instagram

第一章 籠之鳥 – 一

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 
 美しい(うた)であった。単純な竪琴の伴奏に合わせて、高く澄んだ声が歌っている。その幼い音は伸びやかでありながらも控えめで、遠くまで響いていくことを恐れているようであった。一方で異国情緒を匂わせる自由闊達な旋律には似合わない、何かに焦がれているような真摯な声音でもある。
 物影でじっとその詩を聞いていた少年――やがて耐え切れなくなったかのように、彼は一歩、踏み出した。
「……おい」
 彼の声に、竪琴の音が止んだ。歌声の主は夜闇の中で息をひそめているのか、その気配すら希薄である。彼は返事を待とうともせず、問い掛けた。
「その詩、誰に聞いた?」
 彼の履物の下で土くれが砕ける、そのかすかな音が合図であったかのように、月光が辺りにさっと差し込んだ。
「あっ……」
 細い声。彼は思わず息を飲んだ。
「おまえ……」
「…………」
 石の上に座り、竪琴を膝に抱えている少女。彼よりも少し年下であろうその子供は、怯えの色を瞳ににじませながらも、気丈に彼を見返していた。長く伸びた黒髪は丁寧に結い上げられており、身に纏う衣服の仕立てを見ても、高貴な身の上であることに間違いはない。
「何者ですか。ここは外の者が立ち入って良い場所ではありませんよ」
 童女といってもいい年齢の者に厳しい口調で問い詰められ、彼はやや慌てた。
「す、すまない。懐かしい詩が聞こえたものだから、思わず……」
「あなたの名は?」
 彼はごくりと唾を飲み下し、やがて膝をついて深く一礼した。
「おれは、土毅(トキ)広陵(コウリョウ)の国の者だ」
「広陵……」
 少女は低く繰り返した。土毅は頷く。
「ああ。この国には、使節団の一員として来た」
「……そう」
 短く答える。その横顔は変に強張っていた。しかし、自身も子供である土毅はそれに気付かない。ただ、己の疑問だけが頭を占めていた。
「なあ。さっき歌っていた詩は、おれの国のものだ。誰に教えてもらった?」
「……母よ」
 少女は彼を見つめる。その大きな瞳は、濡れたような光を放っていた。
「おまえの……母親?」
 繰り返し、土毅ははっと息を飲む。
「ってことは、おまえ……」
「土毅さまあ!」
 遠くから彼を呼ぶ声が響いてきて、彼はぎくりと肩をすくめた。
「いけね、抜け出したのがばれた」
「土毅さま! どちらにいらっしゃるのですか?!」
「やべえ、早く戻らないと殺される」
 土毅は青ざめながら立ち上がる。そのまま声の方角へ駆け出そうとして、ふと足を止めた。
「なあ」
「?」
 少女は怪訝そうに彼を振り仰いだ。
「おまえ、名前は?」
「……華星(カセイ)
「華星。今度会った時は、その詩の本当の意味を教えてやる。おまえの知らない意味を」
「本当の意味……?」
 華星は目を瞬いた。土毅は頷く。彼の聞いた華星の歌声はひどく美しく、しかし同時にあまりに悲痛だった。この詩は、決して悲しみを歌うものではないのに。
 華星に伝えたい。その詩の本当の意味、本来の姿を。そしてもう一度、歌って欲しい――いや、今度はともに。
 土毅は微笑んだ。
「約束だ」
「……わかったわ」
 華星は彼につられたように、少しだけ笑った。その笑顔に、土毅の視線が吸い寄せられる。
「また会いましょう。土毅」
 土毅の差し出した手を、小さな両手がやんわりと握る。
「今度はわたしに、詩を教えて」
「ああ。きっと」
 そして、土毅は彼女に背を向けた。時折名残惜しげに振り返る彼の姿を、華星はじっと見送っていた。

