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第一章 籠之鳥 – 二

 広妃(コウヒ)は娘、華星の新しい着物を仕立てさせていた。若く、美しく成長したたった独りの愛娘――広妃は目を細めながら見つめている。
「お色は如何致しましょうか」
 華星は商人に尋ねられ、困ったように首を傾げた。やがて助けを求めるように母を見遣る。彼女は苦笑した。
「好きな色にしなさいな」
「……では、これ」
 華星は布地のうちのひとつを手に取った。薄い緑色――若草の色であった。それを見て、広妃の顔色が変わる。
「畏まりました」
「待ちなさい」
 広妃の言葉に、商人は手を止めた。
「その色は草原之民の色。華星には相応しくないわ」
「…………」
 戸惑ったように見上げてくる商人に、華星はゆっくりと頷く。
「それは止めにしましょう」
「ええ、そうよ。華星は色が白いのだから、桃花の色が似合うと思うわ」
 商人が差し出した桃色の布に、広妃は満足げに微笑みを浮かべた。
「わたしはそれがいいと思うけれど、華星はどう?」
「わたしもそう思います」
 広妃と華星の返事を聞き、商人は深々とお辞儀をした。
「それではこの布でお仕立てさせていただきます」
「頼むわね」
 商人が下がるのを待ち、広妃は華星を手招きした。駆け寄ってくる娘を隣の椅子に座らせ、長く伸びた髪を指先で梳く。
「本当に……もう大人ね、華星」
「もう十七ですから」
「もう? まだ十七よ、わたしから見ればね」
 広妃はくすくすと笑う。――やがて、その笑みを消した。
「ところで、伶明のことだけど……」
「哥哥の?」
「ええ。もう一度、あの男に談判しなければね」
「…………」
 華星は少しだけ顔を伏せた。――あの男。母はいつでも父をそう呼んでいる。たぶん、母にとっては既に父は夫ではないのだろう。いや、一度も夫婦として心を通わせたことなどないのかもしれない。では、彼はまだわたしの父親なのだろうか……?
「あなたを伶明の妃にするだなんて……わたしと同じ目に遭うことになったら耐えられないわ!」
 激昂する広妃を、華星はそっと包み込む。
「わたしは大丈夫です。大丈夫ですから……」
「華星」
 広妃は華星を強く抱き締めた。
「わたし、あなたにはどうしても幸せになって欲しいのよ。あなただけは、絶対に幸せに……!」
「…………」
 華星は目を閉じる。だが、耳を閉じることはできない。何故人は耳を閉じることができないのだろうか。目を閉じれば、見なくて良いものは見なくて済む。聞かない方が良いことも、この世界にはたくさんあるというのに。
「ああ、あなたが男だったら……可哀相に」
 繰り返される嘆き。繰り返される涙。――繰り返される、呪い、
 華星は冷たい肌の内に流れる、己の熱い血を想った。

  × × ×

 父、奏陽(ソウヨウ)が伶明の屋敷を訪ねて来るのは非常に珍しいことであった。奏陽に私用があれば使いの者が伶明を呼びに来るし、城で行われる重要な会議には伶明は太子として必ず出席している。妹たちに比べれば、伶明が父と顔を合わせる回数そのものは決して少なくはないが、決して密な親子関係を築いているわけではない。皇帝と太子というものはそういうものだと、伶明は既に割り切っていた。
令尊(ちちうえ)
 伶明の声に、奏陽は顔をあげた。少し痩せたように見える。
「本日は一体、如何様なご用で」
「おまえ、いつ華星を正式に妻として迎えるつもりだ?」
 いつも通りの淡々とした調子で、奏陽は伶明に問う。
「既におまえは二十歳を過ぎ、華星も十七になった。もう良い頃合いではないのか」
「は……しかし、広妃どのが未だ納得しておられません」
「広妃?」
 奏陽は怪訝そうに眉を上げた。
「あいつが何故反対するのだ?」
「さあ……わたしにはそれはわかりませぬが」
「しかし、気にすることはあるまい。所詮あれは第二妃だ。たいした力などない」
「華星にとっては母親ですから、あまり無碍にも」
 奏陽は小さく笑った。この父親が笑うのは、何かが面白いから、可笑しいからではない。むしろそう言う時には決して笑わないのを、伶明は知っていた。彼が笑うのは――相手を軽んずる時、滑稽だと見下す時だ。
「本来華星は太子妃になどなれる血筋ではない。導師たちも皆、あやつを呪われていると言った。それでも伶明が所望するゆえ、太子妃としてやろうと言うておるのに……全く、あれは強情な」
「…………」
 黙っている伶明に、奏陽は不意に視線を投げ掛けた。水晶のように濁りのない、それでいて温かみもない眼差しが伶明を映す。
「華星自身が拒絶しているわけでもないのだろう?」
「はい……わたしは、そう思っておりますけれど」
 伶明は慌てて付け加えた。
「もしよろしければ、一度令尊からも華星に」
「面倒だ」
 一言の元に切り捨てられ、伶明は思わず息を呑んだ。奏陽は既に伶明を見ていない。
「わたしはおまえに華星を与えると言った。後は好きにしろ」
「……はい」
 伶明が顔をあげると、奏陽は立ち上がって帰り支度を始めていた。
「婚儀はできるだけ早い方が良い。急いで準備しろ」
 それだけを言い、奏陽は伶明の言葉も待たずに部屋を後にする。閉じた扉の向こうで、激しく咳き込むような音が聞こえていた。
「……華星は、令尊の娘なのに」
 伶明は拳を握り締め、呻くように呟く。
 いつも透けるように白い顔で、ぼんやりと座っていることの多い華星。彼の姿を見ると慌てて笑みを浮かべるが、それは彼女の本当の笑顔ではない。時折見せる、その名のとおり星がはなひらくような笑顔――伶明はそれを見るたび、心の奥深い場所が熱くなるのを感じる。だが、それは長くは続かない。彼女の心はすぐにまた濃い霧に閉ざされてしまうのだ。幼い頃は、もっとあの笑顔が頻繁に見られたはずなのに。
「華星……」
 華星は呪われてなどいない。もし本当に彼女が呪われているとしても、その呪いを己の身に受けることも彼は厭わない。
「だから、どうか――わたしの妻に」
 そうすれば、わたしがおまえを守ってやれるから。伶明は祈るように前屈みになり、そしてふと気付く。
「令尊は、婚儀を急かすだけの為にここへ……?」
 奏陽が何を考えているのかなど、息子である自分にもわかったためしなどない。それにしても、日頃の彼を思うと随分と不可解な行動であることは、確かであった。

