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You and I

それとも最後の時には、自分の手で命をたつ勇気があるのだろうか? 神のみぞ知ることだが、私は心配する必要はない。これが私の臨終だからだ。これから後につづくことは、私ではなくほかの人に関係することである。

 桐生の前を歩いていた百合子が、ふと気付いたように足を止めた。いつの間にか彼女は髪を下ろしていて、その直線的な黒髪がやわらかな軌跡を描いて揺れる。
「お連れの方は?」
「え? 草摩君のことですか?」
「そうま……。そうま、と言うのね。彼」
 百合子は何度かつぶやく。彼女は草摩の名前をまだ知らなかったのだろうか、それとも覚えていなかっただけか。桐生は意外そうに眉を上げた。
「草摩君なら少し寄りたいところがあると言っていましたが……」
「そう。じゃあ、待ちましょう」
 屋上へと通じる扉の前、二人は黙って草摩を待った。その沈黙は決して居心地のいいものではなかったが、それを気にしてわざとらしく声をあげるものなど、その場には誰もいない。
 ぱたぱたという足音が聞こえると同時に、草摩が廊下の角を曲がって姿をみせた。
「あ、お待たせ!」
 腕に抱えているのは大量の紙パック。今ここにいるのは三人なのだが、一人あたりのノルマは一体何パックなのだろうか。草摩は古ぼけたソファの上にずらずらとそれらを並べた。すべてコーヒーで、銘柄はさまざまに異なっている。
「桐生の好みはわかるけど貴方はわからないから、とりあえず全部買ってきた。どれにします?」
 草摩は桐生に無糖ブラックのパックを放り、自分のポケットにはカフェラテを詰め込んだ。顔を上げると、百合子は奇妙な顔をして黙り込んでいる。
「もしかして、コーヒー嫌いですか?」
「あ……いえ……そういうわけじゃ……」
 大きな目を瞬かせる、そこに先ほどまでの涙の痕はない。――草摩はそれを確認すると、少しだけ微笑んでみせた。
「落ち着いたみたいですね。じゃあこれは要らないかな?」
「え?」
 百合子はとっさに聞き返し、すぐに草摩の言った意味を悟ってはっと顔を上げた。先ほど自分が見せた涙。この少年はそれを気にして、彼女の気持ちを落ち着けるためにわざわざこれらを買ってきてくれたのだというのか。
 この少年は、たぶんあの事件――葉子の死の真相を知っている。桐生の同居人だということだし、警察関係者とも懇意らしい。それなら、自分は妹を殺した殺人犯だ。こんな風に気遣われる理由なんてない。優しくしてもらえる資格などないのに……。
「いい子でしょう、草摩君は」
 桐生の声に、百合子ははっと意識を引き戻された。いつの間にか桐生はストローをパックにつきさし、ちゅうちゅうと間抜けな音を立てながらコーヒーを飲んでいる。
「何せ、僕の自慢の――」
 言い掛けて、首を傾げた。
「……嫁?」
「違うだろ嫁ってのは自分の息子の配偶者を指すんだし」
「そういう問題かしら」
 思わずつっこんでしまった百合子に、草摩はずいと一つのパックを押し遣る。
「選べないならこれ、どうぞ。俺の好きなやつなんだ」
「あ、気を付けないときっとそれすごく甘いですよ。草摩君は甘党ですから」
「パックのコーヒーの無糖なんてまずいだけだろ。ブラックコーヒーはやっぱりちゃんといれたやつでないと飲めないって」
「僕、草摩君がブラックコーヒー飲んでるの見たことありませんけどねえ」
「そりゃたまたまだ」
「……ふ、」
 百合子は思わず笑みをもらした。草摩の手からパックを受け取り、ストローを差してごくごくと飲み干す。ミルクのなめらかさと程よい糖分が体をじんわりと和ませた。
「美味しいわ」
「ほら見ろ」
 威張る草摩を、百合子は微笑んで見つめた。
「まるで兄弟みたいね」
「うーん、こう見えても一回り以上違うんだけどなー」
「……私も」
 彼女の声音が、変わった。草摩と桐生ははっと表情を引き締める。
「私も、そんな風な姉妹でいたかったわ」
 百合子の手を離れた空っぽの紙パックは、綺麗な放物線を描いてごみ箱に飛び込んでいった。彼女はそれを目で追うこともせず、扉を開けて屋上へと踏み出す。桐生と草摩は一瞬だけ顔を見合わせて、彼女の背中を追った。
 
