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Moon-blind

 受話器を置いた草摩の背後から、ぺたぺたと足音が近づいてきた。彼は振り返り、わずかに眉をひそめる。
 視線の先では同居人である桐生千影(ちかげ)が風呂からあがって、一本のビールを手にしていた。上半身などタオルが肩に掛かっているだけで、下半身はといえばジャージである。だらしがないというよりも、むしろ……。
「オヤジくさい」
 桐生は心外そうに目を見開いた。彼の眼鏡を外した顔にも、大分見慣れてきた。
「オペあけのビールっておいしいんですよ。風呂上がりだとさらに」
「いやだからそういうところがオヤジくさいんだって」
 桐生は笑ってプルトップを開けた。プシッと小気味の良い破裂音が響く。
「そういえば、一騎さんはお酒呑めませんでしたよね」
「うん、ほとんど。俺の方がたぶん強いと思う」
「草摩君も強くはないですけどねえ」
 桐生は缶を傾けて喉を鳴らした。草摩は唇をとがらせて反論する。
「母さんは強かったんだぜ?」
「じゃあ、そこのところはお父さん似なんですね」
「……うーん」
 腕組みをしたまま、草摩は桐生を見遣った。相変わらずほっそりした体はビール腹などとは無縁だが、決して筋肉質というわけでもない。どこか少年のような未熟さを残した体つきだと思った。
 視線を感じたのか、桐生は缶から口を離して首を傾げた。
「何です? そんなにじろじろ見て……恥ずかしいじゃないですか」
「何が恥ずかしいだよ、馬鹿」
「――ところで」
 桐生はリビングルームのソファにつまれていた洗濯物から、黒の無地のTシャツをとって頭を通した。顔がえりくびから出てきたときには、すでに真顔になっている。まるで魔法のトンネルをくぐったかのようだ。
「お電話。絵音さんですか?」
「……うん」
 草摩はうなずいた。自分の足元に視線をやりながら、ぽつりぽつりと口を開く。
「弟さん……なんか事件に巻き込まれたみたいなんだ」
「ただの怪我ではなかった、と」
 桐生の手の中で缶がくしゃりと音を立てた。どうやら中身は空らしい。
「誰かに刺されたんだって、言ってた」
「それは……」
 桐生は絶句した。草摩はふう、とため息をつく。
「傷そのものはそこまでたいしたものではないらしいけどね」
「……それは、何よりでした」
「問題はそっちじゃなくて……」
 草摩は天井を仰ぎ、虚空をにらみつけた。
「弟さんが、何も話さないってこと」
「何も……話さない?」
 桐生は怪訝そうに聞き返す。
「誰に刺されたのか、どこで刺されたのか、何も話してくれないんだ」
「…………」
 桐生は軽く首をひねった。
「それは、妙ですね」
「うん。……警察は聞き込みをして弟さんの目撃証言を集めているみたいだけどな」
「本人が話さない以上、そういうアプローチをするしかないでしょう」
「まだ成果はあがっていなさそうだけど……。それよりさ、『話さない』ってことも一つの表現じゃないか?」
 ふと、草摩が桐生と視線を合わせた。爛々と輝くその光に桐生は既視感をおぼえ、まぶしげに目を細める。これは、真実を追究する瞳。闇を暴く、真っ直ぐな瞳だ。
 桐生は内心の動揺を押し隠し、つとめてさらりと尋ねた。
「草摩君には、既に何か心当たりがあるのですか?」
「…………」
 草摩は口をつぐんだ。――心当たりというのではないが、一つ気に掛かっていることがある。それは……。
 
 ――『あの交番の近くに、別居してる父親の家があるなあって。それだけよ』
 
 父親にはアリバイがあると言っていた。それなら今回の件には関係ないと考えるのが自然だ。しかし、あの交番の周辺で速見に関係があると思われる場所は、他には特にないらしい。それならば、まだ全く関係ないとは言い切れないのかもしれない。
 父親自身が関わっていないとするならば、一体誰が……?

「草摩君?」
 草摩ははっとして目を瞬いた。気が付くと桐生は間近まで近付き、心配そうに彼の顔を覗きこんでいた。深い色の瞳が優しく和らいでいるのを見て、草摩はほっと息をつく。
「とりあえず、絵音が無理しなきゃいいんだけどな」
「無理をしそうなんですか?」
 桐生が苦笑を浮かべた。草摩はぼりぼりと頭を掻く。
「うーん、結構血が上ってたみたいだったから、ちょっと心配だ」
「そりゃあまあ、実の弟さんのことですから仕方がありませんよ」
「まあな」
 草摩は大きく伸びをし、漏れそうになった欠伸をかみ殺す。
「とりあえず俺、風呂入ってくるわ」
 桐生に背を向けて歩きはじめたところで、
「草摩君!」
 鋭い声が、彼の足を止めた。驚いて振り返った草摩の目に映ったのはいつになく深刻な表情をした桐生。
「桐生……?」
 ふたりの距離はわずか数歩。縮めようとするのだが、何故か足が動かない。桐生のたった一声で、体が緊張で強張ってしまったようだった。

