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Night Walker

「うん、わかった。……いいよそんなこと気にしないで。ひとまず無事なんだね? ……うん、それじゃあまた落ち着いたら連絡して。うん、じゃ」
 電話を切り終え、草摩(そうま)は大きくため息をついた。キッチンの水音が止まり、桐生(きりゅう)がカウンタ越しに顔を覗かせる。
絵音(かいね)さんですか?」
「うん」
 草摩の表情は冴えない。それは何も彼女との予定が急にキャンセルになってしまったから、というわけではなさそうだ。
 桐生はずり落ち掛けていた眼鏡を押し上げた。
「何かあったんですか?」
「……なんか、弟さんが怪我したんだって」
「怪我を?」
「うん……」
 絵音の弟、速見(はやみ)は今春T大に進学した。来月の夏休みには帰省する予定だと聞いている。その彼が、怪我を負った――しかも、どうやら軽い怪我というわけではないらしい。
「絵音さんは何かおっしゃっていませんでしたか」
「ううん……とりあえず今日は今からお母さんと一緒に東京に行くって言ってて、詳しいことは聞けてないんだけど」
「おふたりとも、東京に?」
 不思議そうにつぶやく桐生に、草摩は曖昧に言葉を濁した。
「まあご両親が別居されているわけだし、お母さんだけじゃ心細いのかもしれない。絵音ももう夏休みだし」
「そうですね……」
「たいしたことないといいんだけど」
「ええ」
 桐生は頷く。雪村(ゆきむら)絵音――草摩と彼女が交際を始めてから、もうすぐ一年が経つ。頭の回転の速く、さばさばとして闊達な性格の彼女に、桐生は好感を持っていた。草摩が惹かれる理由も良くわかる。だが、彼女にどこか自分と似た匂いを感じるのは何故だろう。互いに、両親が不仲な環境で育ったせいだろうか。いや、それだけではないような気がする……。
「絵音さんと弟さんは仲が良いんですか?」
 ややぼうっとしていた草摩は、桐生の言葉に気付いて笑みを見せた。
「ああ、うん。そんなようなことを聞いたことがあるよ。……そういえば俺もお前も一人っ子だな」
「ええ、そうですね。兄弟ってどんな感じなんでしょう」
「うーん……」
「…………」
 ――ふたりの間を沈黙が満たし、やがて彼らは同時に口を開いた。
「兄?」
「弟?」
 互いを指差しての発言に、どちらともなく噴き出す。
「ちょっと年が離れすぎかなあ」
「無理をすれば何とか……。いっそ異母兄弟とか」
「それならあり得そうだけど、ま、無理して兄弟ぶらなくてもいいんじゃない?」
「そうですか?」
 桐生が不思議そうな顔をしたのを見て、草摩は言い直した。
「んー、つまり、俺たちが何も兄弟って枠に当てはまんなくてもいいんじゃないかってこと。俺たちは家族だってことに、変わりはないんだしさ」
 ――家族の形なんてそれぞれに合わせて無数にあるものだから、桐生と草摩にぴったりとくる言葉がないとしても、それはそれで構わない。彼らが「家族」であることにはかわりがない。
「……そうですね」
 桐生は微笑んだ。
 ――草摩と同居を始めて、一年以上が経った。もう一年なのか、それともまだ一年なのか。だがお互いを「家族」と呼んで違和感がない程度には、うまくやれていると思う。
「今度、一騎(かずき)さんのお墓参りに行きましょうか」
 桐生はぽつりとつぶやく。
「彼岸の頃は忙しくて、僕休めませんでしたし」
「来月のお盆でもいいと思うけど?」
 草摩の言葉に、桐生は強い口調できっぱりと言い切った。
「いえ、もう少し早く行きたいんです。僕が」
「……そっか」
 草摩はそれ以上何も聞かず、穏やかに微笑んだ。亡き父と桐生との絆は、まだ草摩にも良くわからない部分が多い。それでも自分の敬愛する父親を桐生が慕ってくれているという事実は、嬉しくこそあれ、いとわしいものであるはずがない。
「じゃあ、俺も付き合う」
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
 顔を見合わせて笑い――やがてふと草摩が真顔に戻った。
「じゃあ、来月のお盆は、お前の家族の……」
「いえ、それはいいんです」
 まるで遮るような桐生の口調に、草摩は息を飲んだ。視線を逸らした桐生の横顔は少し強張っている。
「母の遺骨はまだお寺に預かっていただいていて、ちゃんとお墓を建てている訳ではありませんし……」
 ――まさか、父の家のお墓に埋葬するなど。そんなことは、桐生の心情が許さないのだろう。草摩は桐生の肩をぽん、と叩いた。
「そろそろ、いい墓苑でも探しに行ったら? 見晴らしのいいところがいいよな。俺も付き合うよ」
「……え」
 面食らう桐生に、草摩は明るく続けた。
「墓地買うくらいの金は貯まってるんだろ?」
「ええ、まあ」
「それなら後は場所だけじゃん。探しに行こうぜ」
「…………」
 桐生は力を抜き、穏やかに笑う。
「ええ、そうですね……」
 ――それが、僕が母さんにできる最後のことだから……。

