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Regeneration

 崎元美帆子は七条草摩への傷害容疑で現行犯逮捕され、やがて雪村速見への傷害、雪村絵音への傷害未遂などもあっさりと認めた。殺意については今後裁判で争われることになるのかもしれないが、それはまた別の話である。
 美帆子の供述は明確だった。夜分に訪ねてきた速見が美帆子を見て驚くと同時に怒りを見せ、彼女はそれに恐怖を抱いて突発的に刺してしまったということ。まさか速見がだんまりを決め込んでいると思わなかった彼女は、しばらくの間現場マンションの様子を伺いながら、姿を見せないようにしていたということ。いつまでたっても逮捕の手が伸びないことを不審に思い始めた頃、絵音が部屋を訪れるのを見、様子を探る意味を込めて接触したということ。自分の愛する男への嫌悪をあらわにした絵音に、怒りを抱いのだということ。黙らせたくて刃物を奮った――そこに七条草摩が来たのだということ。
 警察から伝えられた、崎元美帆子の犯行のすべて──署での面談やら何やらを終えて初子が速見の病室に戻って来ると、そこには絵音とその恋人、そして見慣れない長身の男がいた。初子は娘の恋人に向かい、まずは深々と頭を下げる。彼が娘を救ってくれたのは二度目、しかも今回は怪我まで負わせてしまった。屈託のない表情で会釈をした彼が、ひどくまぶしい。
「七条君……本当に、ありがとうございました」
「いえ」
 彼の左腕にはまだ包帯がしっかりと巻かれている。
「俺は大丈夫ですし、これは絵音さんのせいじゃありません」
「でも……」
「あの」
 知らない男の声に、初子は顔を上げた。真正面から見ると、はっとするほど整った顔立ちをしている。年齢は彼女の子供たちと比べて人まわりほど上だろうか。眼鏡の奥の瞳がやわらかく微笑んでいた。
「たぶん初対面ですよね? はじめまして、桐生千影と申します。七条草摩君のお父様の知人で、今は彼の保護者です」
「はじめまして。……今回のことは本当に……」
 初子は頭を下げる。だがそれを桐生がさえぎった。
「いえ。加害者は逮捕された、彼女です。ここにいる皆さんは等しく被害者だと思いますから」
「……そう言っていただけると、ほっとしますけれど」
 初子はため息まじりにつぶやいた。──不思議と、孝太郎に女がいたという事実にはこころを動かされなかった。どうでもいいことだ。だが、自分の子供たちを傷つけるような女を側においていたという事実、それだけは赦せない。今度こそ籍を抜こう──初子は人知れず決意を固めていた。
「母さん、……姉さん」
 速見が小さな、まるで泣き出しそうな声でつぶやいた。
「ごめん……」
「……速見」
 言葉につまる母娘をよそに、桐生はゆっくりと口を開いた。
「速見君は、お母さまやお姉さまを守りたかったのでしょう? その気持ちは、ちゃんとおふたりに伝わっていると思いますよ」
「もちろん」
 絵音はうなずき、やや顔をしかめた。
「わかっていながら、私は自らぶち壊しちゃったけどね……」
「……絵音、速見」
 初子の毅然とした声が辺りを打った。
「貴方たちの気遣いは理解しているつもりだけど、ふたりとも、もうこんなことはやめてね。母さんのために無茶をするなんてことは……」
「…………」
 絵音がちらりと草摩を見ると、彼は力強くうなずいた。
「私の家族はね、貴方たち二人なの。貴方たちふたりがいて、私はそれで十分過ぎるほどにしあわせよ」
 初子は静かに、しかしきっぱりと言葉をつむぐ。
「昔、いくら仲の良い家族を──夫婦を演じても、事実を押し隠して表面だけを取り繕っても、そうして手に入るものはやっぱりしあわせとは違う、しあわせの類似品に過ぎない。私はそれに気付いてあの人と別れることにした。……しあわせは、そんなうすっぺらいものじゃないと思ったから。どんなに苦労することになっても、私は貴方たちと一緒にこころから笑って、泣いて、生きていたい──だって、家族ってそういうものでしょう? 自分が自分のままでいい場所。なに一つ飾らなくていいい場所。それでいて、こころが通じ合う場所。少なくとも、私はそうだと思うもの……でも、あの人とは、それが作れなかった……」
 初子の声が震えを帯び、途切れる。
「速見君、でしたよね」
 突然の桐生の言葉に、速見はその切れ長の目を瞬かせた。
「はい」
「僕もね、昔とある事件に巻き込まれて――貴方と同じような決断をしたことがあるんですよ。今お話しするには長過ぎる話ですけれど」
 草摩は驚いて桐生を見つめた。だが彼の横顔は平穏で、少しも動揺をにじませていない。
「そのとき僕は家族を見失っていて、そして、本当に失ってしまって……。最近になって、ようやく見つけ直すことができました。この草摩君と、家族になれましたから」
「…………」
 速見は目を大きく見開きながら桐生を見つめていた。
「貴方の側には今、家族がいる。どうぞ大切にしてください。そして、その家族は貴方抜きには成り立たないのだと――貴方が愛しているのと同じだけ、貴方も愛されているのだということを、覚えていてください。……他人の僕が言うなんて、差し出がましいと思われるでしょうが」
「いいえ」
 絵音が声を上げた。彼女は桐生の過去を知っている。そして、今ようやく――自分と桐生はひどく良く似ていると思った、その理由をはっきりと自覚した。かつての彼も、彼女も、家族というものを――しあわせというものを、見失っていたのだと。
「……ありがとうございます」
 初子もまた、娘に似た優しい微笑みで礼を言う。
「――桐生さん」
 速見が口を開いた。

