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Amnesia

 病室から出てきた警察官と医師が、顔を見合わせてため息をついている。待合室で彼らを待っていた雪村母娘は、沈鬱な表情で彼らを出迎えた。
「まだ、何も喋りませんか」
 初子(はつこ)の問いに、警察官はうなずく。
「怪我のほうは?」
 絵音が医師に向かって尋ねると、温和な風貌の彼はことさらに表情を緩めた。
「そちらは心配要りません。だいじょうぶですよ」
「良かった……」
「申し訳ありませんが」
 警察官は初子を睨みつけるように強く見つめる。
「もう一度お話をお聞かせ願えますか」
「……ええ」
 疲れきったようにつぶやく母の横顔を、絵音は心配げに見つめていた。
 

 病院内に設けられた一室で、先ほどの警察官一人と同僚らしい捜査員、初子と絵音、そして医師が顔をつき合わせる。
「あ、すみません」
 メモを取ろうとした絵音を、捜査員がとどめた。
「メモは取らないで下さい。紛失した時に面倒なことになりますので」
「わかりました」
 絵音は素直にうなずき、視線をテーブルの上に固定した。想像上のメモをそこに広げ、文字を記憶に映像として刻み込んでいく。彼女が幼い頃から自然と行ってきた、視覚を用いた記憶法である。
「では、順々にお尋ねします」
 警察官は手帳を広げ、眼鏡越しに彼女らをじっと見つめた。
「お二人に今回のことの心当たりは?」
「ありません。そもそも速見はまだこちらに越して来て間もないのですし、知り合いもそう多くは……」
 初子の答えにうなずくこともなく、次の問いを発する。
「最近何かトラブルに巻き込まれていたという話は? 男女関係も含めて」
「聞いていません。特に変わった様子もありませんでした」
 絵音は母の視線を受け止めてうなずき、補足のために口を開いた。
「一週間ほど前に電話で話したときも、『理系は女性が少なくて彼女を作るのも一苦労だ』などと冗談を言っていたくらいです」
「ふむ……」
 捜査員が言葉を挟む。
「友人にも事情を聞きましたが、皆彼がトラブルにあっていたということは知らないそうです。前日までは何事もなくふつうに生活していたと」
「……そうか」
 警察官はため息をついた。
「実はわからないことだらけなのです。彼の刺された相手、場所、時間――まあ時間の方は大体推定ができますが、それ以外は何も判っていない」
「凶器に指紋はなかったのですか?」
 絵音の問いに、警察官はじろりと彼女を睨んだ。
「お答えできません」
「……そうですか」
 あっさりと引き下がる。初子は娘を心配げに見つめた。
 質問をするのはこちらの方だとばかりに、彼は問い掛ける。
「速見くんの行っていた場所に心当たりは?」
「いえ……あの日はバイトもなかったはずですから……」
「間の悪いことに、彼が搬送された直後に夕立がありましてね。彼のものと思われる血痕はまだ見当たらないのですよ。せめてもの手がかりと思ったのですが……」
 捜査員が困ったように頭をかき、医師が補足する。
「傷の性状などから自分で刺したとは考えられませんので、必ず誰に刺されたはずなのです」
「だいたい」
 警察官は苛立ったように声を荒げた。
「被害者がだんまりとは、どういうことです。聞いたことがない」
「…………」
 初子は苦しげに目を背ける。だが絵音は対照的に目を見開き、頭の中のメモを見つめ続けていた。──忘れるわけにはいかない。これらはすべて、「彼」にあとで推理の材料にしてもらわなければならないのだから……。
「ところで」
 絵音がぽつりとつぶやき、全員の視線が彼女に集まった。
「あなたの名前を教えていただけませんか? 階級も」
 その問いは、警察官に向けられていた。
「……名前は米沢(よねざわ)。警部補です」
 やや顔を引きつらせながらも彼は返答する。警察官は、市民に問われれば氏名と階級を告げねばならない──この若い娘はそのことを知っていたのだろうか、知っていたのだとしたら、何故。
 だが、答えたところで彼に何か差し障りがあるわけではない。米沢は気を取り直して質問を再開した。
「そういえば、お父様はこちらに――東京にいらっしゃるのですよね? 単身赴任ですか?」
「雪村孝太郎(こうたろう)とは」
 初子が固い声で答える。
「別々に住んでおりますし、お互いの連絡も特にはありません。連絡先くらいは把握しておりますけれど」
「……それは失礼」
 やや身を引いた米沢に、捜査員が口を挟んだ。
「雪村孝太郎は三日前からアメリカに出張中です。今回のことは伝えましたが、一週間の予定が終わるまでは帰れないと……言付けが」
「言付け……」
 米沢は思わず怪訝な顔で問い返した。別居中とはいえ、息子が誰ともしれない者に刺されて怪我を負ったのだ。心配ではないのだろうか。いくら仕事が忙しいにせよ、せめて息子の声を一言聞きたいとか……。
 捜査員の顔を見ると、おそらく自分と同じことを思っているのだろう、複雑そうな視線が答えを返してくる。向かいに座る母娘の方に目をやった米沢は、はっと息を飲んだ。
 初子は諦めの色をにじませながらも苛立ったように唇に力を入れて、じっとうつむいている。諦めはきっと夫に対するものだろう。苛立ちは、父としての情をも放棄してしまったかのような、彼の態度に向けてのものかもしれない。
 一方の娘は──。
「…………」
 こんなに冷たく、それでいて荒れ狂うような無表情を、米沢は見たことがない。母と良く似た瞳はほとんど瞬きすらしないでただ遠く前を睨み、頬はまるで石膏でできているかのように白く、堅くこわばっていた。怒りも悲しみも、すべてを内に閉じ込めているのだろう。小さくひび割れればそのまますべてが壊れてしまいそうな、危うい強さが彼女を支えているように見えた。
 米沢は軽く咳払いをしてから、再び口を開いた。
「引き続き、当日の速見くんの目撃情報を探します。お二人も何か思い出したことがあったり、速見くんが何か情報を洩らしたりしたらすぐに我々に教えて下さい」
「……はい。よろしくお願いします」
 返事をしたのは初子だけ。絵音は未だ何かに耐えているかのように、微動だにしなかった。

