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第一章 籠之鳥 – 四

 今年の興への使節団に、土毅自らが参加する。――彼の意思を聞いた者は、誰もが驚いた。既に興との関係は悪化の一途を辿っている。今でも毎年少数の使節団を派遣してはいるが、何も一国の長自らが参加する必要はないだろう。
 だが、土毅はきっぱりと言った。
「今後の道を見極めるためにも、今おれ自身が行くべきなんだ」
「しかし、危険すぎるのでは……」
「もしおれの身が危険に晒されるようなことがあれば、それはそれで事態がはっきりする。興は次に広陵を攻めるつもりだ――とな」
「自分の身を試金石になさるつもりですか?!」
「あなたの身に危険が迫っては元も子もありませぬぞ?!」
 口々に詰め寄る者たちを、土毅は一喝した。大地の色をした瞳がらんと輝いている。
「勘違いするな。おれの代わりはいくらでもいる。だが、広陵という国の代わりはないんだ。この国土、この国民――その代わりはどこにもない。……それが、親父がおれに言い遺したことだ。おれもそう思う」
「…………」
 己よりも年長の者たちを相手に、土毅はあくまで堂々としていた。
「おれ自らが乗り込んで行く意味を、きっとあちらも考えるだろう。それでいいんだ。警戒心を抱かせるだけでも、抑止力にはなる」
「……昔からあなたは言い出したら聞かないお子でしたな」
 年嵩の男が、そう言って土毅の前に跪いた。
「あなたに従いますよ――我らが長」
「ありがとう」
 土毅は頷き、西を見遣った。――今度は会えるだろうか……華星。治世に私情を持ちこんではならないのはわかっている。それでも、やはり彼女を想うと胸が高鳴った。
 風が吹く。土毅の長く編まれた髪が、広い背の上でふわりと跳ねた。

  × × ×

 伶明が華星の部屋を訪れると、彼女はいつものようにぼんやりと本を読んでいた。その身を包むのは見慣れない桃色の服である。
「華星」
 声を掛けると、華星ははっと顔をあげた。結われていない長い黒髪が、胸元に垂れていた。
「その服。新しいの?」
 華星は面映そうに頷く。
「良く似合ってるよ」
 伶明が目を細めてそう言うと、華星はますます顔を赤くして俯いた。
「あの……何か、ご用ですか?」
「ううん。華星と話をしに来たんだ」
 伶明は華星の隣に座り、ゆったりと足を組んだ。
義兄妹(きょうだい)とはいえ、あまりゆっくり一緒に話をすることってなかったからね」
「ええ……そうですね」
 華星は微笑み、本を閉じる。伶明は彼女を優しく見つめながら、問い掛けた。
「華星は……何をしているときが一番楽しいの?」
「……楽しい?」
 華星は鸚鵡返しにつぶやき、首を傾げた。
「本を読んでいるときか……眠っているときか……」
「若い女の子らしくない答えだね」
 伶明は軽い調子で笑った。華星は唇をとがらせ、反問する。
「では、哥哥は?」
「そうだね……美味しいものを食べているときとか、あとは」
 伶明は華星の肩に手を回す。華星は一瞬ぴくりと体を震わせたが、素直に彼に凭れかかった。
「華星とこうやって一緒にいるとき……かな」
「…………」
 伶明は華星を見た。
「華星は、わたしといるのは嫌か?」
「いいえ」
 華星はかぶりを振った。
「哥哥の側にいると、安心します」
「そうか」
 伶明はほっと吐息をついて、華星の髪を撫でる。
「ねえ華星。わたしはおまえを幸せにしたいんだ」
「…………」
「どうしたらいいんだろうね?」
「……哥哥」
 華星は微笑む。その微笑の儚さに、伶明ははっとした。
「わたしは幸せです。今でもう、十分幸せなんです」
「華星……」
「これ以上望むことなんて何もありません。ですから、安心して下さい」
「…………」
 ――嘘だ。伶明はその言葉を飲み込んだ。華星が幸せだって? それなら何故、眠っているときが一番楽しいなどと言うのだ。時々遠くを見るその眼差しは、一体何を見ているというのだ。
 華星はいつだって本心を言わない。相手に遠慮して、気を遣って、相手の望むような自分を演じようとしている。それが伶明には辛い。せめて、自分の前では自然な姿の華星であって欲しいのに――。
「華星」
「はい?」
 顔をあげた彼女を、伶明はそっと抱き締めた。
「わたしは――何があっても、おまえの味方なのだからね。そのことだけは、忘れないでおくれ」
「…………」
 華星は少しだけ黙って、やがて彼の背中に腕を回した。
「……はい。哥哥」
 いつも通りの、静かな声音。これほどまで近くに寄り添っていても、華星の本当の心が見えない。わからない。伶明は己の不甲斐なさに、唇を噛み締めていた。