「……手を」
 
 桐生はつぶやくように、言葉を唇の上に載せる。
 
「差し伸べるタイミングを間違ってはいけませんよ。草摩君」

 草摩は眉をひそめた。
「桐生……?」
 どく、どく、と胸郭の中で心臓が鳴り響く。一、二、三、……。草摩は意味もなくそれを数えていた。七十、七十一、……。
 桐生はふ、と微笑を浮かべた。いつも通りの――いや、いつもよりももっと素直で自然な、優しい笑顔。
「君なら大丈夫。大事な人からのSOSを聞き逃すことなど、きっとありませんよ。だから」
 一歩、桐生は距離を縮めた。草摩の強張りが徐々にほどけていく。
「そのときは真っ直ぐに――駆けつけてあげて下さいね」
「…………」
 それはあまりにも漠然としていて、抽象的な表現だった。だが、草摩はしっかりと頷いてみせる。――桐生がなし得なかったこと、その手からこぼれたしあわせ、一瞬で届かないところへ行ってしまった大切な人、後悔にこころを焼き続けた日々。それを、草摩は既に知っているから。
「ありがとな」
 桐生はゆるくうなずいた。
 ふと、草摩は思う。桐生の風呂上りのビールに、今度は自分も付き合ってやってもいいかもしれないな……と。

 その翌日――速見が事件に巻き込まれた日から数えて三日目。事態はまだ、動かない。
 スムーズな動きでエレベータが止まり、絵音は扉からするりと抜け出した。父親の住むこのマンションには一、二度しか来たことがないのだが、彼女はまだ場所を記憶していた。とはいえ、一体何をしに来たのだったかは判然としない。最後に来たのは大学に入学してすぐだったような気がするのだが……。
「父親……か」
 手の中に握りしめていた鍵は、いつの間にか熱を持っていた。形だけ、渡されていた合鍵。使うことなど決してないと思っていたのに……。
 四○二号室。絵音は表札を眺め、目を細める。――雪村孝太郎。彼女の父の名前。父だった人の名前。彼女の母の、夫の名前。夫だった人の名前。正式にはまだ離婚していないが、事実的な婚姻関係は既に解消されているといっていいだろう。彼女がそのことを悲しいと思ったことはない。むしろ遅すぎたと思うほどだ。初子がなかなか決断できなかったのは、やはり子供たちのことがあったせいだろうか。
「でも」
 絵音は鍵を鍵穴に浅く触れさせたまま、小さくつぶやいた。
「私は決して逃れられない。私の遺伝子の半分は、あの人のもの」
 大嫌いな相手と遺伝子の半分を共有しているという、悪夢。――おそらく、桐生ならわかってくれるだろう。その事実がどれほど自分を傷つけるか。そして、誰も責めないにもかかわらず自分ではどうにもならない、決して消えない罪悪感……。それを、絵音はずっと抱えてきた。きっと、速見も同じだろう。はっきりそれと口にしたことはないが、お互いにそれとなく感じ取っていた――彼らは姉弟なのだから。
「…………」
 扉を開けることを躊躇するように、絵音は目を閉じた。その脳裏に、優しい、それでいて厳しい声が響き渡る。

 ――「俺は、探すよ。それが誰かを傷つけることだとしても……真実を明るみに出す」
 
 そう……、もう決めたことだ。自分は、真実を探すと。
 意を決し、絵音は鍵を鍵穴に差し込んだ。ゆっくりと回す。
 ――カチャリ。
 絵音は息を殺し、玄関の扉に滑り込んだ。人気のない薄暗い部屋の中でしばらく佇んでいると、やがて目が慣れてきて――。
 
「……えっ?」

 声が、跳ねる。
 彼女の足元には、見慣れないパンプスがきちんと揃えて置いてあった。それは明らかに父の靴ではなく、女物の……。
「………!!」
 声にならない叫び声を上げ、絵音はあとずさった。背中が扉に強くぶつかり、軋む。絵音は転げるように部屋から飛び出し、背中を壁に預けて口元を両手で押さえた。耳の奥で血流の音が聞こえる。
 ――どういうこと? どうしてあそこにあんなものがあったの? あれは誰のもの?
 頭の中を埋め尽くしていく疑問符。だが、その奥に――既に答えは見えていた。