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番外:雪之華

 草原に冬が来た。草はあおあおとした輝きを失い萎れ、うっすらと霜を含んでいる。土毅と華星、ふたりを乗せた馬のひづめがしゃりしゃりと音を立てていた。
 土毅は白く曇る己の吐息を見送り、つぶやく。
「冬が来たな」
「…………」
 彼の背中にしがみついた華星は、空を見上げた。確かに雲の様相が、違う。ついこの間まで澄み切った青空に薄く紗を引くように広がっていた雲が、今はただ分厚く重く、光を遮っている。太陽の影はおぼろげで、遠い。
 華星にとって、初めての草原の冬だった。
「広陵の冬は、寒いぞ」
「そう……」
 華星は眉を寄せた。寒いのは苦手だ。興にいた頃、冬は部屋に引きこもり、じっと火鉢にあたっているばかりだった。だが、ここではそういう訳にはいかない。彼らは遊牧の民。移動は彼らの生活の常である。
 土毅は気遣うように彼女に尋ねた。
「寒いのは苦手か?」
「……あんまり、得意じゃない。手も足も、指先が冷たくなるもの」
「はは」
 土毅は笑い、華星の手をぎゅっと握った。あたたかな、大きな手。
「おれはどちらかというと暑がりだから、冬は嫌いじゃないんだが」
 草原之民である広陵にとって、冬は試練の季節である。草原が沈黙し、獣たちも眠りにつく。夏の間に蓄えた干し肉と干した果物、雪水を頼りに寒さを凌がなければならない。だが、土毅が王となってからは一度も冬季に食糧難に陥ったことはなかった。草原之王としての器が最も試されるのも、この季節なのだ。
「ああ、そういえばな」
 土毅は、不意に口を開いた。
「この時期だけに開ける、特別な酒甕(かめ)があるんだ」
「そうなの?」
 普段から、草原之民はしばしば酒宴を催している。星や月を眺めながら行われるその宴は、華星にとっても楽しいものだ。土毅はいくら飲んでもちっとも酔わないが、華星はそういうわけにはいかない。何度となく途中で眠ってしまって、そういう時は毎回土毅に寝床まで抱えてもらっている――らしい。彼女は少しも覚えていない。
「普段の酒よりもきついが、旨い。体全体がぽかぽかするんだ」
「わたし、あんまりお酒強くないの」
「つぶれたらおれが介抱してやるよ。安心しろ」
 彼の、力強い腕。華星は既にそれを知っている。その力に抱かれることでどれほど安らぐか、どれほど心地よいか。彼女の体の細胞ひとつひとつが記憶している。刻み込まれている。
 冬。それがいかに厳しいものであっても、恐れることは何もない。彼女の指先がいくら凍てつきこごえようとも、この肌の内側に流れる熱い血を――この想いを、冷やすことはできないから。
 華星は、土毅の腰に回した腕にぎゅっと力を込めた。彼の広い背中に頬を強く押し付ける。
「寒いのか?」
 土毅が尋ねた。華星は首を左右に振る。
「だいじょうぶ。だって、あなたがいるもの」
「…………」
 華星は彼の肩越しに遠く、地平線に視線を投げた。彼女は明日の、そしてこれからの空を思った。
 風を手繰り、星を読み――地水の巡りを知り、民に示す。そのための知識は、ここにある。わたしの知識は、土毅が必要としてくれたわたしの一部。
 その時、土毅が小さくくしゃみをした。
「土毅?」
「冷えてきたな。戻ろうか」
 土毅は馬の脇腹を軽く蹴った。軽快な足どりで、馬は灰色の草原を駆ける。今ではもうもうすっかり日課となった、ふたりで早朝に馬を駆る散歩。今日は寒さのせいか、土毅はいつもより早く切り上げるつもりのようだ。華星は気遣わしげに声を掛けた。
「だいじょうぶ? 帰ったら、さっき言っていた酒甕を開けたら? あたたまるのでしょう」
「あれはもっと、雪が積もるくらいになってからだ。だから今はその代わりに――」
 土毅は急に馬を止めた。くるりと振り返り、華星の唇に己のそれを重ねる。
 冷たい。けれど、触れあったその先は、火傷しそうなくらいに熱かった。
 離れていく唇の間で、白い吐息が咲く。
「……と、き」
 名前を呼ぶ。熱い。
 視界いっぱいに広がる、彼の微笑。
「これから来る全て季節を、お前とともに過ごすんだな」
「…………」
「そう思うと、おれはとてもうれしい」
「……わたしもよ」
 かつて彼女が何度も冬を過ごした、あの宮殿の一室。あそこが、彼女にとっての世界だった。時に哥哥が訪れることで風は吹き込んではきたけれども、ひとつの火鉢で十分温まるくらいの、小さな小さな世界だった。一歩出れば、宮中の人びとの心無い言葉が彼女を取り巻く。「呪われた姫」――その二つ名に、彼女は縛り付けられていた。少なくとも、そうなのだと彼女は思い込んでいた。
 それが、今は。
「世界は、広いのね」
 華星はつぶやいた。
 どこまでもどこまでも、遠く広がる草原。天高く流れる雲。星屑の光零れる夜空。揺らめいてはまぶしく煌めく水面(みなも)。そのすべてが、今では彼女の世界だ。そして――世界がどんなに広くても、彼女はもう迷わない。彼女の傍らには、彼女の「道標」が寄り添っているのだから。
「帰ったら、毛皮を出そうな。ふわふわして、やわらかくて、すごく気持ちいい」
 土毅は少年のような顔をして笑う。
「ふたりでくるまって、雪を見て、そうして眠ろう」
 きっと、そうすれば少しも寒くはない。
 華星は微笑んだ。
「そうね」
 広い世界の中、毛皮に包まれるふたり。そこで紡がれる夢は、きっとあたたかくて、やさしいものだろう。
 
 ――白いものが、ちらりと舞った。
「ああ」
 土毅の声がわずかに弾む。
「雪だ」
「…………」
 華星は掌をそらに向かって広げた。白い結晶が舞い落ち、その冷たさすら残さずに溶け消えてゆく。
「きれい……」
 華星はつぶやく。
 舞い散る雪の下で冬に染められていく世界。それはひどく美しくて、泣きたいくらいに愛しかった。