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Teacher and Student

しかし私は、どんな悪党でも持っている誘惑のあいだをしっかりと歩きつづけるバランスをとる本能を、すべて自らなくしてしまった。だから私はどんなにささやかな誘惑でも、それに負けてしまったのである。

 細めた唇から吐き出す紫煙が視界を曇らせる。吾妻春枝はその向こう側の光景を、目を細めて見つめていた。半ば閉ざされたカーテンから飛び込む夜景はさほどきらびやかなものではない。先日まで滞在していたO市とは違って、K市は条例によって高層の建造物を建てることができないせいだろう。
「ふう……」
 春枝はため息をつき、目を閉じた。
 ──貴方、本当に葉子ちゃん?
 そう尋ねたときの彼女の……そう、「冴木葉子」であるはずの彼女の、そのときの表情。春枝が葉子を教えるようになって数年が経つが、その間一度も見たことがない顔だった。何だろう、あれは……まるで自分にとっては取るに足りないものに向ける、憐憫の笑みのような……そう、まさに邪な聖母のような。
 ──先生。私と姉は一卵性双生児だったんですよ。だから、死んだ姉が私に乗り移って、それでちょっと人が変わってしまったのかもしれません。
 あまりにも大真面目に言われたものだから、春枝は言い返すことすらできなかった。
 彼女の音楽が変わったのも、そのせいなのだろうか。繊細な情感はそのままだが、かつてのような慎ましやかさは陰を潜め、灼けつくような熱が音を覆っている。かつて春枝は葉子の音楽を内向的だと評した。自分の感情を自分のために表現している、自分に聞かせるための音楽だと。今は違う。聞く者の奥深くまで侵食する音──こころを探られているような不快感と、圧倒的なものに魂を奪い取られる快感。今の葉子の音楽が熱狂的にもてはやされる理由はそれだろう。誰もが彼女の音楽に呑み込まれる。誰もが彼女を拒めない……。
「まるで宗教だわね」
 春枝がつぶやいたとき、ホテルのドアを叩く音がした。客の正体はわかっている。先ほどフロントから案内があったばかりだし、そもそも呼び出したのは彼女の方だ。春枝は急いで煙草を消した。
「どうぞ」
 電動車椅子を動かすのも慣れたものである。春枝がドアを開けると、来客は丁寧に頭を下げた。
「遅くなってすみません。……はじめまして、桐生千影と申します」

