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Nausea

 ──たすけて。

 電話口から聞こえた言葉に、草摩は絶句した。間違いなく絵音の声だ。しかしそこにはいつものような闊達さはかけらもなかった。疲れきった様子にも関わらずどこかが張りつめたままで、弱々しくもはっきりとした──とにかく、ひどくアンバランスな。
 草摩は受話器を強く握り直した。
「落ち着いて。俺に話して」
『草摩……』
 絵音の声が揺れる。草摩はゆっくりと、つとめて冷静に繰り返した。
「落ち着いて、絵音」
『…………』
「大丈夫だから。俺に、話して」
 ――大丈夫だから。草摩はただ、それを繰り返した。
 やがて、受話器の向こう側で大きく息をつくような音がした。
『ありがとう。もう大丈夫よ』
 一瞬の間をおいて帰ってきたのは、いつも通りの絵音の声だった。草摩は向こうに伝わらない程度にほっと息を吐き、口元を緩める。
 彼女はもう大丈夫だろう。繊細ではあるし、突然ひどく内罰的な思考に陥るくせもある。だが彼女は現実に正面から相対して、それを乗り越えていく力を持ち合わせている。目を逸らさない。逃げ出さない。目に映るものを歪めない。どんなに辛くとも、苦しくとも、現実を受け止めることができる。その一方で自分が傷つくことに対しては、いっそ鈍感ともいえるほど無関心でもあった。その分、絵音の傷には草摩が敏感でいてやらなければと思う。傷はいつか閉じる。だがそれが深いものであればあるほど、瘢痕化して傷跡を残す。そして、それはずっと時間の経った後にひどく痛むこともある……。
「話してくれるね」
『……ええ』
 絵音はぽつり、ぽつりと語り始めた。
 弟、速見が深夜何者かに刺され、自ら交番に助けを求めたこと。だが、相手についても刺された場所についても、全く語ろうとしないこと。目撃者なども今のところはおらず、捜査は難航しているらしいということ――むしろ警察関係者も速見のだんまりに苛立っているということ。
 人とおり聞き終わった草摩は、ぽつりとつぶやいた。
「目撃者なんて集めるより、もっと他にやった方がいいことがあると思うけどな」
『……え?』
「何故、速見くんは犯人を庇うような真似をしているのか? 今回の件の一番のポイントはそこだよ」
『犯人を……庇う……?』
 絵音はその言葉をあたかも咀嚼するかのように、ゆっくりと繰り返した。草摩は相手には見えないと知りながらも、うなずいた。
「そう。速見くんは犯人が捕まることを望んでいない。それだけは確かだ」
『……そうね。確かにそうとしか考えられない』
 きっぱりと言う草摩に、絵音もまた静かに同意した。
「もう一つは、人に知られたくない場所で事件に巻き込まれた可能性。恥とか外聞を恐れて黙っている、という場合だね。とはいえこれはあくまで可能性の話だから、気を悪くしないで欲しいんだけど」
『そんなことで怒ったりしないわよ。……確かに、その可能性も考えられる』
「ただ後者の可能性は当然警察も考えていて、その上で捜査をしているはずだ。大体、若い男性が深夜、人に知られずに行きたがる場所なんていえば……その……わかるだろ?」
 口を濁した草摩に、絵音は小さく笑ったようだった。
『わかる』
「そういうところで人が一人刺されて、目撃証言の一つも上がってこないはずがないと思うんだ。深夜に人が集まる場所だしね。しかも、彼は自力で交番まで来てる。失血量などから推定して、大体の行動範囲の特定はされているはずだと思う」
『なるほど……速見はあの交番から近い場所で刺されたはず……か』
 何かを考え込むように、絵音の声が沈んだ。草摩はやや間隔を開け、問い返す。
「何か、心当たりが?」
『……ううん、私東京は詳しくないし良くわからないわ。ただ……』
「ただ?」
『あの交番の近くに、別居してる父親の家があるなあって。それだけよ』
「…………」
 ――速見が庇っている犯人とは、まさか……?
 脳裏に浮かんだ嫌な光景に、草摩は思わず息を飲む。だが耳元から聞こえる絵音の声はあっけらかんとしたものだった。
『大丈夫よ、あの人は今アメリカ。どれだけ頑張っても速見を刺すことはできないわ。それにわざわざ誰かの手を借りてそんなことするとも思えない。金銭的にも社会的にも、得がないもの。私たちに掛かってる保険金の受取人は母さんだし――』
「……うん」
 草摩は言葉少なにつぶやいた。――まさか、父親がそんなことをするはずがない。絵音の口からはそういった無条件の否定は出てこなかった。冷静にアリバイを提示し、また動機の有無を考察する。まるで、まるっきり他人の容疑者を吟味する時と同じような様子だった。
 
