instagram

第一章 籠之鳥 – 三

 璃春(リシュン)は広妃が嫁入りの際に連れてきた、ただ独りの侍女がもうけた娘である。彼女は華星に仕える立場だが、年が近いことと、華星自身の飾らない性格もあって、主従を超えた友人のような間柄であった。
 その日も璃春は華星の元に茶器を運んできた後、ともに茉莉花茶を楽しんでいる。
 穏やかな日差しが降り注ぐ中庭。辺りを小さな白い花をつけた、丈の低い木々が囲んでいる。足元にも、可憐な薄紫の花──これらは花を好む広妃の命によるものであろう。
 かすかに聞こえた華星のため息に、璃春は顔を上げた。華星は浮かぬ顔で、茶器の中に映った己の顔を眺めている。
「どうかしたの?」
「……ううん、何でもない」
 華星の返答に、璃春は苦笑した。この幼なじみはいつもそうだ。胸の内をなかなか明かしてはくれない。それは華星が璃春を信頼していないからとか、そういうことではない。華星は本心を口にするのを恐れているのだ。閉じ込めていたものを一度開放すれば、溢れ出して止まらないのではないかとでもいうように。
「太子さまのこと?」
「?!」
 端的に尋ねると、華星ははっと顔を上げた。大きな瞳はより大きく見開かれている。
「どうして……?」
「太子さまが華星を特別に好いていらっしゃるのは、端から見ているだけで良くわかるもの。最近はことに、ね」
「……そう、なの?」
 不思議そうに首を傾げる華星に、璃春は再び苦笑した。
「昔からそうだったわよ。多分、気付いていなかったのは華星だけ」
「…………」
 華星は白い頬を朱に染め、俯いた。
「わたしは、知らなかった」
「華星は太子さまのこと、嫌いではないでしょう?」
「ええ、もちろんよ。哥哥のことは大好き」
 華星は即座に頷く。璃春は重ねて尋ねた。
「じゃあ、何を思い悩むことがあるの?」
「…………」
 華星は瞬きの数を増やした。しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟く。
「……わからない」
「え?」
「哥哥のことは大好きよ。でも……」
「あくまでも哥哥として、ということ? 夫としては見られない?」
「……わからない」
 華星は苦しげに柳眉をしかめ、わからないと繰り返すだけだった。
「…………」
 璃春は華星を心配げに見つめる。
「……そもそも、お母さまは反対だし」
 思い出したようにぽつりと言う華星に、璃春は言った。
「でも、一番大事なのは華星の気持ちでしょう?」
「……いいえ……一番大事なのは……」
 華星は俯いたまま顔を上げない。言葉も途切れたままで続くことはなかったが、璃春はその先を敢えて問いただすことはしなかった。
「少なくとも、わたしは華星が幸せになることを祈ってるわよ」
「…………」
 華星は弱々しく微笑む。
「……ありがとう」

「ねえ、璃春」
 空になった茶器を片付け始めた璃春に、華星は声を掛けた。その瞳はどこか茫洋として、遠い場所を眺めている。
「なあに?」
「あなたは、何を(よりどころ)にして生きているの……?」
「え?」
 思ってもみなかった問いに、璃春は戸惑って手を止める。華星ははっと顔を上げた。
「ごめん、変なこと聞いて。……またね」
 逃げるように遠ざかっていく後ろ姿を、璃春は不安げな眼差しで見つめていた。

  × × ×

 伶明は義母である広妃が苦手であった。彼女が義理の息子である伶明に直接辛くあたったことはないが、決して好かれていないことは彼自身で良くわかっている。
 伶明の母は既に亡くなって数年になるが、身分の低い、市井の者であった。皇妃となったのも伶明が生まれた後であり、それは彼女が太子候補となる男児を産んだために他ならない。そして、奏陽には彼以外の男児は生まれなかった。結果、伶明が太子となり、母は第一妃となった。
 もし広妃が男児を生んでいたら──つまり華星が男であったなら。伶明は太子にはなれなかっただろう。いくら興が異民族たちを見下しているとはいえ、広妃は広陵の当時の首長の妹。伶明の母よりはずっと高い身分の出なのである。
 しかし、広妃の産んだのは女児。そして──彼女の運命は、大きく狂った。

