの。ここから動けない……」
「ううん……」
 土毅は首をひねる。
「弱ったなあ」
「…………」
 本当に弱っているのは華星である。今は大人しく立ち止まっている馬だが、もし突然動き出したら……。彼女にはどうすることもできない。
「哥哥」
 その声に、ふたりは振り向いた。――正確には、華星は地上を見下ろした。視線の先で、土葉が苦笑を浮かべている。
「いくらなんでも、いきなりひとりで馬に乗せるなんて無理ですよ」
「そうか?」
「生まれた時から馬に親しんでいるぼくらとは、違うんですから」
「そうか」
 弟に言われて納得したのか、土毅は華星の腰を両手で抱きかかえ、地面に下ろした。彼女はぺたりと土の上にへたり込む。
「こ、怖かった……」
「悪い悪い」
 青い顔をした彼女に、土毅は頭を掻きながら謝った。
「哥哥の馬に、一緒に乗せてあげればいいじゃないですか」
 土葉はにっこりと笑ってそう提案する。
「初心者は、やはり同乗するとこからはじめないと」
「…………」
 思わず顔を見合わせたふたりを、土葉はさらに促した。
「さあ、ぼくも手伝いますから。哥哥は先に馬に乗って、華星さんを引き上げて下さい」
「……お、おう」
 半ば強引に押し切られるように、土毅は己の馬に跨った。土葉の腕を借りて鞍に捕まった華星を、土毅が引き上げて自分の前に座らせる。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
「う、うん」
 土毅は華星を腕で囲むように固定して、手綱を引いた。笑顔の土葉に見送られ、馬はゆるい速度で歩き始める。
「怖くないか?」
 背後から土毅に尋ねられ、華星は首を横に振る。背中には土毅がいるのだ。何も恐れることはない。
「そうか」
 土毅は手綱から片腕を離し、華星の腰を抱き締めた。
「――会えて、嬉しい」
「ええ」
 華星は彼の手の上に己の両手を重ねた。
「わたしも……」
 見渡す限りの草原。あおあおとした葉の上で、陽光がきらきらと反射している。風が渡るたび、波が起こった。
「…………」
 華星は遠くに視線を投げる。光のまぶしさに、目を細めた。このまま、どこまでも駆けて行きたい。土毅とふたりで――どこまでも。