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Parasuicide

 ――ごめんなさい……。

 飛び散った赤が、絵音の視界を汚した。
「――――!」
 叫んだのは自分か、女か。赤い。熱い。
「絵音!」
 その声に、彼女の体は震えた。止まっていた時が動き始める。差し込むような眼差しは見覚えのある、黄金の輝きを秘めた色。絵音は二三度瞬きして、やがて悲鳴を上げた。
「草摩……?! なんで……?!」
「立て!! 絵音!!」
 力強い腕が、いつの間にか床に腰を落としていた彼女を引き上げる。剥き出しのその腕ににじむ赤い線に、絵音は息を呑んだ。
「け、怪我、して……?!」
「――おい」
 背を向けたまま、草摩は彼女の前に立ちはだかる。絵音ははっと視線を投げた。――そうだ、女が包丁を持って、自分を……。
 ――どうして、草摩が怪我をしているんだろう。そもそもどうしてここに彼が……? 疑問は次から次へと湧き出てくるのだが、何かが彼女の口を塞いでいるかのように声が出ない。そんな絵音の目の前に、草摩の無傷の腕がすっと差し出された。それはまるで彼女に目隠しをしたように、眼前から微動だにしない。
「それ以上動くな。もうすぐ警察が来る。この部屋は、ずっと見張られてたんだよ――」
「あ、あんた、誰?!」
 女の声が震える。その女が一体誰だったのか、どうして自分を刺そうとしたのか、絵音の頭はぼんやりとして――思い出せない。
「誰だっていいだろ? どうせ後でわかることになる。……あんたは俺と、彼を刺したんだ」
 絵音は小刻みに揺れる手を伸ばし、草摩の肩にすがりついた。暖かい……。目頭が暖かいを越えて熱くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。
 慌しい物音が扉の向こうから聞こえてくる。警察。絵音はその単語をぼんやりと思い浮かべた。
 ――バタン!
 部屋に光が差し、三人のシルエットが床の上に浮かぶ。駆け込んできた制服姿の警官たちは手際良く女を取り押さえた。
 けたたましいサイレンの音と、警官たちの声。絵音の頭がずきずきと痛み始める。
「絵音? 顔色が――」
 振り返った草摩の、そのいつも通りの顔を見た途端、絵音の体からするすると力が抜け落ちた。
「絵音? 絵音?!」
「ごめ……な……さい……」
 猛烈な吐き気と、手足を這い登る冷感。絵音は目を半ば閉じながら、それでも草摩の腕を掴み、言葉を紡ぐ。
「私……わた……し……」

