instagram

第一章 籠之鳥 – 五

 広陵からの使節団が興を訪れ、都は歓迎の空気に包まれた。以前ほど盛大な使節ではなくとも、異国がわざわざ皇帝に貢物を持ってくる――その事実は、興の人々の誇りを満足させるに十分なものだった。

 城に通され、皇帝である奏陽への拝謁を許された土毅らは、貢物の目録を差し出した。
「……馬の数が我らの要請に幾分足りないようだが?」
 たいした身分でもない役人に居丈高に詰問されても、土毅は激することもなく静かに答えた。
「昨年は広陵が旱魃に襲われました。これ以上の数の馬を用意するのは至難の業――どうぞお汲み取り下さい」
「こら、口を慎め。――土毅どの、不躾なことを言ってすまなかった」
 役人を叱責し、土毅への謝罪を口にしたのは奏陽の隣に座る太子――伶明だった。土毅は軽く頭を下げるにとどまる。次代の皇帝となる伶明。この男の器を、土毅は知りたいと思った。
「…………」
 眼前で繰り広げられるやりとりを冷ややかに眺めていた奏陽は、やがて口を開いた。
「遠路はるばるご苦労であったな。今宵は宴席をもうける。事情があってわたしは出席できないが――楽しんでいかれよ」
 自分は出席しない――その言葉に、土毅はじっと奏陽を見つめた。異国の使節をもてなす宴に参加しないとは、何か思惑があるのかと推し量ったのである。だが、奏陽の表情からは何も伺うことができなかった。ただひとつ、彼の妙にこけた頬が土毅の気に掛かった。

  × × ×

 宴は、贅を凝らしたものであった。牧畜を生業としている広陵の者は、家畜の肉や山菜を食べ慣れている。だからであろう、卓に並ぶ皿のほとんどは海産物を料理したものであった。驚き喜ぶ広陵の者たちの中にあって、土毅は冷静に考えていた。――これは、興で獲れたものではない。恐らくは南国、戒絽から送られてきた貢物であろう。つまり、この国は戒絽ら広陵以外の国に対しても大きな影響力を持っているのだと、興は広陵に対して示してみせているというわけである。
 土毅は瑠璃の器に注がれた果実酒を一息で飲み干し、辺りを見回した。――やはり、華星の姿は見当たらない。彼女も妙齢、たやすく異国の者の目に触れさせるわけにはいかないということか。
「何か、お探しですか?」
 彼の目の前に座している伶明が、目敏く彼の視線の動きを察知したらしい。土毅はゆるく首を横に振った。
「いいえ……別に」
 伶明はそれ以上追求しようとはしなかった。酒が入ったせいか目元を赤くして、伶明はにこにこと土毅に微笑み掛けている。――太子はあまり父親である皇帝とは似ていないらしい、と土毅は思った。
「そういえばあなたとわたしは同い年だそうですね」
 伶明は言った。土毅は頷く。
「既にあなたは一国の長――頭が下がります」
「いえ、たまたま父が早く亡くなっただけで……しかも我が広陵は小国。貴国のような大国、決してわたしのようなものには務まりますまい」
「ご謙遜を」
 伶明は微笑んだ。
「広陵とわが国はふるくから親交を持っている。これからも良き隣国でありたいものです」
「ええ、願わくば」
 この太子の本心がどこにあるのか、土毅にはわからない。だが、戦が避けられるものならその方が良いに決まっている。
「実際、わたしも広陵には少なからず親しみを持っているのですよ。わたしの義母は広陵の出ですし、義理の妹も――」
 妹――その言葉に、土毅は動揺した。
「あっ」
 土毅の手から、瑠璃の盃が落ちる。注がれていた酒が膝の上に飛び散り、器は床の上で硬質な音を立てて砕け散った。
「す、すみません」
 慌てる土毅の元に、侍女らが駆けつけた。伶明は腰を浮かせ、土毅に尋ねる。
「お怪我はございませんか?!」
「え、ええ。しかし、盃が――」
「盃のことならお気になさらずとも良い。……しかしお召し物が汚れてしまいましたな。着替えて参られては?」
「は。重ね重ね申し訳ない」
 付き従おうとした国の者を留め、土毅は独りで広間を出て行った。

 冷たい夜風に頬をなぶられ、土毅は気持ち良さそうに目を細めた。――風は、広陵も興も変わらない。この風に乗って、故郷に帰ることができればいいのに……。土毅は空を振り仰ぐ。今宵は満月であった。
 宴の場から離れると、しん、と静寂が辺りを包み込む。中庭を突っ切って迎賓殿に向かおうとした土毅であったが、ふと足を止めた。

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって

 か細く流れてくる歌声。土毅は息を呑んだ。――華星……!