「貴方は今、しあわせですか?」

「……ええ」
 桐生は静かに頷いた。――確かに、今自分はしあわせだと思う。しあわせでなければならないと思う。そしていつか、それを母の墓前に報告しなければならないのだと……。
「貴方のご家族も、それを聞いてご安心なさると思いますわ」
 初子の「母親」らしい、やわらかな表情。桐生は久しぶりに母の笑顔を思い出し、胸を詰まらせた――。

  Epilogue

 ややあって、草摩と桐生はその場を辞した。家族三人、積もる話もあるだろう。時にゆっくりと話し合う時間は、どれほど近しい間柄であっても大切なことだ。――人のこころはちょっとしたことで、すれ違い始めてしまう。そのことを、彼らは既に良く知っているから。
「それにしても、今回ばかりは本当にびっくりしましたよ」
 桐生が東京に着いた頃には事件はほぼ収束の様相を見せていたのだが、一体どのような連絡を受けていたのか、桐生は草摩が大怪我をしたものと思っていたらしい。ふらふらと好き勝手に病院を歩き回っている草摩を見て、彼の緊張は一気にゆるんだようだ。訪れた病院食堂で、彼はジャンボプリンパフェを凄い勢いで食べている。草摩は苦笑しながらそんな桐生を見ていた。
「俺が間に合ったのは、桐生のおかげだよ」
「僕の……?」
「うん」