 備え付けのティセットを取り出そうとした春枝をとどめ、桐生はそれを使って紅茶を入れた。小さなテーブルの上にふたつのカップを並べ、桐生は笑顔を見せる。
「上手くいれられたかはわかりませんが……どうぞ」
「ありがとう」
 桐生千影。息子よりは少し年上だろうか……春枝は思わず洩れそうになったため息をかみ殺した。自身の息子のことは懸案事項だが、まあ今はいい。
「ごめんなさいね、突然呼び出したりして」
「いいえ。……よく僕の連絡先がおわかりになりましたね?」
「『先生』なんて呼ばれる職業を長くやっているとね、勝手に人脈のようなものができあがっていくんですよ。……貴方だってそうでしょう? 桐生先生」
「桐生、で構いません。病院内ならともかく、その他の場所であまり先生と呼ばれるのは好きではないので」
「……わかりました」
 春枝はカップに口をつけた。
「僕にお聞きになりたいことがあるとか」
 ――気が付くと、桐生は真顔になっていた。笑みを剥ぎ取ったその端正な顔はひどく鋭利で、春枝は思わず息を呑む。
「え――ええ」
 気を取り直すように軽く咳払いをし、春枝はじっと桐生を見つめた。
「貴方は、葉子のお姉さまがお亡くなりになった時、その現場にいらっしゃったとか」
「ええ」
「救急車に同乗しておられたとも聞いています」
「…………」
 桐生は少し驚いたように瞬きをした。
「本当に大した人脈ですね?」
「ええ、まあ」
 それにしてもホテルの照明というものはもう少し明るくならないものだろうか。視力に衰えを感じている春枝には、桐生の表情が良く見えない。ただ彼の着る白いシャツの上に落ちた、くっきりとした陰影だけがはっきりと見えていた。
「あのとき、何か、ありませんでしたか」
「え?」
 春枝の漠然とした質問に、桐生は困ったように聞き返した。
「何か、とは……」
「その――たぶん、葉子も病院に行っていたのだと思うのですけれど」
「ええ、でも僕は葉子さんとは特にお話をしていませんし」
「何か変わったこととか……」
「…………」
 桐生は少し目を伏せていたようだったが、やがてふ、と顔をあげた。
「お心当たりがあるのでしたら、おっしゃっていただければありがたいのですが」
「…………」
 春枝は迷う。だが、心を決めるまでに長くは掛からなかった。
「葉子は、あれ以来人が変わったように思えるのです。今の葉子とかつての葉子は別人なのではないか――と思うほどに」
「…………」
 桐生は目を細めていた。春枝はごくりと唾を飲む。息子のような年齢のこの男に、何か圧倒されているような気分さえ味わっていた。――まるで、今の葉子の音楽に相対した時のような……。
「彼女のご両親にはご相談されなかったのですか?」
「しましたよ、もちろん。でも……かなりご傷心の様子でしたし、あまりつっこんだことは聞き辛かったのです」
 むしろ、葉子の中に百合子に似たところを探しているようですらあった。もし葉子が言うように百合子が彼女に乗り移ったのだと聞いたら、きっと彼らはひどく喜んだことだろう。それは春枝には違和感のある感情だが、所詮他人のことだ。実際に自分がその状況に置かれてどう感じるかは、想像することすら難しい。
「ねえ桐生さん。そんなことってあるのでしょうか……その、双子の片方が死んでしまって、遺された方がいなくなった分の性格に似るというような、そんなことって……」
「…………」
 桐生は首をひねった。
「僕の知る限りでは聞いたことがありませんが……ないとは断言できませんね」
「そう、ですか……」
「僕からお聞きしても構いませんか?」
「え、ええ」
 わずかながら身を引く春枝に、桐生は安心させるためか柔らかな笑みを浮かべた。
「貴方は今の葉子さんに、昔の葉子さんと変わらない、もしくは昔の葉子さんらしいところを見出されますか?」
「……葉子らしい、ところ……?」
 春枝はつぶやいた。何度もその言葉を唇の上に上らせる。そうしている彼女を、桐生が深い色の眼差しでじっと見守っていた。
「…………」
 簡単な問いのはずだった。それに答えることは決して難しくはない。それなのに、春枝はそれを口にすることができなかった。
「桐生さん」
 代わりに口をついて出てきたのは、自分でも呆れるほどに震える声。
「貴方、何をご存知なの……?」
「…………」
「何か、ご存知なんでしょう?!」
「……吾妻先生」
 低く、静かな声が春枝を呼んだ。彼女はびくりと体を震わせる。
「貴方は、一体葉子さんに何をお望みですか」
「え……?」
「貴方の教え子である彼女は、今成功を手中に収めている。このまま彼女を見守っていくのも、また良いものではありませんか?」
「……私の、教え子?」
 ――本当に? 春枝は眉を寄せる。あんなふうな弾き方を彼女は教えたことがあっただろうか。だが、葉子の手つきは見慣れたものだ。指の形も、爪の色も、彼女の良く知る葉子のものだ。
 一体自分はどうしてしまったというのか……。
「世の中には不思議なこともあるんだなあ、と。そういうことにしておきませんか」
 不意に、桐生の口調が変わった。春枝は顔を上げる。桐生は人好きのする朗らかな笑みを浮かべていた。
「ね? 先生」
「…………」
「あの、同居人も心配しますから、そろそろお暇しようかと思うのですけれど」
 春枝は部屋の時計を見て目を見開いた。あと一時間で日付が変わってしまう。
「ごめんなさい。遅くまでお引き止めして」
「いえ、仕事が長引いてお約束の時間を遅らせていただいたのは、僕のほうですから」
 桐生は立ち上がり、椅子の背に掛けていたジャケットを手にした。
「週末のコンサート、楽しみにしています」
「あら、チケットをお持ちで……?」
「ええ。知人が譲ってくれまして」
 桐生は言葉少なに答え、春枝に会釈した。
「そのままで結構です。ドアはオートロックでしょう? 紅茶、ご馳走様でした」
「いいえ。とんでもありません」
「それでは、失礼致します」
「おやすみなさいませ」
 ドアが閉まり、鍵が掛かる。
「…………」
 春枝は再び煙草を手にしていた。
 ――世の中には不思議なこともあるんだなあ、と。そういうことにしておきませんか。
 あの桐生の言葉は、到底納得できるものではない。しかし何故かあれ以上追求する気が起きなかった。一体何故だろう……。
「ふう……」
 春枝は軽く頭を振り、まだ点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。――そういえば、葉子は私が煙草を吸うと体に良くないと止めたっけ。
「でも……今のあの子は、何も言わない……」
 春枝のつぶやきは、灰皿から上る煙の中に溶けていった。

 ――桐生はホテルを出ると、タクシーに乗った。自宅までの簡単な道のりを指示し、後部座席に深く背を埋める。
「彼女は貴方の手に負える相手じゃないと思いますよ」
 運転手にすら聞こえないように、桐生は小さくつぶやく。
 ――これ以上彼女が深追いすると、とんでもないことになるかもしれない。そう思って桐生は眉をしかめた。自分の嫌な予感は大抵良く当たる。母を亡くした日も、父がいなくなった日も、そして恩人が命を落とした日も。
 そんな自分を、草摩なら笑い飛ばしてくれそうな気がした。馬鹿馬鹿しい、そんなの後から思い返してそう思い込んでいるだけだよ――と。この嫌な予感ごと吹き飛ばして欲しい。桐生はそう思いながら、窓を流れていく光を目で追っていた。