 
「私、葉子が大好きだったの」
 冷たい風に煽られ、長い髪がたなびく。むき出しの肩が寒そうに見えたが、彼女は特に気にもしていないようだった。
「優しくて、慎ましやかで、大人しくて、繊細で……私の欲しかったものを全部持っていたわ。私にはないものを、全部」
 赤く塗られた唇が、引きつれたように歪む。
「私は生まれながらにしてちょっといびつな子供だったみたい。私は私が嫌いでならなくて、いつ死んだっていいと思っていた……だから」
 ――私、葉子になりたいと思っていたくらいなのよ。
 振り向いた彼女は、悲しげに笑っていた。
「確かに目立つのは私の方だった。勉強も運動も、私の方が良くできた。でもそんなこと、私にとっては何の意味もなかったの。私がいい点をとったら、私が運動会で一番だったら葉子が喜んでくれたから……葉子が私を自慢の姉だと思ってくれることが嬉しくて嬉しくて、頑張った。ただそれだけ」
 ――良かったね、おねえちゃん。すごいね! ……百合子の脳裏に、残響のように響く幼い声。
 草摩はただ黙って百合子を見つめている。桐生の視線は眼鏡に遮られて、百合子には良く見えなかった。
「私たちはずっと一緒だったけれど、別々の大学に入って……やがて、私たちにはそれぞれ好きな人ができた。私のことは、もう知っているわね? 葉子は――吾妻慎二と、付き合うようになった」
 吾妻慎二。その名を口にした時、百合子の顔は醜く歪んだ。
「それからというもの……葉子はいつだって泣いていたわ。あの男は最低だった。浮気なんか当たり前、約束なんて守らないのが当然……。葉子と付き合ったのも、自分の母親が目を掛けている女だったから何かと便利だった、それだけのことだったんだと思う。あの子には言えなかったけれど、私にはわかった。それでも、葉子はあの男が好きだったのね。どんなにひどくされても、辛く当たられても、離れることはできなかった……」
 百合子はふと視線を空に向けた。曇っているのか、星一つない闇夜。今にも彼女を押し潰してしまいそうだった。
「自分がそんな状態だったのに、葉子は私があの人にふられたと聞いて、ひどく憤慨したわ。『姉さんをふる男なんて、見る目がない』って。……そんなこと、ないのに」
「貴方は……もしかして」
 草摩はぽつりとつぶやいた。
「あの時、本当は自分で死ぬつもりだったのですか……?」
「…………」
 百合子は答えない。
「目的は確かにあの二人への嫌がらせだったのかもしれない。けれど、貴方は妹さんを身代わりに使うつもりなんてなかったのでは? ただ、貴方は妹さんに協力してもらおうと思っただけだったのではないですか? 貴方とそっくりの妹さんなら、怪しまれずに楽屋に出入りできるでしょうから」
「…………」
「妹さんは吾妻慎二との関係に悩んでいた。それで、自分から……」
「――さあ、どうだったかしら」
 百合子はぽつりとつぶやいた。
「どちらでもいいことだわ。結局は私が葉子を殺したんだから」
「…………」
「だけど、『葉子』という人間をあそこで終わらせたくなかった。『百合子』には未練はなかったし……私はすべてを捨てて、『葉子』のために生きなければならないと思った。『葉子』の代わりにはなれないけれど、せめて彼女の遺したものを無にはしたくなかったから」
「……なるほど」
 桐生の淡々とした声が百合子の言葉を遮った。
「貴方は妹を苦しめた吾妻慎二に復讐したかった。そういうことですか」
「……ありていに言えば、そうね」
 百合子は穏やかに微笑んだ。
「あれはれっきとした殺人未遂だもの。逮捕されるに違いないわ」
「唆したのは、貴方でしょう?」
「その証拠は? ないでしょう」
 百合子は声を上げて笑った。澄んだ、綺麗な声。
「あの男、私に恋したんだって――目の前で携帯電話の中に入っていた女の連絡先を全部消去したわ。馬鹿みたいでしょう? 葉子のことはあんなに泣かせていたのに。私が欲しいんだって。自分のものにしたいんだって。邪魔をする母親を殺したいと思うくらいに!」
 張り付いたような笑顔の中で、彼女の瞳だけがぎらぎらとした光を放っていた。
「赦せなかったわ。あの男だけは、絶対に赦せなかった」
「吾妻春枝さんは?」
 草摩の鋭い声に、百合子は目を細めて表情を消した。
「あの男は先生の息子よ。教え子に手を出すことを黙認していたのは先生の落ち度だわ」
「でも、死なせるつもりはなかったのでしょう?」
 桐生はため息混じりに言葉を吐き出す。