 その後は特に進展もなく一日が終わり、絵音と初子は滞在中のビジネスホテルへと戻った。
 シャワーを浴びるという初子に軽く声を掛け、絵音はフロントの脇にある公衆電話へと向かう。先ほど売店で購入したテレホンカードを押し込み、既に指が記憶してしまったナンバーを素早くプッシュした。
 何度かコール音が続き、やがてそれが途絶える。
『はい』
「あ……」
 ついこの間聞いたばかりの声なのに、懐かしさで涙腺が緩みそうになる。こみ上げてくる安堵に胸を塞がらせながら、絵音は言葉を絞り出した。
「草摩……今、だいじょうぶ?」
『絵音か。うん、だいじょうぶだよ』
 落ち着いた彼の様子に、絵音はほっと息をつく。この声に包まれている時が、何よりも安心できる――絵音はそれをおそるおそるながら認めた。
 一体草摩の何が特別なのか、絵音にはまだよくわからない。彼らが何度か事件に巻き込まれたとき、確かに彼は非凡な推理力を見せた。だが、それだけではない。冷静でいながら情深く、鋭い切り口で物事をとらえるくせに肝心なところでつき離す。それでも、いつも彼は自分なりの真実と正義でもって世界を見ているような気がした。柔軟な人格と、それを支える強固な信念――価値観。それら一つ一つはさほど特別なこととは思えない。だがそのすべてが草摩という人間を創り上げた結果、絵音にとっての特別な人になる……。
 目を閉じた絵音の脳裏に、草摩の優しい眼差しが浮かんだ。
「そうま」
 その言葉は、彼女の唇からするりと零れ落ちる。
 
「たすけて」

 消灯時間の過ぎた病室は、暗い。
 闇の中で、雪村速見は目を見開いたまま天井を見上げていた。――何か、やり残したことはないかと考える。自分を刺したナイフの柄なら拭っておいたから、指紋は見つからないだろう。血痕で後を辿られはしまいかと心配したが、夕立に救われた。後は通行人に見られていたくらいのことだろうが――それはまあ仕方がない。できれば自分のことを記憶に残さないでいて欲しいものだ。
 ふ、と彼の視線が揺らいだ。
「行かなきゃ良かった……」
 まるでそれは泣き声のように、ぬるくよどんだ個室の空気をかき乱す。
 
 一体自分は何を期待して行ったのだろう。
 今更何を求めていたのだろう。
 
 あの夜のことが、早くなかったことになればいい。そうすればみんな元通りになれる。欠落を埋め合わせて、ようやく見つけたしあわせ――その貴重な日々を、こんなことで喪ってしまう訳にはいかないのだ。
「ごめん――母さん、姉さん」
 決して、本人たちの耳に届いてはいけない謝罪。速見はただ一人きりで、繰り返しつぶやいていた。