 二三ヶ月ぶりに見た弟は、少し痩せたようだった。それでも心配していたほどひどい様子ではなく、絵音は少し安心した。昨晩遅くの連絡――「雪村速見君が何者かに刺されて救急搬送されました」と聞いたときはあまりの驚愕と心配で、比喩ではなく胸が潰れるかと思った。
 先ほど医者に聞いたところ、使われた刃物の刃渡が短かったため、運良く腸管には傷がついていなかったらしい。既に手術によって損傷した血管は吻合されており、後は安静にして傷が閉じるのを待つだけだという。しばらくは抗菌剤を用い、創傷からの感染に気をつけていれば、あとは特に問題はないらしい。彼がまだ若く体力のある青年だということも、治療には有利に働いているだろう。
 病室に入ってきた絵音を見て、速見は少し照れくさそうに口元を緩めた。
「ごめんね、迷惑掛けて」
「何言ってるの。……とにかく、無事で良かったわ」
 絵音はベッドの隣のスツールに腰掛けた。刑事事件に発展する可能性があるためか、病室は個室である。
「母さんは?」
 尋ねる弟に、絵音は簡単に答えた。
「今、警察に呼ばれて事情を聞いているところ」
「……そう」
 速見はそれきり口を噤む。
「…………」
 絵音はただ弟の横顔をじっと見つめていた。夕焼けがブラインドに遮られてできたオレンジの縞模様が、彼の顔をまだらに染めている。
 廊下から聞こえる、医師や看護士らが行きかっている足音や、指示を出す声。それらが、遠い。
「ねえ」
 ――長い時間が経ったかのように思われたが、実際はそうでもないのかもしれない。絵音は重い口をゆっくりと開いた。
「どうして、何も言わないの?」
「…………」
「だってその傷、誰かに刺されたんでしょ。一体誰にやられたの?」
「…………」
「どうして黙ってるの。警察にも何にも言ってないなんて……どういうこと?」
「…………」
 速見は静かな無表情で白いベッドカヴァーを見つめている。
「犯人、捕まえて欲しくないの……?」
「…………」
 速見の沈黙に耐えかね、絵音は音を立てて立ち上がった。ちらりと見遣るが、弟は先ほどと姿勢を変えることなくやや俯き加減のまま、微動だにしない。絵音は窓の側へと歩み寄った。窓に寄せた手がぐしゃりとブラインドをひずませる。
「私は赦せないわ。あなたを刺したやつを、絶対に赦せない」
「…………」
「絶対に探し出して欲しい。探し出して、それで」

「――それで?」

 速見の声に、絵音ははっと振り返った。彼の瞳はじっと自分を見つめている。
「それから、どうするの? 姉さん」
「…………」
 ――探し出して、それで。
 答えようと思うのに、答えが浮かばない。絵音の唇はわずかに震えを刻むばかりで、結局一言も音を発することはできなかった。