instagram

最終章 草原之詩

 わずかな湿り気を含んだ南風が、草原を泳いでいった。
 華星は目を細めて空を見上げる。その背中を受け止める土は、乾いていた。
「どうした?」
 彼女の隣で、同じく大地に横たわっている土毅。振り向くと、彼は彼女の横顔を見ていた。
「今年の夏は、暑くなるわ」
「……そうか。雨は降るか?」
「平年よりは少ないと思う」
「ふうん」
 土毅は腹筋を使って半身を起こし、華星を見下ろした。
「じゃあ、早いうちに水瓶を満たしておかないとな」
「ええ」
 差しのべられた手を取り、華星もまた身を起こす。
「もどるか。――雨が降りそうだな」
「そうね」
 薄曇りの空に、半ば輪郭を滲ませている昼の月。土毅に抱えられて馬上のひととなった華星は、彼の背に身を預けて腰に手を回した。
「行くぞ」
 土毅の足が馬の脇腹を蹴る。高い(いなな)きを草原に残し、馬は走り出した。

  × × ×

 華星が草原之王の妃となってから、既に半年が過ぎた。その婚姻は対外的には興と広陵が同盟を結んだようにうつり、戦の狼煙を挙げていた周辺諸国も、一旦興に対する矛を収めることとなった。
 華星は、今はもう戦女神とは呼ばれない。戦は終わったからだ。その代わり彼女は草原之妃として、民に慕われている。彼女が彼らを束ねる王の右腕であることを、民は皆知っていた。土毅もまた、隠そうとはしていなかった。(そら)を読み、風を聞き、()と月の巡りを知る。時にひとを翻弄する荒々しい自然の中で生きる遊牧の民を、道を違えることなく導いていく――彼女はまるで、夜空に際立って輝く星のようだった。
 彼らは草原を駆ける。馬の足取りは軽く、まるで有翼の天馬が雲を踏んでいるようですらあった。
「いや、違うな」
 土毅は小さくつぶやく。きっと、この言葉は彼女には聞き取られない。
「翼を持つのは、おまえだ。華星」

 初めて逢った日を思い出す。哀しげな声で歌っていた、幼い華星。謂われなき呪いに小さな胸を痛めながらも、彼女は王宮に閉じ込められようとしている自分の運命に抗おうかとするかのように、本を読み漁って広い知識を蓄えていた。それはいつか、鎖を断ち切って大空へ羽ばたく為。彼女にはその為の翼があった。
 二度目に言葉を交わした日。彼女は美しく成長していて、けれどやはりうまくは笑えずにいた。逢っていっそう、逢いたいと焦がれた。否、逢うだけでは駄目だった。傍にいて欲しいと思った。消えてしまいそうな儚さなど、自分が打ち払ってやる。
 そして――彼女を連れ出したのは、自分。望んだのは、彼女。
 彼女の哥哥は、彼女を愛していた。それは間違いない。けれど、その愛情は彼女にとっては優しすぎる呪縛であり、時に彼女を苦しめた。母親のそれも同じこと。彼らは華星を見ているようで、見ていなかったのではないか。彼女の本当のこころ、苦しみ、悲しみ。そして、その内に眠る知性。
 華星は華星だ。そこにある彼女を見れば、すべてがわかるのに。

「土毅?」
 華星の声に、彼の思考はふと現実に戻った。背中に感じる彼女の体温。
「どうかしたの? それに、どこに向かって走っているの? 皆なら……」
 ――あっちにいるのに、と指差そうとした手を捉えて指先に口付ける。背後で息をのむ音がした。
「だめだ、まだ戻らない」
「え?」
「もう少し、奔っていたいんだ」
 本当は、いつまでもこうしていたい。まるで世界にふたりきりでいるような、そんな感覚に酩酊していたい。太陽を追い掛け、月に追われ、どこまでも、どこまでも、ふたりで。

 還りたい
 還りたい
 風になって
 光になって
 還りたい
 砂になって
 水になって
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

 華星が歌う。土毅が続けた。 

 還りたい
 還りたい
 馬を駆り
 草原を奔り
 還りたい
 山を越えて
 川を下って
 還りたい
 貴方の元へ 還りたい

「……え?」
 それは華星の知らない歌詞だった。土毅は振り向いて笑う。
「約束だったからな。本当の意味を教える、と」
「…………」
 土毅は馬の歩みを止めた。
「その詩は――我々草原之民に古くから歌い継がれてきたものだ。元々は旅先で命を落とした若者が、帰りを待つ娘のもとへ還りたいと歌ったものだそうだ。肉体を捨て、草原と一体になってでも、おまえのもとへ還りたいと。だから、かなしい旋律をしている」
「……そうね」
「だが」
 土毅は振り向き、華星の顔を見て笑う。
「若者は死ななかったかもしれない」
「……え?」
「帰りを待つ愛する者のもとに、無事還ってきたものだっているだろう。何も、悲劇だけを語り継ぐ必要はないさ」
 必ず生きておまえのもとに還るのだと、そう歌う詩があってもいい。土毅はそう言って笑った。
「そうだろう? 華星」
「……そうね」
 華星は微笑み、彼の額に己のそれを押し当てた。

 かつて、自分はこの体を捨ててしまいたかった。呪われた現世を離れてしまいたいと――生者の世界とは違う世界へと、還りたいと思っていた。そうすれば、己の呪いが母を苦しめることもない。哥哥の不自由な優しさから逃れることもできる。
 けれど、今は。
「何度でも還ってこい、華星」
 土毅の唇が、彼女の唇から頬を伝って、耳元へと移動する。
「おれの元に――」
 華星は目を閉じた。
 恐れるものなど何もない。
 わたしはわたし。

  × × ×

 ――見渡す限りの草原を、ふたりは奔った。自由に。自由に。