 ――なぜか、不意に桐生を思い出す。
 
 望む望まざるに関わらず、結果的に父親を自らの手で死に追いやった桐生。草摩は時折、絵音と桐生に似通った匂いを感じていた。細やかな優しさと思い遣り、思慮深さ、それでいて何かを諦めたような素っ気なさ……。それはこういうことだったのかもしれない。
 自らを生み出した存在である両親、一方への不信感と他方への罪悪感。一方を憎めば憎むほど、その血を引く自らを呪うことにも繋がる――桐生はそれを「罪」と表現した。母を救えず、父を断罪した。それは自らの「罪」だったのだと。草摩はそうとは思わない。桐生は被害者だと言っていいと思う。だが、一度繋がってしまった悪循環は、自らの手で断ち切るには難しすぎるのかもしれない……。
 
『そろそろ部屋に戻るわ。長いことごめんね』
「いや」
 草摩は意識を引き戻し、電話の向こうに向かって微笑を浮かべる。
「声が聞けて安心した。電話してくれてありがとう」
『……こちらこそありがとう』
「また連絡してくれよな。……それから、気をつけて」
『うん。……そうだ』
 絵音がふと、声の調子を変えた。
『ねえ、ちょっと考えてみて欲しいんだけど』
「……俺が、考えればいいの?」
『そうよ』
 草摩はじっと耳を傾けた。
 
『私……。犯人を捕まえて、どうしたいのかしら』

 意外な言葉に、草摩は驚いて聴き返す。
「え……? どういうこと?」
『草摩なら、どう? 弟はもしかしたら、犯人が捕まることを望んでいないのかもしれない。それなのに、私はこうやって探している……。その理由は、何なのかしら』
「…………」
『こういうとき、草摩ならどうする? 犯人を探す?』
「俺は……」
 いつの間にか口の中にたまっていた冷たい唾。草摩はそれをごくりと飲み込んだ。そして、口を開く。
「俺は、探すよ。それが誰かを傷つけることだとしても……真実を明るみに出す」
 絵音はわずかに息を飲んだようだった。
『……どうして……? どうして、そこまでして……』
 草摩は静かに笑う。
「嘘は、ひび割れるもんだよ」
 うまく作り上げた虚構も、いつかは限界を迎える。少しずつ少しずつ歪みを溜め込みながら、そのことがまた誰かを傷つけながら……。
 草摩はそれを望まない。
「優しい嘘も、醒めない夢も、結局は何も救わない。いくら真実を押し隠そうとしたって、自分の記憶から消えるわけじゃないし、存在を抹消できるわけでもない。ただ、自分を苦しめるだけのことだと思う……」
『…………』
「絵音?」
 声を通してしか意思の疎通ができない電話では、草摩が絵音の表情を測り知ることはできない。不安げに名前を呼んだ草摩に、絵音はようやく返事をした。
『……聞いてるわよ』
「ああ、うん」
 ――傲慢だと思われただろうか、気分を害しはしなかっただろうか……。先ほどきっぱりと断言したときの自信はどこへやら。草摩はやや慌てた様子で絵音に語り掛ける。
「や、あの、今のはあくまで俺の考えであって、絵音は絵音の考えがあっていいと思うし、何も俺の意見が絶対正解ってわけでもないんだし、まあそれはあたりまえのことだけど」
『わかってるわよ』
 笑みを含んだ声に、草摩は口を噤んだ。どうやら絵音は気分を害していない。落ち着いていて、感情も上手くコントロールされている。
『ありがとう、草摩……』

 受話器を置いた絵音は虚空をじっと睨みつける。
「お姉ちゃんをあんまりなめるんじゃないのよ、速見……」
 その唇は笑おうと努力しながらも失敗したのか、ややいびつな形に歪んでいた。