 ――あのとき、このまま消えてしまってもいいと思った。
 
 視界が濃い紫から黒へと閉ざされていく。絵音はその強すぎる引力に身を任せ、意識を手放した。
 
 
 院内の喧騒が、遠い。
「そうですか。姉が……」
 速見が目を伏せたせいで、その表情は良くわからなかった。草摩は左腕に巻かれた包帯にちらりと目を落とす。運良く傷は浅かった。既に縫合処置も受け、草摩は警察による聴取に呼ばれるのを待つ間、速見の病室をふらりと訪れたのである。ここに来るのは、二度目のことだった。一度目は、つい先ほど――草摩が絵音らの父のマンションを訪れる直前。まさにその場所を、草摩は尋ねに来たのだった。
「そのお怪我は、姉を庇って?」
「……別に、そういうわけでもないけどね」
 いつの間にか速見は顔を上げ、草摩をじっと見つめている。その面影が、姉の絵音と重なった。
「どうしてわかったんですか。俺を刺した相手のこととか、場所とか……姉の行動も」
「…………」
 草摩は視線を窓の方へと逸らした。とたん、空が白く発光する。引き続いて轟音。速見が首を巡らせるのとほぼ同時に、窓を幾つもの水滴がたたいた。――夕立だ。
「なあ」
 草摩は速見の質問には答えないまま、口を開いた。
「君も……いいと、思った?」
「……え?」
「あの女に刺されてもいい、と。そう思った?」
「…………」
 速見は静かに首を横に振った。
「あっと思った時には刺されていて……それから後は、どうやって事実を隠したらいいのか、そればっかり考えていました。あの女がいついなくなったのかも、気付かなかった」
「……それは、お母さんとお姉さんを守るため?」
「…………」
 沈黙がその場を支配した。激しさを増す雨音だけが、窓を通して空間を侵食している。
「その、つもりでした。でも」
 速見の薄い唇が、わずかに歪む。
「本当は……違ったのかもしれない……」
「…………」
「俺は……俺の行動のせいで誰かが傷つくのが嫌だった……。あの女の存在を、母さんに知らせてしまうのが嫌だった……」
「…………」
「だから……」
「そうか」
 草摩はため息混じりにつぶやいた。
「じゃあ、絵音はどうして……」
 それは、深くうつむいた速見には聞こえなかったようだった。代わりに、短い言葉が発せられる。
「ありがとうございます」
「え? 何……が?」
 戸惑った表情を浮かべる草摩に、速見はためらいがちに続けた。
「姉を、守って下さったのでしょう? だから……ありがとうございます」
「…………」
 草摩は曖昧に微笑む。自分は絵音を守ったのだろうか。一体何から? あの女から? 本当に?
 ――何故、あの時絵音は謝ったのだろうか……。
「それから」
 速見がぽつり、と付け加える。
「申し訳ありませんでした」
「何故謝るの? 君が俺を刺した訳じゃない。君に頼まれてあの場所に行った訳でもないのに」
「でも」
 速見は顔を上げない。
「俺が余計なことをせずに、ちゃんと警察に全部話していたら――今頃、貴方はそんな怪我を負わずに済んでいた。いや、今更父に会おうなんて考えなければ……」
「…………」
「俺のせいで、姉も巻き込み、貴方までも……。本当に、ごめんなさい……」
 草摩は静かに問い掛けた。
「君は、何故お父さんに会おうとしたんだ?」
「東京に進学することを伝えたら、一度うちに遊びに来ないかと連絡があったんです。それを間に受けて……。どこかでまだ『父』に対する甘えと……期待があったんでしょう。そういうの、あの人には無駄だってわかっていたはずなのに」
「前もって連絡を取らなかったのは?」
「拒絶されるのが怖かったからです。……本気で来るつもりか、と。そう言われるのが怖かった。どこかで予感があったのかな……」
「…………」
 草摩の記憶にある自分の父親と、速見のそれに対する認識には大きく隔たりがあるようだ。だが、きっとどちらも間違ってはいない。草摩にとっての父親と、速見――絵音にとっての父親は、全く違っていたのだろう。
 草摩は座っていたスツールから立ち上がった。――そろそろ絵音と会わせてもらえるかもしれない。
「俺は、俺の怪我を君のせいにするつもりは全くないよ。これは、俺が望んで行動したことだから」
「――でも!」
「それでも、君が自分を責めるというのなら」
 草摩は速見の言葉を遮り、きっぱりと言った。
「それは心の中にとどめておいて欲しい。そうでなければ、それは謝罪という名を借りた自己満足だ」
「……草摩、さん」
「俺は君の謝罪を受け取った。だから、もう繰り返す必要はない。だよね?」
「…………」
 速見は少しの間黙っていたが、やがて顔を上げた。その口元にはわずかではあるが、笑みが漂っている。それが努力の結果であろうとも、草摩には嬉しいことだった。
「ええ。そうですね」
「うん。じゃあ、俺はこれで……」
「草摩さん」
 病室を出ようとした草摩を、速見が呼びとめた。彼が振り返る先で、彼は姉と良く似た表情で微笑んでいる。
「姉が貴方を好きになった理由が、俺にもわかるような気がします」
「え?」
 思わず草摩は声を上ずらせた。
「そ、それ、何?」
「それはひみつですよ。勝手なことを言ったら姉に怒られます」
「そんな……!」
 先ほどまでと別人のようにうろたえる草摩と、余裕たっぷりに肩を揺らす速見。
 いつの間にか止んだ夕立にさえ、彼らは気付いていなかった。ましてや空に掛かった虹になど――。
 
