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Emesis

 それは幼い日の記憶。悪夢にも似た、暗いまぼろし。あの頃、世界は今よりもずっと巨大だった……。
「さあ、パパとお出かけしよう」
 不意の父の申し出を、自分は何の違和感もなく受け入れた。母がいないことを不審がり尋ねてみたものの、曖昧に誤魔化されただけで終わったような気がする。自分自身もさほど深く考えはしなかった。
「何が食べたい? どこに行きたい? そうだ、遊園地に行こうか。ホテルにお泊まりしてもいいよ」
 仕事が忙しくあまり家にいることのなかった父親が、珍しく優しくうながしてくれたのを喜んで、後も見ずに出かけて行った。家に残された者のことなど省みることすらなく――。
 ……一日後、家に戻った自分が目撃したのはベッドの上に力なく横たわっていた母。高熱で意識すら朦朧としていたようだったが、彼女はずっと、うわごとのように自分の名前を呼び続けていたという。
 祖母が忙しく看病に立ち働いている間、自分はただ母の熱い手を握りしめることしかできなかった。
「パパが、遊んでくれたの? 良かったわねえ」
 その言葉を聞いて意味もわからず涙が出た自分の頭を、母は弱々しく笑って優しく撫でてくれた。その瞳は――濡れていたような気がする。決して母は自分を叱らなかった……。
 何故、あの時父は母を放っておいたのだろう。母がもし祖母を呼ぶ体力が残っていなければ、もし祖母に電話がつながらなければ、もし祖母が間に合わなければ……後になって、母は重篤な肺炎に陥る一歩手前の状態だったと聞いた。
 自力では食事も摂れない母を放っておいて、父は子供だけを連れ出したのだ――丸一日も。怒る祖母に向かって、子供に感染させないためだったとか言い訳をしていたようだが、自分は信じていない。母もきっとそうだろう。最も鮮明な記憶はあのときのものだが、似たようなことは何度も起こっていたのだから。父はただ、投げ出しただけだ。母の世話を放棄し、子供である自分を隠れ蓑にして逃げ出した。道具にされたとしか思えない。
 所詮、自分は父にとっての道具だとしても、それは構わない。だが、何故自分はそれに甘んじていたのだろうか。何故、何かおかしいと疑問に思えなかったのだろうか。いくら幼かったからとはいえ、自分があまりにも情けなく、辛かった。
 ――ごめんなさい、母さん。
 結局、その時のことを謝る機会を逃したまま十年以上が経った。今更謝ったところで、という気もする。だが今からでも遅くはないのではないかという期待もある――それはただ、許しを得たいという自己満足に過ぎないのかもしれないけれど。
 
 ――パパ、ママはいっしょじゃないの?
 
 あのとき自分の手を引いて歩いていた父は、今はもういない。そして、自分も母にそれを尋ねることもしない。
 
 ――ママ、パパはいっしょじゃないの?
 
