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番外:交換条件

 夜空を灼く松明の炎。あれは夜通しつけておくのだ、と聞いて土毅は面食らったものだった。何のために? 草原では、夜とは真の闇を意味する。屋内で眠るまでの間、或いは獣を追う目的以外で、闇を火で(はら)わなければならない意味が解らない。
 だが、興の都では違う。わざわざ交代で火を見回る役目の兵がいるそうだ。特にこの王宮では、屋内での燭台がほとんど用をなさないほど、そこここで松明が灯されている。
 ――夜が暗くて何か問題があるのか。この大国は一体、何をそんなに恐れているのか。
 不遜なことを想いながら肘をついていると、部屋の入口に人の気配が近付いてきた。土毅は居住まいをただす。今日、今ここに訪れる人物はひとりしかいない。
「伶明だ。――入って良いか」
 押し殺した声。土毅はあっさりと答えた。
「どうぞ」
 入ってきた人物は、部屋の暗いのに驚いたようだった。土毅は夜目がきく。だが、伶明はそうではないのだろう。頼りなげに揺れる一本の燭に目を止め、土毅は言った。
「少し明るくします。待たれよ」
「……別に、暗くても良いが。目も慣れよう」
「しかし」
 土毅はにやりと笑った。多分伶明にはこの表情は見えていまい。
「お互いのことをよく見るためには、明るいに越したことはないでしょう? ――哥哥(あにうえ)
「その呼び方は……」
 伶明が辟易したような声を上げ、土毅は今度こそ声をあげて笑った。
 あながち、間違った呼び方ではない。伶明の妹妹、華星は土毅の妃である。すなわち、伶明は土毅にとって義理の哥哥にあたるのだった。
 土毅は燭の火を増やした。ふたりの影が、壁の上にゆらゆらと揺れている。
 伶明は籐椅子に腰掛け、土毅を見つめた。
「華星は元気そうだな。安心した」
「手紙を良く書いているでしょう?」
 興から広陵に使節が来るたびに、或いは広陵から興に使節が向かうたびに。華星は母と、哥哥と、そしてふたりの妹妹(いもうと)たち宛にそれぞれ手紙を書いている。返事もきちんと来る。まめなことだ、と土毅は感心していた。手紙の内容を見るような無粋な真似はしないが、華星はそれとなく彼に見せ、やりとりを教えてくれる。土毅ではなく、その側近たちに、彼女が興と通じて何かしら(はかりごと)を企てているのではないかとでもいうような、要らぬ疑いを持たせずに済むように、であろう。そういう聡い気遣いを見せる彼女を、土毅はひどく愛おしく思うのだった。
 今回土毅と華星が揃って興を訪れたのは、彼女の異母妹のひとり、晶香の婚礼に出席するためであった。彼女の嫁ぎ先は――驚いたことに、伶明に仕える文官、鵬嵩であった。だが、伶明は身分差などどうでも良かったのだという。鵬嵩はよい男である。それは、彼が一番よく知っている。妹妹を託すに足る男だと。
 伶明は微笑した。
「華星の顔を見るまでは安心できなかったのだよ。華星は、何か悪しき事があってもそうと告げるおんなではないから」
「その心配は不要ですよ」
 土毅は卓の上に置かれたふたつの器に、酒をそれぞれ注いだ。広陵から持ってきた、貴重な酒である。
「おれが、華星の傍にいるのだから」
「……おまえは本当に嫌な男だな」
 伶明は酒を含み、顔をしかめた。
「お口にあいませんか?」
「酒は美味い。おまえとでなければもっと美味いだろうさ」
 大国、興の皇帝とは到底思えぬような、砕けた口調である。
「華星を呼びますか? 多分、まだ起きている」
「いや、いい」
 伶明は首を横に振った。
「何となく――今宵は、おまえと酒が飲みたい」
「そうですか」
 土毅は微笑する。
「光栄です」
「――ふん」
 伶明は鼻を鳴らす。
 土毅はその日に焼けていない、端正な横顔を見ながら思った――彼には未だ、妃はない。彼がかつて妃に迎え入れようとしたのは華星、ただひとりだった。伶明は妹妹としても、おんなとしても、華星を愛していた。華星は彼を哥哥としては愛していたが、夫として選んだのは土毅だった。最終的には伶明もそれを受け入れたが、心底納得しているのかどうか。華星を苦しめまいと己の心を押し殺しているのではないか、それとも――あれから約一年が経った今も、土毅にはわからない。わかるはずもなかった。
 ふたりはさして言葉を交わす訳でもなく、かといって沈黙するでもなく、互いに他愛もない話をぼんやりと続けながら、ただ酒を飲み交わした。きっと華星のことを根掘り葉掘り聞かれるのだろうと身構えていた土毅が拍子抜けするほど、伶明は何も聞かなかった。
 やがて、土毅は気付いた。伶明は今宵、華星のことを聞きに来たわけではない。彼女のことを聞きたければ、彼女自身に聞くか、馴染みの侍女に尋ねれば良いだろう。或いは、自分で彼女の様子を観察すれば良い。彼は、華星の夫である自分――土毅を見に来たのだ。自分という人間を、じっくりと観察するための機会、それが今なのだろう。そのことに気付いて、土毅は不思議なほど気が楽になった。勢い良く、酒を飲み干す。
 夜は、じりじりと更けていく。
 土毅が伶明の盃に注ぎ、そしてまた伶明が土毅の盃を満たして……。
「おや」
 土毅がぽつりと言った。
 いつしか、酒器が空になっている。
「新しいものを持って来ましょうか」
「いや」
 伶明は微笑んだ。その白い面にうっすらと朱がさしている。
「夜も更ける。そろそろおいとましよう」
「……そうですか」
 土毅は立ちあがった伶明を見上げた。伶明は少し言葉を探したようだったが、やがて唇を開いた。
「いずれ――そちらの国で、酒を飲もう。その時の酒は、わたしが持参する」
「楽しみです。星の美しい、眺めのいい場所に案内いたしましょう」
 土毅はほろ酔いの顔を緩め、そうして去りゆく義兄の背中を見送ったのだった。

