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第三章 変革之兆 – 一

 伶明の即位から、ひとつきが経った。皇帝が代わったとはいえ、国民の生活には目立つ変化はまだない。だが宮廷においては違った。
 宰相は前帝の頃と変わらず張皓が務めているが、伶明はもうひとり、新しい文官を重用した。名は鵬嵩(ホウスウ)。年は三十過ぎで、これは異例の若さである。
 鵬嵩は地方の官吏であったのだが、数年前に彼の住まう地方で旱魃があり、皇帝の元へ租税を減じるように直訴に来た。奏陽は自ら会おうとはしなかったが、彼との応対を太子である伶明に命じた。そのとき、伶明は鵬嵩の人柄と強い使命感、そして爽やかな弁舌に心を打たれたのである。
「税とは何のためのものでありますか」
 鵬嵩に尋ねられ、伶明は即座に答えた。
「国を整えるために必要なものだ」
「それでは、国とは何でありましょう」
「それは土地と民――それからそれを治める為政者であろうな」
 その言葉に、鵬嵩は膝を打った。澄んだ瞳をきらきらと輝かせながら、伶明を見つめる。
「太子どのは、民を為政者よりも先におっしゃいましたな。素晴らしいことです」
「……それはそうだろう」
 伶明は言った。
「我らが犀王朝の前には、()王朝があった。その前にもまた別の王朝があったが、民は常にあり続けている。治める者が変わろうとも、民は変わらぬ」
「それならば、わたしが申し上げたいこともきっとお分かりになっていただけるはず」
 鵬嵩は勢い込んで言った。
「先ほど太子どのは、『税とは国を整えるために必要なもの』と仰いました。そして、『国とは土地と民、為政者』であるとも」
「…………」
「このたびの重税は、我が地方の民を苦しめます。民を荒らします。税が国を整えるためであるとするならば、これは矛盾ではありますまいか」
「…………」
 伶明は咄嗟に反論の言葉が出なかった。鵬嵩は言葉を重ねる。
「もちろん、目的がおありになっての課税ではありましょう。しかし、民を荒らしてまで得た税で国を整えたとしても、その効果は薄いものと愚考致します。それならば今は課税を延期し、民をお守り下さいませ。守り育まれた民は、いずれより多くの税を生み出しましょう。それを元に、国を整えられれば如何です」
「…………」
 伶明は目を閉じた。
「……そなたの申していることは良くわかった。しかし一度そなたの要請を容れれば、際限なく訴えが届くようになるであろう。国全体を見渡して考えれば、簡単に前例を作るわけにはいかないのだ」
「それならば」
 鵬嵩は変わらず真っ直ぐに伶明を見つめている。
「正式に税の減免措置を作れば良いのです」
「それは」
 伶明は思わず目を開いて鵬嵩を見た。
「地方官吏であるおまえには過ぎたる言葉だ」
「差し出がましいのは承知でございます」
 鵬嵩は頭を下げる。
「それでも……故郷(くに)に戻れば、皆は旱魃に苦しんでいるのです。わたしがここでいくら叱られようとも、わたしは苦しくはありません。苦しいのはわたしではなく、民なのです」
 伶明は突然、鵬嵩に尋ねた。
「……そなた、名前は?」
「鵬嵩と申します」
「鵬嵩……か」
 伶明は立ち上がりながら、言葉を掛ける。
「そなたの名は、覚えておく」
「太子どの!」
 引きとめようとした鵬嵩は、伶明の顔を見てはっと息を飲んだ。――彼から顔を背けるようにしている伶明は、悔しげに唇を噛み締めている。
「すまぬな」
「……太子どの」
「わたしにその権利があれば、おまえをすぐにでも取り立て、租税の減免措置に関する法を作るように命じるだろう。しかし、今はまだ、できぬ」
「……勿体ない仰せにございます」
 鵬嵩は深々と礼をした。
「国の者には、太子どののお気持ちをお伝え致します」
「わたしの気持ちなど、何の腹の足しにもならぬがな」
 自嘲気味に唇を歪めた伶明に、鵬嵩は首を横に振った。
「そのようなことはありませぬ。あなたさまはいずれ我らが為政者となる御方ですから」
「…………」
 伶明は鵬嵩を見下ろし、微笑む。
「どれほど先のことかはわからぬが、いずれわたしが帝位を継ぐ日が来たならば――おまえを必ず呼び寄せよう」
 鵬嵩は静かに答えた。
「はい。心積もりしておきます」