 その日伶明の元を訪れた広妃は、侍女の入れた茶に手をつけることもなく口を開いた。
「あなた……本気で華星を妻にと望んでいるの?」
「いきなり何のお話です?」
 伶明は苦笑した。広妃は華星に似た顔をきつくしかめる。
「娘の母として、本意を聞きにきただけよ」
「でしたら──そうだ、とお答えします」
 伶明は広妃を真っ直ぐに見つめた。
「わたしが反対だと言っても?」
「華星が嫌だと言わない限りは」
「わたしが納得しなければ、きっと華星は首を縦には振らないわ」
「…………」
 伶明は片眉を跳ね上げた。
「では、何故反対なさるのです? その理由をお聞かせ下さい」
「この後宮で、華星が幸せになれるとは思えないからよ」
「それは何故です?」
「わたしの身の上を思えばわかる話ではなくて?」
「わかりませんね」
 伶明は強い口調で言った。
「少なくとも、わたしは令尊とは違う人間ですし──わたしは華星を一生大切にします。その自信はある」
「あの子が世継ぎを生めなかったとしても?」
「確かに、帝位に就く者として、世継ぎをもうけるのは大切な務めです。しかし、それと人を愛するのには何の関係もない」
 伶明はきっぱりと言い切った。
「神に誓っても良い──わたしの華星を思う気持ちは、生涯変わることはありません」
「…………」
 広妃は一度口を閉ざし、深くため息をついた。
「あなたはお若い……まだわからないのも無理はありません」
 口調を和らげ、広妃はゆっくりと語る。
「いくらあなたが華星を大切にしたいと願っても、もし他の女が太子を産んで第一妃に選ばれたら、あなたはそちらを尊重しなければならなくなる。それが皇帝としての務めなの。疎かにすれば、国が乱れるきっかけになるかもしれない」
「…………」
 伶明は言葉に詰まった。広妃は悲しげな瞳で伶明を見つめている。
「あなたが華星を大切に想って下さっていることは、わたしも母として嬉しい。でも……この後宮という場所にあの子を閉じ込めてしまうのは、とても不安でならないの。その気持ちも、あなたにはわかっていて欲しい」
「……わかりました」
 吐息とともに、伶明は言葉を吐き出した。
「今一度、考えさせて下さい」
「ええ」
 広妃は頷く。
「不躾なことをたくさん聞いてごめんなさいね。でも、わたしにとってあの子は大切な一人娘なの。絶対に幸せにしたいのよ」
「ええ……そうでしょうね……」
 どこか上の空で返事をしながら、伶明はふと思った。――幸せ。華星の、幸せ。彼女はどんな時に幸せだと感じるのだろう。どんなことを幸せだと言って喜ぶのだろう。まず、それを知ることから始めなければ……そしていつか、自分こそが彼女を幸せにすると、自信を持って言えるようになってみせる。そう、伶明は心に固く誓った。

  × × ×

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 華星は歌う声を止めた。部屋の外で誰かの足音が聞こえたような気がしたのだが――気のせいかもしれない。
 この詩を、母に聞かせるわけにはいかない。幼い頃は母が良く歌ってくれたが、いつの間にか母は歌わなくなり、そしてまた彼女が歌うことも禁じた。その理由を、華星は知らない。ただ母が禁じたということ、それだけで理由としては十分だった。
「何を拠に……」
 華星は呟く。今日の昼下がり、ふと璃春に尋ねてしまったこと。彼女の驚いた顔を見て、しまったと思った。きっとあれは人に尋ねるべきことではなかったのだと。
「でも、わたしは良くわからない」
 窓辺に寄りかかり、空を見上げる。長い爪で引っかいたような三日月が、しらじらと彼女を照らし出していた。華星はその白い光に手をかざす。
「わたしは何故、生きているのかしら……」
 愛のない政略結婚の結果生まれたのは、望まれた太子ではなく自分だった。そして自分を産んだことで、母は二度と子供が産めない体になった。父は太子を産めぬ母を見限り、太子になれぬ自分には興味を示さない――。
「わたしが生まれなければ」
 華星は呟く。――母は幸せになれたかしら。
「わたしが男なら」
 華星は願う。――父はわたしを見てくれたかしら。
「『還りたい』……」
 華星は歌う。――生まれる前に。この命が宿る前に。還りたい、と。このまま、月の光に溶かされてしまいたい、と……きっとそうなることでしか、自分は自由にはなれない。
 不意に胸が苦しくなって、華星は体を屈めた。閉じた眦から、ひとつぶの涙が零れ落ちる。
「……『約束』、したのに」
 脳裏に浮かぶのは、溌剌と笑う一人の少年。「今度会った時は、その詩の本当の意味を教えてやる」――と。確かに彼はそう言ったのに。
 あれからもう、十数年が経っている。「約束」が果たされる日は来るのだろうか。彼はまだ、自分を覚えてくれているのだろうか。
「土毅……」
 涙がもう一粒、零れた。