 土毅が寝所に戻ると、華星はぱちりと目を開けた。途中で使いをやって先に眠るように伝えさせたのだが、眠りの浅い彼女は彼の気配に目を覚ましてしまったらしい。
「遅くなった。悪かったな」
 抱き寄せて髪に口づけると、華星は彼を見上げ、囁くように尋ねた。
「哥哥は、何と……?」
「ん?」
 土毅は彼女の隣に体を滑り込ませながら、笑った。
「大した話はしていない。ただ、酒を飲んでいただけだ」
「……哥哥も、お酒を飲むのね」
「いい飲みっぷりだったぞ。持ち出した酒が空になった」
「あら」
 華星は口元を押さえる。
「大丈夫かしら……ただでさえお疲れでしょうに」
「大丈夫だろう」
 土毅は軽く請け合って、そうして燭を消した。――部屋に、闇が満ちる。
「今度は、草原で酒を飲もうと約束した。酒と、場所を交換しようと」
「え?」
 土毅はそれ以上は何も言わず、目を閉じた。
 ――「そもそも土毅どのは華星が選んだ男なのだから、わたしが気に入らないはずがないのだ……」伶明は途中、そう言って唇を尖らせた。「わかっているだけに、腹立たしい」
 おれだって、と土毅は思った。今も、華星は伶明のことをこんなにも気に掛けている。彼女にとって伶明は唯一の哥哥なのだし、自分にも兄弟はいるから気持ちは分かる。けれど――時々あまり面白くない気分になるのも、また事実なのだ。
 みっともない、と土毅は思う。酔っているせいか、どうにも良くない。
「土毅、大丈夫? 気分がよくないの? 飲み過ぎたんじゃない?」
 目を閉じて口をつぐんだ土毅に、華星は心配したように寄り添ってくる。土毅はふ、と笑った。
「――大丈夫だ」
 答えるや否や、華星を己の体の下に組み敷く。
「土毅」
 華星は呆れたような、照れたような、困ったような――そうして、幸せそうな笑顔で、彼の首にその両腕を巻き付けた。間近で見るその表情に、土毅は陶然とした。
 夜は暗い方がよい。松明など要らない――土毅はそう思う。夜を焦がすのは、この瞳と(からだ)の熱だけで、十分だ。

 興を発つ日。土毅らを見送りに来た伶明は言った。
「また、近いうちにお招きすることになるかもしれません」
「ええ、是非」
 答えた土毅に、伶明は澄ました顔で告げる。
「わたしもそろそろ、独り寝が寂しくなってきたのでね」
 伶明の隣に立っていた宰相、張晧が真顔のままで噴き出す。土毅が面食らって妻の顔を見ると、華星もまた目を瞬かせていた。
「哥哥……?」
「だから、その時は」
 伶明は彼らの動揺などまるで無視して、言葉を継いだ。
「もう少し、たくさんの酒を持ってきて欲しい」
「――承知した」
 土毅は笑う。
「その後は是非広陵へおふたりで。ご案内します」
「楽しみだ」
 顔を見合わせて笑い合うふたりの王を、周囲は不思議そうに見ている。
 華星もしばらくきょとんとしていたが、やがて目を細めた。
 自分の大好きな人たちが、笑い合っている。こんなに幸せなことが他にあるだろうか。
 夫となった鵬嵩ともに見送りに来ていた妹妹、晶香は少し潤んだ瞳で華星を見つめている。
「姐姐、どうかお元気で」
「晶香も」
 華星は微笑む。
「また、来るわ」
 わたしの帰る場所は草原之国だけれど、わたしの故郷はこの地なのだから。

 そう語る華星を、もう誰も「呪われた姫」とは呼ばない。