「貴方が僕らを呼んだのは、彼女の命を救うためだ」

「…………」
「最初、僕は貴方が吾妻春枝を死なせたいのだと思った。正体に気付かれ、口を封じたいのだろうと。でも、それじゃあ僕らにわざわざコンタクトを取った意味がない」
 百合子はただ黙って桐生を見ている。
「貴方は、吾妻慎二に低血糖発作を利用して母を亡きものにする方法を教えた。持ち歩いているブドウ糖錠剤は、あらかじめバッグから抜いておくなり何なりしたのでしょう。そうすれば彼女は低血糖状態のまま救急隊員が来るまで耐えなくてはならない。助かるか、命を落とすか、脳に障害が残るか――ふつう低血糖発作だけで命を落とすことはないのですが、人為的に大量の速効性インスリンを注射すれば、これはかなり危険です」
 桐生が一歩進み出た。今まで見えなかった彼の視線がまっすぐに百合子を射る。
「貴方は僕らに自分を疑わせて――そして念のためにとブドウ糖錠剤か何かを持って来ることを期待した。何しろ貴方は元医学生ですし、僕はこれでも現役の医師ですからね」
「…………」
「なあ、あの車椅子の転落は――」
 草摩の問いに、百合子は首を横に振った。
「信じてくれるかどうかはわからないけれど、あれは本当に事故よ。本来は私が気付いて大声をあげるはずだったの。先生の様子がおかしいって」
「……そりゃあ、貴方の計画では吾妻春枝はちゃんと意識を取り戻さなければなりませんからね。そして息子の犯罪を証言してもらわなければならない」
「そうよ」
 無表情だった百合子の口元に、笑みが戻った。
「あの男には、破滅してもらわなきゃならないの。絶対に、ね」
「…………」

 ――わたしのジキルに餞を。

 ジキルとは葉子。餞とは吾妻慎二の破滅。

「知っていますか、百合子さん」
 桐生はのんびりとした調子で声を掛けた。
「ジキルはハイドを憎みながらも愛していた。でも、ハイドはジキルのことなんてどうでも良かったんですよ」
「……え?」
 百合子は怪訝そうな顔で眉を寄せる。
「葉子さんが何を思って死んでいったのかはわかりません。貴方たちの間でどのような話がされていたのか……本当にあの時葉子さんが死ぬはずだったのか、未遂で終わらせるはずだったのか。貴方が葉子さんを騙したのか、葉子さんが貴方を騙したのか。何もわかりません」
 ――けれど、
「貴方はどちらかというと――馬鹿なジキルのように思えますけれどね」
「…………」
「僕は以前言いました」