 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

「華星……!」
 懐かしいその名を呼ぶ。ざわり、と足元の草が揺れた。
「華星だろう? おれだ、土毅だ!」
 声を押し殺して叫ぶと、前方にゆらりと人影が現れた。一歩一歩、近付いてくる。
「土毅……?」
 月が、二人を照らし出す。華星の姿をみとめた土毅は、大股で歩み寄った。
「華星……」
 華星は白い、簡素な室内着を纏っていた。長い黒髪はうなじで緩く結わえられ、風に靡いて揺れている。大きく見開かれた黒い瞳、白い歯をその間に覗かせる紅い唇。
「大きくなったなあ」
 土毅が思わずつぶやくと、華星はくすりと笑った。
「あなたこそ」
「そりゃあ、そうか」
 土毅は微笑む。
「もう、随分前だもんなあ」
「覚えていてくれたんですね……わたしのこと」
「覚えてたさ」
 土毅は大きく頷いた。
「だって――『約束』したじゃないか」
「…………」
 華星は目を細め、ゆっくりと頷いた。

  × × ×

「少し、歩くか」
 土毅に促され、華星は彼の隣を歩んだ。華星よりも上背のある土毅は、ゆっくりとした歩調で華星に合わせている。
「……元気にしてたか?」
 何から話そうかと逡巡していた土毅だが、結局は当たり障りのないところに落ち着いた。華星は無言で頷く。
「こっちに来るたびおまえのこと探してたんだけどさ。なかなか見つけられなかった」
「それはそうでしょう。哥哥には令尊とともに皆様をお迎えする役目がありますけれど……」
「ああ、そうだ」
 土毅は軽い調子で華星を遮った。
「もっと、ふつうの喋り方でいいよ」
「え?」
「自然にしてくれればいい」
「…………」
 華星は困ったように首を傾げた。
「ん? おれ、何か難しいこと言ったか?」
「え……いえ、あの……」
 華星は口ごもる。
「自然にするって……どうしたらいいのか、良くわからなくて」
「…………」
 今度は土毅が困る番だった。
「どうしたらって……」
「ごめんなさい、変なこと言って」
 華星がふわりと微笑む。その表情に、土毅は顔を曇らせた。
「土毅?」
「そんな笑い方、するなよ」
「……え?」
 華星の顔が、強張った。
「無理して笑わなくたっていい」
 土毅は足を止める。華星もまた、立ち尽くして彼を見上げた。
「おれがまずいことを言ったら怒ればいいし、傷つけたら泣けばいい。そうでないと、おれは華星のことがいつまでもわからない」
「…………」
 華星は胸元で手をぎゅっと握りしめた。彼女の濃い睫毛が震えている。
「おまえの、あの詩だけどさ……」
 土毅はゆっくりと言った。
「おまえは、どこに還りたいと思って歌ってるんだ?」
「……どこに……?」
「ああ」
 土毅は夜空に視線を投げた。月の光を逃れた場所に、星の小さな光が点々と灯っている。
「昔聞いたときも思ったけど……おまえはの歌声はまるで」
 華星はごくりと唾を飲んだ。
「消えてしまいたいって……無になりたいって、願っているみたいだ」
「…………」
 ふと土毅が華星に目をやると、彼女は自らの肩を抱いて小さく震えている。土毅は慌てた。
「ご、ごめん……言い過ぎた。ごめんな」
 華星はふるふると首を左右に振った。だが、彼女は俯いて顔をあげない。
「華星」
 土毅はそうっと、彼女の髪に触れた。華星はぴくりと震えたが、避けようとはしない。土毅はおそるおそる頭を撫でた。細い髪は彼の無骨な指に絡まることもなく、さらさらと流れていく。
 ――不意に土毅は思った。この少女を、広陵に連れて帰りたい。彼の駆る馬に乗せて、広い草原を駆け回ってみたい。瑞々しく生い茂る草叢に並んで寝転んで、高い空を眺めてみたい。白い雲の形を何かに(なぞら)えて、ゆっくりと呼吸をして――そして、歌って。
「顔をあげて」
「…………」
 華星は大人しく顔をあげた。黒い瞳は涙に濡れている。土毅はその白い頬を袖で拭ってやった。
「何で、泣いてる?」
 尋ねると、華星は戸惑ったように眉を下げた。
「良く、わからない……」
「おれが言ったことは、間違ってたか?」
「……たぶん、間違ってない……」
 華星は小さくつぶやいた。
「わたし……時々、本当に消えてしまいたくなるから……」
「何でだよ」
 土毅は彼女の肩に両手を置き、じっと彼女を見つめる。
「何で、そんなこと言うんだよ……」
「土毅……?」
「おれは、ずっとおまえに会いたかったのに……そのおまえが、そんなこと言うなよ……!」
「…………」
 何故、土毅が泣き出しそうな顔をしているのか――華星は困惑を隠せない。
「……っ」
 土毅は言葉を詰まらせて、そのまま華星を抱き締めた。
「と、……」
 土毅、と言い掛けた華星の声が途切れる。彼女を包む体温が、温かい。
「華星……」
 土毅は彼女の耳元に小さく囁いた。
「おれと、広陵に来ないか」
「…………!!」
 華星は息を呑んだ。
「おれなら、おまえにそんな悲しい思いをさせたりしない……消えたくならせたりなんかしない……!」
「土毅……」
「だって、おれだけが気付いたんだろう? おまえの詩のこと、おれだけが」
「…………」
「あれからずっと、おれはおまえが気になって……それは、たぶんおれが……おまえを……」
 足から力が抜けて立っていられなくなり、華星は土毅の背に腕を回してしがみついた。土毅は力強く彼女の肩を捕らえ、離さない。――華星を離したくない。触れていたい。その理由は、彼女が側にいる今ならわかる。
 土毅はつぶやいた。
「おれは、おまえが……好きなんだ……」
「……どうして?」
 華星は低く尋ねた。
「あなたはわたしのこと、そんなに知らないはずなのに……どうして?」
「理由がないと駄目なのか?」
 土毅は少し体を離し、華星の瞳を見つめる。
「理由がないと――安心できないか?」
「?!」
 ――こわい。このひとは、こわい。華星は震えた。このひとは、わたしを見透かす。心の底まで暴く。こわい。
「わたし……」
 華星は視線を逸らした。
「行けないわ……そんな、いきなり……そんな……」
「…………」
 土毅は黙って華星の体から手を離した。彼女は力なく地面に座り込む。
「だって……そんなの……」
 小さな声で言い訳を続ける華星に、土毅は言った。
「――わかった。そりゃあ急に言われても困るよな」
 華星は顔をあげる。土毅は不敵な笑みを浮かべ、彼女を見下ろしていた。
「でも、今度会う時は――容赦しない」
「…………」
「だからその時まで、消えたりなんかするなよ――」
 屈み込んだ土毅の顔が、近付く。華星はそれをぼうっと見つめていた。大地の色をした瞳が彼女を映し、やがてそれはすべてを飲み込んで……。