 ――手を差し伸べるタイミングを間違ってはいけませんよ。草摩君。
 
「あの言葉を聞いて、俺はここに来たから。――それにしても、桐生も絵音も困ったもんだな」
「僕も……ですか」
「当たり前だ。……まあ、お前はもう落ち着いたみたいだからいいけど」
 笑みを当惑の色で染めた桐生をよそに、草摩はあっけらかんと笑う。
「ふたりともしあわせにならなきゃだめなんだよ。俺はふたりにしあわせになって欲しい。そうでないと、俺がしあわせになれない」
「草摩君……」
「それに――そう思ってるのは、俺だけじゃない。そうだろ?」
 不意に、一騎が草摩に重なって見えた。桐生は白く滲む視界を晴らそうと、瞬きを繰り返す。
「僕がしあわせだと、草摩君もしあわせなんですか?」
「そりゃあそうさ。だって、俺とお前は『家族』なんだし」
 当たり前のことだというように、草摩はあっさり答えた。そして、桐生はまた瞬きを増やさざるを得なくなる。誤魔化すように、問いを重ねた。
「じゃあ、絵音さんは?」
「……え? 絵音?」
「家族じゃないでしょう? それとも将来の家族、ですか?」
「いや、それは……その……いくらなんでも……」
 こういうところで素直に顔を赤らめてしまう彼は、かわいい男だと思う。桐生はくすりと笑った。
「安心して下さい。今、僕はしあわせですよ、草摩君」
「……そうか」
 草摩は微笑んだ。
 
 ――人を不幸にするのは人だ。でも、反対に人をしあわせにできるのも人だけ。

「これまで、いやこれからも――俺が生きることで、不幸になる人もいると思う。だけど、俺は生きるのをやめるわけにいかない。俺は、俺の周りの人のしあわせを見届けたいから……。俺も、しあわせになりたいから。それだけは、譲れない」
「言っておきますけれど」
 桐生は微笑んだ。
「僕が今しあわせなのは、貴方がしあわせそうだから、ですよ?」
「……え、そうなんだ」
 草摩は目を瞬かせた。
「当たり前じゃないですか。貴方の怪我がもう少しひどかったら、僕はとても不幸になるところでした」
「うわあ、ごめん」
「別に謝って欲しい訳じゃないんですけれどね」
 桐生は空になった容器を脇にどけ、手を顎の前で組んだ。
「……草摩君。一騎さんが亡くなってから、いろいろなことがありましたよね」
「うん」

 不可思議な教祖と、彼の作り出した歪みに喰われた叔父。
 姉の復讐――もしくは姉への復讐に身を焼いた、双子の妹。
 躊躇いながらもこの手で暴いた、桐生の過去。
 母を憎んだ娘、妹を演じ「母」に敗れた姉、そして今回の事件――。
 
 そこには常に、愛情と憎しみの両方があった。愛していた相手を、一瞬の後には憎み始める……誰かを愛するがゆえに誰かを憎む。そのふたつの感情の差は一体何なのだろうか――桐生には良くわからなかった。どちらも他人への執着であることに変わりはない。ただその気持ちが正の方向であるか負の方向であるか、それだけのことなのだろうか。
 草摩は小さくため息をついた。
「絵音も言ってたな。愛も憎しみも、同じところから来ているんだって。思っているほどの違いはないって」
「……草摩君は、どう思いますか」
「俺? 俺は――別々だと思うけどな」
 草摩は遠くに視線を投げた。

「憎むのは過去。愛情は、未来を見るものだと思うんだ」

「…………」
 桐生は、はっと息を飲んだ。
「憎むときって、相手の過去の所業を恨むだろ。相手に愛情を感じるときは、そりゃあ昔のことだっていとおしく思ったりするけどさ、でもやっぱりこれからのことを考えると思う」
「確かに……そうですね」
「だから、別物だと思うよ」
 相手を憎み始めた時には、きっとその相手との未来は閉ざされている。強制的に終わらせる、その手段こそが殺人――。
「ねえ、草摩君」
 桐生は静かにつぶやいた。
「京都に戻ったら、早いところ一騎さんのお墓参りに行きましょう。そしてちゃんとご報告しないと――君も僕も、しあわせにやっていますって」
 草摩は表情を和らげ、うなずいた。
「……うん。そうしよう」

 そのとき、ふたりの脳裏に広がった光景――それは何故か、ひどく似通っていた。
 青い青い空の下。吹き抜ける風に揺られ、ざわめく草花。
一騎はそこで待っている。微笑みながら――本当は全部知っているよ、だけどその口から聞きたいんだ、そんな顔で。
 
 そう――「彼ら」はきっと、待っている。