 華星の部屋を出た後、伶明は璃春に声を掛けた。
「なあ、璃春」
「は、はい?」
 花を活けていた璃春は驚いた様子で振り返る。
「何でしょうか? 太子さま」
「伶明、で良いよ」
 伶明は苦笑を浮かべ、腕を組んで壁に凭れた。
「おまえの目から見て、華星はどんな子だ?」
「え……?」
 璃春は戸惑いを浮かべ、手を止める。その指には白い蘭がつままれていた。華星に良く似あう花だ、と伶明は思う。
「率直な言葉が聞きたいんだ。幼なじみとして、華星をどう思う?」
「どう思うって……」
 璃春は口ごもった。
「気さくで、飾らなくて……とても思慮深い方だと思いますけれど」
「うん……じゃあ、質問を変えよう」
 伶明はじっと璃春を見つめた。
「華星の欠点は、何だと思う……?」
「…………」
 璃春は目を見開く。伶明は重ねて言った。
「何でもいい。思いついたことを自由に言ってくれ」
「……欠点、ですか」
 璃春はため息混じりにつぶやいた。
「自分のことをあまり大切にしないところ……でしょうか」
「具体的に言うと?」
「他人の気持ちは敏感に察するのに、自分がどう思っているのかを表現するのが本当に下手で……もしかしたら本当にわかっていないのかなって思うくらい」
「……なるほど」
 伶明は頷いた。それは彼にも心当たりがある。
「自分の気持ちを一番わかってあげられるのは、自分のはずなのに……」
 璃春は目を伏せ、力なく肩を落としている。本当に華星のことを心配しているのだろう。――いい友人だ、と伶明は思った。
「ありがとう」
「え?」
 伶明の礼に、璃春は驚いたように顔をあげた。
「ありがとう――華星の良き友人であってくれて」
「いいえ」
 璃春は頭を横に振る。
「わたしは華星のことが、大好きですから」
「うん」
 伶明は微笑んで頷いた。
 華星は、誰にでも好かれる少女だ。確かに彼女の出自について悪し様に言う者はいる。だが、彼女自身については――誰もが口を揃え、良い子だというのだ。権力欲にまみれた城中で、彼女は異質な存在だった。
「……ん?」
 伶明は小さな引っ掛かりを覚え、首を傾げた。――誰にでも好かれる……良い子。それは本来の華星の姿なのだろうか。彼女も人並みにわがままを言うことくらい、あってもいいのではないだろうか。
「わがまま……言わせてみたいな」
 伶明は小さくつぶやく。華星が思い切りわがままを言えるような、そんな存在になりたい。それでこそ広妃も、安心して娘を託す気になろうというものだろう。
 目標を定めた伶明は、反動を付けて壁から背中を離した。
「璃春。――これからも、華星をよろしく頼むよ」
「……はい」
 璃春は膝を曲げてお辞儀をし、歩き去る彼を見送った。

  × × ×

 華星の部屋の壁には、興とその周囲の国を描いた地図が張ってある。その一点――広陵を、彼女はじっと見つめていた。
 翌週、広陵からの使節団が訪れるという。近年は土毅の姿を見かけないが……今年はどうだろうか。
「でも……」
 華星はぽつりとつぶやいた。
「わたし、何を期待しているのかしら……」
 土毅に出会えたからといって何だというのだろう。彼はすぐに広陵へ帰ってしまうし、そもそも彼女自身とは何の関係もない存在だ。それなのに、どうして自分は土毅のことを考えてしまうのだろうか……。
 土毅のことは噂に聞いている。若くして広陵の長の地位についたということ。弟らや先代の長の側近らとともに、良く広陵を治めているということ。遊牧民族である彼らの生活は天候によって大きく左右されるが、彼は一昨年の豪雨も、昨年の旱魃も他国の援助を受けずに凌ぎきっている。そして、もうひとつ――彼は興に対して毅然とした態度をとり続けているということ。
 広妃は先代の長の妹だから、土毅は彼の甥にあたることになる。だが、広妃が彼のことを語るのは聞いたことがなかった。彼女は彼が生まれるよりも前に広陵を離れているはずだから、無理もないかもしれない。
「……それなら土毅は、わたしの従兄弟にあたるのね」
 白い寝巻きを纏った華星は寝台に横たわり、小さくつぶやいた。
「いつか、ゆっくり話をしてみたいわ……」
 母の故郷である広陵は、一体どんな場所なのか。母の兄――つまり華星の叔父は、どんな人だったのか。
 母は――広陵に己が捨てられたと思っている。広陵が興と良好な関係を保つために差し出した、人身御供なのだと。悔しげに、悲しげに語る母に、華星はそれ以上広陵の話を聞くことはできなかった。聞けば母を苦しめるだろうし、華星も母の恨み言を敢えて聞きたいとは思わなかった。――聞けば、思い知らされる。自分は望まれない子だと、呪われた運命の元に生まれた子だと、思い知らされてしまう。
 華星は背中を丸め、膝を抱えた。目を閉じ、優しい闇に安心する。
 ――華星は……何をしているときが一番楽しいの? 伶明の問いを思い出し、華星は薄目を開けた。
「だって……眠っていれば、何も見えないし……聞こえないもの」
 彼女を傷つけるもの、彼女が傷つけるもの。眠りの中には、何もない。
「ずっと……眠っていたいな……」
 ――還りたい。華星はまどろみの中で、その詩を口ずさんでいた。