「華星!」
 璃春の声に、華星ははっとした。周囲を見回しても、既に土毅の姿はない。
「華星、どこにいるの?!」
「わたしはここよ」
 答えて立ち上がり、土で汚れた裾を払った。いつの間にか握りしめていた右手を開くと、そこには小さな耳飾りがあった。これは、土毅の……。華星は再びそれを握り直す。
 駆け寄ってきた璃春が、華星の姿を目にして慌てた。
「華星! どうしたの、どろどろになって……」
「転んだの」
 華星はあっさりとそう答え、璃春とともに自室へ向かって歩き出す。璃春は怪訝そうに辺りを見回した。
「華星、何だか甘い匂いがしない……?」
「そう?」
 ――そういえば、土毅も何か甘い匂いをさせていた。まるで、果実酒のような……。
 華星はぎゅっと右手に力を込める。閉ざしたその手の中に、今宵の思い出を閉じ込めておこうとでもいうように。

  × × ×

 五日間の逗留を終え、広陵の使節は興を離れた。愛馬に跨る土毅の姿に、従者がおやと眉をしかめる。
「土毅さま、耳飾りがおひとつ欠けていらっしゃるようですが……」
「ああ、いいんだ」
 土毅は答えた。
「気にするな」
 くるりと振り返り、興の都にいるひとりの少女を想う。

 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 
「必ず――おれは還る」
 土毅はつぶやく。必ず還る――華星の元へ。