 
 絵音の病室を訪れた草摩は、驚いて目を見開いた。彼女のベッドのすぐ側に腰掛けている女性には、見覚えがある。
篠原(しのはら)さん……?」
「あら。草摩君」
 振り向いたのはやはり、篠原亜矢子(あやこ)だった。草摩の亡父の旧友、篠原(はじめ)の妻である。医師として勤務しているのは知っていたが、勤め先までは聞いたことがなかった。まさか、この病院にいたとは……。
「知っている名前がふたりも救急で運ばれてきたから、驚いたわよ」
 亜矢子の影になって、絵音の顔色はうかがえない。草摩は後ろ手に扉を閉め、部屋の中へと歩みを進めた。
「絵音……。気分は?」
「そうま……」
 絵音はおそるおそるといった様子で口を開いた。その表情は暗いが、頬には血色が戻っている。
「怪我は、だいじょうぶなの……? いたくない……?」
「たいしたことないって私が説明しても、納得してくれなくってね」
 亜矢子がやわらかく微笑む。草摩は包帯の巻かれた左腕を伸ばし、そっと絵音の頭をなでた。
「だいじょうぶだよ。痛くない」
 絵音は草摩を見上げて顔を歪める。
「……ごめんね、謝っても許されることじゃないけど、でも……ごめんなさい」
「どうして絵音が謝るの? 絵音が刺した訳じゃないだろ」
「でも! 私が不用意にあの女に会ったりしたから……」
「絵音」
 草摩は不意に、強い口調で彼女の名を呼んだ。
「絵音に謝るべきことがあるとしたら、そんなことじゃないよ」
「え……?」
「あのとき、絵音はあの女から逃げようとしていた? 刺されまいと、抵抗していた? していなかったよ」
「……それは」
 目を背けようとする彼女の両肩に手を置き、草摩はじっと視線を合わせる。
「なんで? なんで、受け入れようとした? あの女の殺意に、どうして歯向かわなかった?」
「…………」
「草摩君……?」
 亜矢子が不思議そうに問い掛けるのを、草摩は無視した。
「答えて。絵音」
「……わ、わたし……」
 見開かれていた瞳が、溢れ出す涙の中にゆらゆらと揺れ始める。やがて、ぽろりぽろりと透明な雫が彼女の白い頬を濡らした。
「私がいけないんだと思った。私がいけないから、こんなことになったんだって……」
 ――子供がいるから離婚しないんだと、父はそう言ったという。かつて、母も同じ理由で離婚を躊躇った。自分のせいで、母は自由になれなかった。二人が離婚しなかったために、あの女は弟を刺した。
「最初から私が生まれて来なければ……両親は別れていたわ。母はほかの、もっといい人と結婚して、しあわせな家庭を築くはずだったのよ。私が生まれなければ、きっとやり直しやすかった。父じゃない人との間に私じゃない、もっと別の子供が生まれていたら、それで良かったのに」
 亜矢子が息を呑む気配を背後で感じながら、草摩は絵音を促した。
「それで?」
「それで……、だから、あのとき、ふっとそれでもいいような気がしたの。時間は戻らないけれど、でもやっぱり私はいない方がいいのかもしれないって、そんな気がした……」
「今はどう思う?」
「今は……」
 絵音は素直に言葉を紡ぐ。だが、涙は止まる様子がなかった。
「逃げなきゃいけなかったと思う。……わかってるの。あの女に私が殺されたリ傷つけられたりしたら、母は何より悲しむ。弟だって同じ。わかってる。だけど、やっぱりわからないの。私、私のいない世界をどこかで望んでる。その世界ではみんながしあわせなんじゃないかって、ずっとそう思って……」
「絵音」
 草摩は小さくつぶやいた。
「それは間違ってる……」
「わかってる。そんなこと仮定したって仕方がないの。わかってる。馬鹿げた話なのよ。全部わかってるの」
 絵音は背中を小さく丸め、シーツをきつく握りしめていた。
「でも、ずっと頭を離れないの。私がいなければって、何かあるとすぐにその考えが浮かんできて……!」
「…………」
 草摩は唇を噛む。――そうだ。絵音はすべてわかっているだろう。自分がどれほど意味のない仮定をしているかということも、誰も彼女に責を負わせようなどとはしていないことも、そもそも彼女は何も悪くないのだと言うことも、すべて。それでもなお、彼女は自分を責めずにはいられないのだ……。
「なあ、絵音」
 草摩は彼女のベッドの上に腰掛け、小さく震える肩を抱いた。
「絵音には弟さんがいるだろ?」
「……うん」
「絵音のお母さんが、弟さんを生もうと思った、その理由ってさ。絵音を生んで良かった、そう思ったからじゃないのかな」
「…………」
「以前、絵音は言っていたよね」

 ――親は親になることを選んで親になる。子供は親の選択の結果生まれてくる。子供は何も選択できない。すべて親に権利があるのです。その権利の行使を誤ったとき、子供は叫ぶしかないのでしょう。
 
「『誰も生んでくれとは頼んでいない』……って。そう言うんだって」
 絵音は力なく嘆息する。
「ええ……言ったわ」
「結局、今の絵音が言いたいこともそれと同じなんじゃないかって、そんな気がするんだけどな」
「それは、違う……!」
「違わない。絵音、落ち着いて」
 草摩はあくまで平静だった。
「絵音は、つらいんだよ。親は自分を生むことを選択した。けれど、それを選択しなかった場合にはもっとしあわせな未来が親にあったかもしれないと、そう自分に思わせる状況が、つらい。そんなこと、思いたくないに決まっているんだから。そうだろ?」
「……それは……、そうだけど……」
「一番いいのはそんな仮定をしないことなんだろうけど、それができれば苦労はしないんだと思う。だったら、絵音にできることは一つだ」
「何……?」
 目を丸くする彼女の頬から涙の跡を拭い去り、草摩は優しく微笑んだ。
「絵音がしあわせにしてあげればいい。自分のせいで不幸になったと絵音が考える人を、自分のありったけの力でしあわせにしてあげればいい」
「私が……?」
「そうだよ。……絵音もわかっているとおり、今更絵音が姿を消したって誰も喜ばない。むしろ悲しませるだけだろ? だったらそんな道は選んじゃ駄目だ。絵音はしあわせになって――そしてみんなをしあわせにしてあげられるよう、頑張るんだ」
「…………」
「絵音は、しあわせになるよ。俺が保証する。だから……」
 ――いつの間にか、亜矢子は席を外している。草摩はそれを頭の片隅で認識し、彼女の体に両腕を回した。
「うん」
 絵音は幼子のような表情で頷く。
「がんばる。……だから」

 ――草摩も、しあわせになって。
 
 草摩は目を細めた。
「……ああ」
 ――いつか、彼女も悟るだろう。草摩にとってのしあわせの一部は、既に彼女がしめるようになっているのだと。そしてそれは彼女の母も、弟も、きっと同じように思っているのだと。絵音が存在すること、それそのものがしあわせに等しいと感じる人びとが、確かに存在しているということを。
「草摩」
 絵音は彼の肩に頬を寄せ、つぶやいた。
「……ごめんなさい」

 それから――、
 
「ありがとう……」