 ――あの日の謁見から、数年。伶明が思っていたよりもずっと早く、その日が訪れた。そして今、伶明の目の前には鵬嵩の作り上げた法令がある。租税の減免に関する、法令である。
「いつお呼びが掛かっても良いようにと、準備しておきました」
 屈託なく微笑むその顔は、幼ささえ漂わせていた。伶明は満足げに頷き、鵬嵩を見つめる。
「その調子で、これからも頼む」
「はい」
 伶明には夢があった。国を富み栄えさせたい。隣国と良好な関係を築きたい。何より、民を幸せにしたい。――青い理想と言われても良い。ただ、彼は皇帝の面子を保つための政治をしたくはなかった。誰かを犠牲に権勢を誇るような真似をしても意味がない。
 張皓は有能な政治家だが、時に非情な決断を下すことも厭わない冷徹さがある。伶明にはそのことがひどく受け入れられがたく感じるのだった。
 伶明はふと鵬嵩に尋ねた。
「おまえは、大勢の為に少数者を犠牲にすることについてどう思う?」
「……犠牲の程度にもよりますが」
 鵬嵩は慎重に答えた。
「たとえば、少し我慢すればすむくらいのことなのか、それとも命や生活そのものが脅かされるほどのことなのか」
「後者だとすれば?」
「……たとえ得られる利益が小さなものになろうとも、犠牲の中には決して侵してはいけない一線があり、それを越えるべきではないと考えます」
 鵬嵩の言葉に、伶明は頷いた。
「……わたしもだ」

  × × ×

 伶明が即位して以来の広妃は、傍目にも機嫌良く見えた。不仲だった夫がいなくなったためか、それとも娘と伶明との婚儀が喪が明けるまで延期せざるを得なくなったからか。――本当の理由を知っているのは、娘である華星だけだった。
 その日も、広妃は上機嫌で部屋に花を飾っていた。白磁器の花瓶に映える、黄色の花。
「まさか、生きているうちに広陵に戻れる機会が来るなんて、思わなかったわ」
 広妃が言っているのは、以前土毅が彼女に提示した「里帰り」のことである。広妃の父の十周忌に合わせて一度帰郷してはどうか、と。
「哥哥のお許しが出ると良いですね」
「あら」
 華星の言葉に、広妃は振り返った。
「伶明の許しなど必要ないでしょう。あの子はわたしの息子でもあるのよ?」
「……ええ、それはそうですけれど」
 華星は控えめにつぶやいた。……土毅は何故母に会ったのだろう。そして何故、母を広陵に呼んだのだろう。彼のことだ、何かの考えがあってのことに決まっている。それに、きっと華星自身も無関係ではない……。
「でもまあ、あの子も今は皇帝の身ですから、立場を慮ってあげなければならないでしょうけどね」
 広妃は華星を見つめ、首を軽く傾げた。
「華星も、一緒に来てくれる?」
「ええ」
 華星は微笑む。
「是非」
「でも、それこそ伶明を説得するのが大変ね」
 広妃はため息をついた。
「あの子はあなたを溺愛しているもの」
「…………」
 華星は目を伏せる。――「何も心配しなくていい。わたしがずっと側にいるから」。その伶明の言葉は優しくて、つらい。彼女が自分の居場所を求めて足掻いている努力をすべて否定されたような、そんな心地すらする。自分には心配することすら許されないのか、と。伶明には――いや、伶明でなくとも、ずっと自分の側にいることなどできはしない。必ず離れる時はある。その時、彼女を守れるのは自分しかいない。彼女が求めているのは、その強さだった。もう消えてなくなりたくなどならないですむように、自分の拠がわからなくならないように。自分の足でしっかりと、地面に立てるように。
「そういえば」
 広妃の声に、華星ははっと意識を現実に引き戻された。広妃は花瓶の置き場所を探して、部屋の中を歩き回っている。
「もうあの男はいないのだから、わたしがこの国にいる意味はないはずなのよね」
「…………」
「でも」
 広妃は華星を見て、にっこりと笑った。
「あなたを置いて帰ることなど考えられないわ。それならわたしはこの国を選ぶ。あなたのいる場所が、わたしの居場所なんだもの」
「……母上」
 華星は椅子から立ち上がり、広妃の背中にそっと抱きついた。
「どうしたの? 華星」
「……何でもないのです」
 暖かな背中。――華星は涙をぐっと堪える。
 結局、母をこの国に縛り付けているのは自分なのだ。自分さえいなければ、母は広陵に帰れたのに。母はこんなにも故郷に帰りたがっているのに。また、自分は母の幸せの邪魔をしている。
「…………」
 広妃は花瓶を卓上に置き、華星の手にそっと自分の手を重ねた。
「華星、大好きよ。生まれてきてくれたのが、あなたで良かった」
 ――その言葉を何も疑わずに信じることができれば、自分はどれほど楽になれるだろうか。華星は右の耳朶に神経を集中させた。そこには金色の耳飾りが揺れている。今広陵で、土毅の左耳を飾っているものと同じ。
 彼は自分が必要だと言った。彼女は彼の右腕になれると、役に立つと、そう言ってくれた。彼女でなければ駄目なのだと。――好きだと。
 土毅の笑顔を思い出す。それは部屋を飾る黄色い花にも似て、どこか光の匂いがするのだった。