  × × ×

 土毅は弟の土葉(トヨウ)と向き合って座っていた。分厚い布を張り巡らせてある(パオ)の中は温かく、土毅は額の汗を手の甲で拭った。
「哥哥は、本当に興と戦をするおつもりなのですか」
 弟の真っ直ぐな眼差しを受け止め、土毅は頷く。
「このままでは他の国と同じように属国にされるだけだ。それにたとえ大人しく興に屈したとしても、我ら異民族に対してあいつらがどのような態度に出るか――」
「搾取されるのが目に見えていますね」
「ああ。特に今の皇帝は酷いからな」
 土毅は椀に注いだ馬の乳を一気に飲み干した。
「今は未だ向こうもこちらの出方を伺っているに過ぎないが、今のうちに手はずは整えておかなければな」
「と言うと?」
「我らの力だけでは、あの大国を相手に勝つことなどできない」
 土毅はきっぱりと言い切った。土葉が何か言い掛けるのを制し、言葉を続ける。
「だから、決起する時は他の国々とともに――だ」
「他の国々と?!」
「ああ。北の蒐原(シュウゲン)に、南の戒絽(カイリョ)。これらがともに起つだけでも、大きな力になる」
 彼が口にしたのはともに興と国境を接する国々であり、今のところ興と国交は保っているものの、決して安定した関係を築いているとはとはいえない。
 己の戦略を語る土毅は、その虹彩を爛々と輝かせていた。
「それだけではない。今は興の属国とされている蘇曳(ソエイ)蒙當(モウトウ)――古くから我らとも親交のある国々だ。旧王族に声を掛けてみる価値はあるかもしれん」
「……哥哥は、もうそこまでお考えだったのですね」
 土葉はそう言い、笑った。
「さすが哥哥」
「おだてても何も出ないぞ」
 土毅もつられて笑い、やがて顔を引き締めた。
「とにかく――今は興の動きから目を離す訳にはいかない」
「…………」
 土葉はしばらく兄の顔を眺めていたが、やがてぽつりと言った。
「ねえ、哥哥」
「なんだ?」
「ぼくらの叔母上が、興の皇妃のおひとりになっているのですよね」
「……ああ」
 土毅は頷いた。
「広陵と興が戦になったら、叔母上はどうなるのでしょうか――」
「…………」
 土毅は項垂れ、つぶやく。
「そうだな」
 叔母だけの問題ではない。彼女には既に娘が――皇姫がいる。彼女らはきっと、難しい立場に立たされるだろう。まさか、命を奪われるようなことはないと思いたいのだが……いや、あの皇帝ならわからない。土毅は力を込めて拳を握り締めた。
「彼女らは人質も同じ。……迂闊なことは、できんな」
 ――華星。今、おまえは元気にしているのだろうか。土毅は脳裏に浮かぶ面影に向かい、語り掛ける。数年前までは二三年置きに興で見掛けることができたが、いつもあまり元気そうではなかった。土毅を見ると彼女はほんのりと微笑んでくれるのだが、どこか悲しげなのである。その表情を見るたび、土毅は彼女が昔歌っていた詩を思い出すのだった。
 ――いつか、おまえに詩を教えることができる日は来るのだろうか。約束を、果たすことはできるのだろうか……。遠く離れた地にいる少女へと、土毅は届くはずもない問いを投げ掛けていた。