 ――貴方は、貴方の人生から逃げた。それだけですよ。
 
「でも、本当に逃げたのは、誰だったのでしょうね?」
「……葉子は悪くないの」
 百合子はつぶやいた。
「葉子は、本当につらい思いをしていたのよ。ずっと、死んでしまおうとまで思いつめていた。でも、ただ死ぬよりは姉さんに協力したいって……そんなこと言ってくれる妹を、どうして突き離せて? 知らないところで一人死ぬよりは、……せめて、私が……」
 ――ずい。
 白く曇った視界に、何か大きなものがいっぱいに広がった。
「コーヒーは、まだまだいっぱいありますよ」
 草摩の声。百合子は瞬き、涙の粒が二三滴、頬の上を滑り落ちていった。
「そうま……さん……?」
 草摩の手が百合子に紙パックを押し付ける。そして、草摩はつぶやくように言った。
「俺は、やっぱり貴方みたいな考え方って嫌いだ。自分は死んでもいいとか、自分は歪だからとか、罪深いとか、何たらかんたら……昔どっかの根暗な外科医も似たようなことでうじうじ悩んでたっけか。あほくさい」
「……あの、草摩君?」
 草摩は桐生を無視した。
「貴方のやった復讐は、趣味が悪いし馬鹿げてる。……でも」
 草摩の瞳が、百合子を真っ直ぐに射た。
「貴方の妹も、貴方とそっくりだよ」
 ――姉をこんなにも泣かせて、何がいい妹なのだろう。結局は姉を口実にした自殺ではないか。遺された姉がどんな想いをするか、想像すらしなかったというのだろうか。そんな妹が優しくていい子だって? 馬鹿馬鹿しい。
「貴方たちはどっちがジキルでもハイドでもない。貴方たちは両方がジキル――ハイドに心惹かれて道を踏み外した、哀れな道化」
「葉子が……?」
 ぽつりと呟く百合子に、草摩は言葉を重ねた。
「本当に葉子さんは貴方を自慢の姉だと思っていたのかな。もしかしたら鼻につく相手だったかもしれませんよ。自分よりも目立って、勉強ができて、スポーツができて……俺だったらかなり嫌です。嫉妬します」
「葉子は、そんなこと」
 百合子の反論を手の一振りで蹴散らし、
「ま、人間の心の奥底なんてわかりませんけど。……葉子さん自身、わかっていなかったかもしれませんしね」
「…………」
 百合子はしばらく沈黙し、やがてすっと顔を上げた。笑みというのではない、しかしそれは決して無表情ではない、ただ穏やかで静かな表情だった。
「ねえ草摩さん? 私と葉子はよく言っていたわ――『私たち、本当は二人で一つだったのかもしれないね』って。『間違えて二人の人間になってしまったけれど、本当は一人の人間として生まれてくるはずだったのかもね』って」
 胸元をその白い手でそっと押さえて、
「こんな形だけれど、私たちはやっと一人の人間になれたんだわ……」
「…………」
 百合子は草摩に渡されたパックを開け、ストローを使わずにごくごくと飲み干した。嚥下のたびに動く白い喉。草摩はただそこを、ぼうっと眺めていた。
「草摩君、僕にもカフェラテ下さい」
 桐生の声に、草摩は振り返る。やや白んできた空を背後に背負って、桐生はいつものようににこにこと笑っていた。

 ――私も、そんな風な姉妹でいたかったわ。
 
「甘いぜ?」
「いいんです。今は甘いものが欲しい気分なんで」
「そ」
 ポケットに突っ込んだままだったカフェラテを、ぽい、と桐生の方に向かって放り投げる。パックは放物線を描いて飛び、桐生の大きな手の中にすっぽりとおさまった。

 姉の身代わりに死んだ妹。
 妹の復讐をしようとした姉。
 母を殺そうとした息子。
 
「アンビバレンツ、ですかね」
 まるで心を読んだかのように、草摩の隣で桐生がつぶやいた。
「愛情と憎しみは表裏一体。意外と差はないということでしょうか」

 ――愛も憎しみも、執着が形を変えただけ。思っているほど、違いなんてないんですよ。
 
「俺には、わからない……」
 搾り出すように呻いた草摩の耳に、ちゅうちゅうという音が届く。振り向かなくてもそれは桐生の立てるストローの音だとわかった。
「馬鹿……」
 草摩はまるで泣き笑いのように顔をゆがめた。