 今後、そう尋ねることはきっとないだろう……。
 
 
 雪村親子の滞在するホテルを訪ねてきた米沢は、初子と一対一で向き合うとややわざとらしく咳払いをしてみせた。
「今日は、娘さんは……?」
「息子の見舞いに行っています。呼び戻した方がよろしいでしょうか?」
「あ、いや」
 携帯電話を取り出そうとする初子を制し、米沢は早口で言った。
「結構です。今日は貴方にお聞きしたいことがあったものですから」
「…………」
 初子は首を傾げた。
「何でしょうか」
「……実は」
 クーラーが効き過ぎるくらい効いているというのに、彼の額はやや汗ばんでいる。
「これは今回のことに関係しているかどうかわからないのですが、確かめておきたいことがありまして」
「少しでも関係がありそうなら、どうか調べていただきたいと思います」
 初子のきっぱりとした口調にうなずき返し、米沢はじっと彼女を見つめた。
「雪村孝太郎氏のことですが、まだ正式な離婚はなさっておられないのですね?」
「え? ……ええ」
 意外な問いだったのか、初子は面食らったように目を瞬かせる。米沢は目を伏せた。手にしている手帳の白い紙面を意味もなく眺めながら、言葉を続ける。
「速見くんの行動を調べるために近辺の聞き込みを続けていたのですが、孝太郎氏に関する興味深い証言があがってきまして」
「あの人に関する……?」
 彼は意を決したように再び顔を上げた。
崎元(さきもと)美帆子(みほこ)。この名前に聞き覚えは?」
「ありません」
 初子の表情が目に見えて強張っていく。しかし米沢は目を逸らさない。
「孝太郎氏の住むマンションで、彼と同居していると思われる女性です」
「…………」
「近隣住民も彼女が朝のゴミ出しや買い物などに出かける姿を見かけています。孝太郎氏と夫婦だと思っていた方も多いようですね。表札には『雪村』としか書いてありませんし……」
「彼が誰と同居していようが構いませんが」
 初子は紙のように白い頬をして小さくつぶやいた。
「それが、速見のことと関係があるのですか?」
 ショックを受けている様子ではあるが、それは決して夫の裏切りに対する悲しみや怒りに由来するものではないだろう。では一体どういった理由なのかということは、米沢には測り知ることができなかった。彼はただ、淡々と事務的に話を進めていく。
「あの夜以来、彼女の居場所がわからないのです。実家が東北の方なのですが、そちらに帰っている様子もない。連絡も取れていない。パート先も、ちょうど速見くんが事件に巻き込まれた日の翌朝から無断欠勤しています」
 米沢の言葉に、初子は目を大きく見開いた。
「速見くんはそんな女性は知らないと言っていますし、関係があるかどうかはわかりません――ですが、ないとも言い切れません」
「サキモト、ミホコ……」
 初子はその名前を無表情に繰り返した。
「サキモトミホコ……」
 米沢はハンカチを取り出して額を拭った。冷たい、べとべととまとわりつくような、気持ちの悪い汗をかいていた。

 病室はしんと静まり返っている。つい三十分ほど前までは姉が来ていたのだが、何やら思いつめたような様子をしていた。彼の様子を心配そうに見舞いながらも、どこかこころの一部は他のところにあるような……。一体何がそんなに気がかりなのかと尋ねたところで、あっさりと答えるような姉ではない。
 ――それに……、今の自分は姉に隠しごとをしている。母にも。
 警察の前でだんまりを決め込むのはさほど難しいことではなかったが、やはり家族を相手にするときが一番弱った。何しろ、姉も母も無口な彼の心中を読むのが何より得意なのだから。
 彼、雪村速見はふと顔を上げた。ブラインドの向こうがまだ午後も早い時間の割に暗く曇っている。もしかすると雨が降るのかもしれない。
「そういえば……『あのとき』って、いつのことだろう」

 ――速見は、「あのとき」のこと覚えてる?
 
 今日、姉は不意に問い掛けてきた。あまりにも漠然とした問いに面食らった彼を見て、姉は困ったように微笑した。――速見はまだ小さかったもんね。覚えてなくても無理ないか。
 いつのことか、と尋ねる彼を曖昧に誤魔化して、姉はそそくさと病室を出てしまった。ゆっくり休んでいなさいよ、という一言を残して。
「……あ」
 ――今日の姉は、自分を問いつめなかった。何故犯人を庇うのか、どうして黙っているのか、いつもならしつこく問いつめてくるのに。そのことに気付いて、速見はこころをざわつかせる。何だろう、もやもやとした不安が立ちこめてくる。姉は一体どうしたというのか……。
 ――とん、とん。
「はい」
 ノックの音に反応して、速見は顔を上げる。ドアの向こうから姿を現した人物は警察ではなく、母でもなく、姉でもなく――。
「あなたは……」
 速見は茫然とつぶやいた。