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Narcissism

 夏の日射しを拒絶するかのような、薄暗く湿った室内。絵音は額にじんわりと冷たい汗がにじむのを感じた。手のひらにはぬるくなったこの部屋の──父の住む部屋の、鍵。
 冷蔵庫のモーターが、ぶうんと耳障りな音をたててあたりを震わせる。それを、絵音はため息とともに霧散させた。
「そうね……」
 ゆっくりと背後に向かって振り返りながら、つぶやく。
「確かに草摩の言うとおりだったわ」
 ──何故、速見が自分を刺した犯人を庇うような真似をしたのか。それが、最大の手がかりだったのだ。
「あの子のことなら、私は良く知ってる。あの子が何よりも大切にしているもののことも……」
 がちゃり、と鍵が外れる音──そして、扉のノブが回る。絵音はこの部屋に入ってすぐに、内側から鍵を掛けていた。それが開けられたということは、すなわち……。
 薄く開いた扉は小柄な侵入者を飲み込み、すぐに口を閉じた。蒼白な顔がちらりと照らし出される、それを絵音は見逃していない。年齢は彼女と彼女の母親のちょうど中間くらいだろうか。ほっそりとした、たおやかな女性――だが、その表情は。
「貴方ですね」
 絵音は静かに口を開いた。つとめて平静を装い、相手をまっすぐに見すえる。
「私の弟を、刺したのは――」
「…………」
 女は口を開かない。ただ、その目だけが焦燥と憎悪を宿してぎらぎらと燃えていた。――彼女を支配するのは、何か得体のしれない激情。それを、時に人は狂気と呼ぶ。
 
 
 絵音は女の返事を待たずに言葉を続けた。
「貴方が雪村孝太郎とどんな関係だって、私には関係ない。だけど……」
 ごくり、と唾を飲む。
「私は弟とは違う。あの子は貴方と父の関係を知って、母が悲しむと思った。だから、貴方のことを隠した……。何も話さなかった」
 女の大きく見開かれた瞳がわずかに揺れた。絵音はそれをただじっと見ている。
「あの子が何故あんな遅い時間にここに来たのかはわからないけれど……、昔からいつだって父は帰宅が遅かったから、その方が確実に会えると思ったのかもしれない。でも父は留守だった。そして」

 ――あんた、誰だ?