  × × ×

 ――その夜から、十数年が経った。
 
「華星! 華星!」
 己の名を呼ぶ声に、華星は慌てて顔をあげた。手元にある本を閉じ、藤椅子から腰を浮かせる。
「はい、ここにおります!」
 足早に靴音が近付いてきて、羅紗布がさっと開けられた。華星は手元にある本を隠すこともできず、ばつが悪そうに声の主を見上げる。
哥哥(あにうえ)……」
「なんだ華星、また本を読んでいたのか」
 ため息を漏らす青年――華星の異母兄であり(サイ)王朝の太子でもある、伶明(レイメイ)だった。ゆったりとした袖をまとう腕を組み、華星を見下ろす。
「おまえは本当に本を読み始めると何も聞こえなくなるのだね。随分と呼んだんだよ?」
「ごめんなさい。……何かご用ですか?」
「いや? でも、最近おまえがわたしを避けているようだから、こちらから会いに来た」
 腰を屈めた伶明の腕が、華星の肩をそっと抱く。彼女は振り払いこそしなかったが、当惑したように瞬きの数を増やしている。伶明は苦笑した。
「まだ、慣れないか?」
「慣れない……というか」
 華星は戸惑いを浮かべながら、兄の言葉を繰り返した。
「哥哥はその……よろしいのですか? わたしなどが、あなたの妃になるなんて……」
「父上が決められたことだし、それにわたしはおまえが大好きだから」
 伶明はにっこりと笑って華星の顔を覗き込んだ。
「おまえに決まって、わたしは嬉しい」
「…………」
 華星はかろうじて微笑みに似た表情を、そのおもてに浮かべた。
「でも……母上は反対していらっしゃいます」
「義母上か」
 伶明は笑みを消し、苦々しげに呟いた。
「まだ、あのお方はわだかまりを持っておいでなのか。我が母と、わたしに対して」
「…………」
 華星は俯いた。

『あなたがもう少し早く生まれていれば……ああ、でも女の子では同じことね。太子にはなれない。あの、伶明なんかよりあなたの方が本当はずっと太子にふさわしいはずなのに。もしあなたが太子だったら、あの男だってあなたを丁重に扱ったはずよ。それに、わたしのことだって……』

 耳の奥で木霊するその声に、すうっと心が冷えていく。頭が鋼の檻で絞め付けられているようだ。血の気の引いた指先を握り締め、彼女は唇を噛み絞めた。
「華星」
 伶明は彼女をそっと抱きしめた。
「大丈夫だ。これからはずっとわたしがおまえを守ってやる。凡てのものから、必ず守り抜いてみせる」
「哥哥……」
「伶明、で良い」
「いえ」
 華星は首を横に振った。
「哥哥、と呼ばせて下さい。あなたはわたしのたった独りの哥哥ですから」
「…………」
 伶明は彼女の髪に顔を伏せ、やがて小さく頷いた。

  × × ×

 見渡す限り続く草原の上を、風が渡っていく。そこに数頭の馬と、それに跨る数人の人間の姿があった。
 そのうちのひとり――土毅である。草原之民の国と言われる広陵、彼はその国の若き元首であった。齢は二十歳。
「…………」
 彼はじっと西を睨んでいる。地平線の彼方には強大な犀王朝の治める国、(キョウ)があった。ほんの二三年前までは友好使節団が行き交うほどの仲だったのが、広陵の先代元首が没して以降というもの、興の貢物の要求は次第に度を増している。まるで、広陵がいずれ拒否することを見越しているかのようですらあった。その時、興が一体どういう態度に出るか――想像に難くはない。この数十年の間に、同様のやり方で幾つもの小国が興に呑み込まれて来た。時に平和的なやり方で、時に戦を経て。
 次は広陵の番。そういうことだった。
「土毅さま」
 隣で馬を御している若者が、彼の名を呼んだ。
「如何なさいますか?」
 土毅の跨るのは立派な黒毛の馬である。その筋骨逞しい首筋を、彼は力強く撫でた。
「おれの心は決まっている」
 彼の褐色の瞳が日没の光を受け、金色に輝いた。
「草原之民として、我らは決して屈さぬ。もし我らの矜持を曲げよと強いるのであれば――」
 蹄が軽く砂を蹴立てるのを御しながら、土毅ははっきりと言った。
「戦を交え、剣と矛で以って思い知らせるのみ」
「…………!!」
 緊張が辺りに張りつめる。その中心で、土毅は小さく歌っていた。誰にも聞こえないほどの声で、西へ向かう暖かな風に乗せて。

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい

「貴方の元へ……」

 目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは昔、月夜に一度だけ言葉を交わした少女の姿。幾度か興へ行く度にその姿を探し求め、遠目に見掛けることはあっても話をすることはあたわず、彼らはただ視線を交わすのみ。ここ数年は両国の関係の悪化で、彼が興へ赴くことすらできないでいる。
「華星」
 土毅は小さくつぶやいた。己の声に潜むものが何であるかを、彼はまだ知らない。