 速見も絵音と同じく合鍵を持っている。父を驚かせるつもりだったのか、インターフォンを押しても出ないことに焦れたのかはわからないが、彼はそれを使って部屋に入り――女と会った。
「きっとびっくりしたでしょうね。まさか父に女がいたなんて……」
 絵音はひきつったような笑い声を上げた。女はぎょっとしたようにそんな彼女を見つめる。
「驚いたわ。我が父ながら、不出来な男だと思っていたのに」
「…………」
「まあ、人の趣味を悪し様に言うつもりはないけれど。でも、何故」
 絵音の表情から笑みが消える。
「弟を刺したのかは、教えて欲しいの……。それだけはどうしても、直接聞きたかった」
 いつか、警察もこの人物に行きあたるだろう。彼らはそこまで無能ではない。もしかすると今も既にこの女の関与に感づいているかもしれない。弟の尽力も空しく、母は父の裏切りを――何度となく繰り返されたこの裏切りを、この期に及んでつきつけられることになる。母は泣くだろうか。昔のように、怒るだろうか。それとも……。
「あの人は」
 女はぽつりとつぶやいた。
「離婚しないのは子供がいるからだ、と言っていたわ」
「…………」
「子供を愛しているのかと聞いたら曖昧に笑っていた。それでも、離婚しない理由は子供だと……」
「父は」
 絵音は再び口元を緩めた。
「貴方を愛していると言ったことがあるの?」
「もちろんよ」
 間髪入れない返答。だが、絵音の笑みは深まった。
「幼い頃、父に聞いたことがあるの。私たち子どもと母のどちらをより愛しているか、と」
 その問いに、特に深い意味などなかったに違いない。母にも同じ質問をした覚えがある。その答えは――父とは違っていた。彼女は子どもだと言い、そして父は……。
「父はそのとき、母を選んだのよ」
「…………」
 女の顔色がさっと変わった。絵音は暗い嗜虐心に支配されるようにして、言葉を投げつけた。
「だけど母はいつだって、父に愛されていないと言って泣いていた。私だってそう。父に愛されていると感じたことなんてない。あの人はただいつもそこにいるだけ。それだけだった」
 幼い頃の記憶を探してみても、そこに父の体温はない。母からは溢れるほどの抱擁を受けて育ってきたが、父は違った。仕事人間だった、それだけで説明のつく話ではない。誕生日だって、母だけが覚えていて、母だけが祝ってくれて、母に促されてはじめて、父もまた祝いの言葉を述べる。いつだってそうだった。本当は、娘の誕生日などどうでも良かったのだろう。消極的な無関心――父はその塊だった。
「でも、今は……」
 女はつぶやく。
「孝太郎さんは、私を愛してくれているわ」
「そう。それで?」
 絵音は苦笑を浮かべて促した。
「だから――彼と結婚したかった? だから障害になる私たちを殺してしまおうと思った?」
「そこまでは考えなかったわ。ただ」
 女は細く白い手を持ち上げ、自らの顔を覆った。
「あの人と良く似た声で私を詰る、あの男の子が怖かった……」
「…………」
 絵音ははたりと口をつぐんだ。父と弟の声が似ているなどと、一度も感じたことのなかった。似ている、のだろうか。父と子。――私も?
「いい加減なことを言わないで。速見と父の声は似てなんか……!」
「貴方、お父さんのことが嫌いなのね」
 女が不意に顔を上げた。絵音はぞくりと体を震わせる。女の口元は、笑っていた。
「かわいそうに。貴方の体の半分はあの人からできているのに。父親を憎むということは、自分を憎むのも同じよ。貴方は自分が嫌い? 大好きなお母さんを苦しめた男と、貴方は親子なのよ?」
「うるさい……!」
 絵音は押し殺した声で叫んだ。
「あんたにそんなこと言われる筋合いはないわ。どうせ、あんたも父にいいように利用されているだけよ。男の一人暮らしはいろいろと面倒だから、いい家政婦を見つけた程度にしか思っていないに決まってる。あの男はそういう男なんだから。私はあの男を二十年前から知ってるのよ!」
「別に、構わないわ」
 女はふ、と笑った。絵音は息を荒げて肩を上下させている。
「私が、彼を好きなんだから。彼がどう思っていようと、それはまた別の問題。そうじゃない?」
「は、くだらない。それでも結婚はしたいんでしょう? その障害になっている子どもたちが憎いんでしょう? そんなの、勝手に父がそう決め込んでいるだけなのに。憎むんなら父を憎みなさいよ」
 絵音の舌鋒が鋭さを増すにつれ、女はややあとずさった。絵音はいい募る。
「結局は自分が好きなのよ。父を愛しているような気になっているのも、きっと錯覚だわ。そのまま報われない愛に陶酔していればいいじゃない。だけど」
 後半、絵音の声はまるで悲鳴だった。
「私や弟や……母を傷つけるのはやめて。これ以上、苦しめないで。私たちに関わらないで。父を連れて、どこにでも行ってよ! 消えてしまってよ……!!」
「…………」
 絵音は目を見開き続ける。泣くものか。絶対に泣くものか。歯を食いしばり、女を見つめていた。
 女はやがて、肩の力を抜いた。
「言いたいことはそれだけ?」
 その低い声音に――絵音の背中を、悪寒が走り抜ける。
「貴方、私に会いに来たんでしょう? 思わなかった? 私も弟さんみたいに刺されるかもしれない、とは――」
 女は静かに微笑んでいる。絵音は慄然とした。そしてようやく、自分の浅慮に気付く。
「私、貴方たちのお母さんのことが嫌いなのよ。……もちろん会ったことも話したこともないけれど……まあ、それはわかってもらえると思う。別に、貴方や弟さんに恨みはないんだけどね。でも、どちらかといえば嫌い、かな」
 彼女は途端に饒舌になっていた。絵音は小さく口元を喘がせる。その瞳に映るのは――。
「貴方や弟さんが傷ついても、あの人は泣かないのよね? そして、貴方たち家族三人が苦しむ――ちょうどいいじゃない」
 絵音の胸がぎゅっと締め付けられる。弟が怪我を負ったと聞いたときの衝撃。母の蒼白した顔。容態を聞かされた時の安堵。それから今までの憔悴。苛立ち。後悔。
 それをまた、母は――そして次は弟が――感じることになるのか。
 
 ――ねえ、草摩。
 
 絵音は迫り来る凶器の先端をぼうっと眺めていた。
 
 ――私がいなくなったら、貴方は……、
 
「絵音」
 懐かしく、愛しい声。絵音はそれを耳の奥で聴きながら、硬く目を閉じた。
 
 ――貴方は、泣いてくれるのかしら……?
 
 自分は彼に泣いて欲しいのか、泣いて欲しくないのか。よくわからなかった。ただ一つわかることは、……。
 
 ――ごめんなさい、草摩。
 
 
 ――ピピピピピピピ。
 部屋中に響き渡る電話の着信音。一人で自宅にいた桐生は、いつになくひどい胸騒ぎを覚えながら受話器をとった。
「はい。――ええ、そうです。僕が桐生ですけれど……。え?」
 声が跳ね上がる。言葉を頭が理解するより先に血の気が引いて、体中が拍動に揺すぶられるような不快感に襲われた。そして、ようやく耳から入ってくる音声を言語として認識し始める。だが、それは彼の状態をより悪化させただけだった。
「……はい。はい、わかりました。はい……はい……」
 機械的に返答しながら、桐生は体の震えを抑えるのに必死だった。
 ――いつの間にか電話は切れ、桐生は静かな部屋にただ一人、立ちつくしていた。
「…………っ」
 急激な不安と恐怖に襲われ、彼は床にしゃがみこむ。神など信じていないはずなのに、桐生は硬く両手を握り合わせた。
 どれほどの時間、そうしていただろうか。桐生はのろのろと立ち上がる。
「東京に……行かなきゃ……」
 仕事はどうにか都合をつけよう。そして、東京に行かなければ。「彼」の側に行かなければ。
 ――「彼」の家族は、自分だけなのだから。