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SHE and she

「それで」その男は言った。「残っていることを片付けよう、わかるかい? それとも教えようか? 私がこの容器を手に持ってこれ以上話をせずに、この家から出て行くのを見守るかい? それとも好奇心が押さえきれないかな? 考えてから返事をしたまえ、その通りにするから。決心次第では、そのままにしておいてやるよ。とはいっても豊かになるわけでも、賢くなるわけでもないが、絶望の淵に落ちた男を救い出したということが魂を豊かにするかもしれないな」

 背後で重い扉が閉じる音がした。
 吾妻慎二は振り返ることもなくふらふらと歩み出る。おぼつかない足取りではあったが、少しもためらうことなく前へ前へと進んで行く。
 後戻りはしたくない。冷たい床はもう十分だ。一泊に過ぎない警察署での逗留だったが、慎二の精神的な疲労はピークに達していた。
「…………」
 道路脇に止まっていた車のミラーに映る自分はぞっとするほど虚ろな目をしている。顎を触れるとちくちくと髭が指先を刺した。
「吾妻さん」
 ぼんやりと見ていた車の窓が突然開き、慎二はぎょっと足を止めた。中から顔を出しているのは――。
「病院までお送りしますよ」
 慎二は顔をしかめて素通りすることに決めた。確かに今から母の入院している病院に向かうつもりではあるが、この車には乗りたくない。――桐生千影の運転する、この車には。
 桐生は慎二の横顔を見上げてくすりと笑った。
「お迎えを寄越したのは貴方のお母様ですよ?」
「……え?」
 慎二は足を止めて桐生を見下ろした。
「乗りませんか?」
「……どうもすみません」
 慎二はため息をつき、後部座席の扉を開ける。さすがに助手席に座るつもりにはなれなかった。
 桐生は車を発進させる。急激な加速に慎二はわずかに顔を引きつらせた。――顔に似合わず強引な運転をする男らしい。
「…………」
 車内は沈黙で満たされている。それをわずかにかき乱すのが、音量のしぼられた洋楽らしき音楽だった。慎二には馴染みのないジャンルである。
「今後どうなさるんです?」
 桐生が口を開き、慎二は視線を窓の外に逸らした。
「……さあ」
「お母様が庇って下さったおかげで助かりましたね」
 桐生の口調はいたってのんきだった。
「『自分で間違えてインスリンを大量に注射してしまった』のだと……事故だと主張なさったおかげで、貴方はこうやって出て来られた」
「…………」
 慎二は口を噤んでいる。唇が乾燥して、上下がぴったりと貼りついているのではないかと思うほどだ。
「慎重に貴方を追い詰めたはずの『彼女』も、一つだけ読み違えてしまったんですねえ」
 ――「彼女」。その言葉に、慎二は顔を上げた。バックミラーを見上げると、桐生は前をじっと見つめて視線を少しも揺らしていない。その唇にはゆるい笑みが載っている。
「吾妻春枝さんは『母親』なのだということを、『彼女』は忘れていた」
「……母親……」
 慎二は鸚鵡返しにつぶやく。
 ――なぜ母は自分を庇ったのだろう。母を殺そうとした、それも女のために母を殺そうとした自分を、どうして。
自分が殺そうとした母は自分を庇い、自分が愛したはずの女は自分を陥れた。
「ショックでしたか? 『彼女』に裏切られたことは」
「…………」
「まあでも良くあることですよね、裏切ったり裏切られたり……所詮他人ですし。貴方は随分モテそうだから、今までたくさんの女の子たちを泣かせてきたでしょう? 罪作りだなあ」
「…………」
 ――それは貴方だって同じではないのか、そう思ったものの慎二は何も言わなかった。頭が重くて何も考えられない。ただ今は泥のように眠りたかった。それだけだ。
 だが、桐生はそうすることすら慎二に許してはくれなかった。
「裏切る方と裏切られる方。今度は貴方が裏切られる番だった。ただそれだけのことです」
 桐生はくるくるとハンドルを回し、素早く駐車場の空きスペースにに車を止めた。いつの間にか病院に到着していたらしい。慎二はのろのろと礼を言い、車のドアを開ける。
「……『彼女』は今、どこに?」
 立ち去ろうとした慎二はふと気が付いて振り向いた。桐生は先ほどと同じように運転席から慎二を見上げる。その顔を彩る微笑が、わずかに異質なものへと変化した。何かを哀れむような、遠くの記憶を懐かしむような……静かで遠い眼差し。
「さあ……僕は知りません」
「…………」
 再び彼に背を向けた慎二に、桐生の声が飛んだ。
「そうそう、言い忘れていました。――貴方のお母さんは僕に迎えなど頼んでいませんよ」
「え?!」
 振り返る慎二の目の前で車は静かに発進する。慎二は呆気に取られてそれを見送った……。
 
 
 次に車が止まったのはとあるファミリーレストランの駐車場だった。桐生は足早に店内に入り、辺りを見回す。目当ての相手はすぐに見つかった。
「桐生、おせえよ!」
「ちょっと、草摩声大きい」
「お待たせしてすみません、絵音さん」
「俺は?!」
「はいはい草摩君も」
 笑いながら桐生は草摩の隣に座り、ウェイトレスにコーヒーを注文した。草摩の前には約半分に体積を減らした抹茶パフェがあり、絵音の前にはベリーソースのかかったパンケーキが半円になった姿をさらしている。
「それで、どうだった?」
 草摩が真面目な顔になり桐生を覗き込んだ。桐生は軽く咳払いをする。
「吾妻慎二のこと?」
 絵音が音量を落として確認するように草摩に問い掛けた。彼は小さく頷く。
「どう……とも言えないですね。まあ今更もう一度母親を襲うようなこともないと思いますけれど。そこまでの度胸と覚悟は、彼にはないでしょう」
「ふうん」
 草摩は冷めた瞳で溶けかけた抹茶アイスを眺めていた。
「でも……」
 絵音はぽつりとつぶやく。
「それだとあの人の願いは叶わなかったということなのね」
「……そうですね」
 桐生の前にコーヒーがとん、と置かれて、修正された伝票が残された。三人の間に落ちる沈黙。
 ――それを打ち破ったのは、草摩だった。
「まあ、あの人の言ってたことが真実だとも限らないけどな。死人に口なし。妹さんから話を聞くことはもうできない……」
「それはそうだけど……。でも、草摩はどう思うの?」
「…………」
 草摩は少し押し黙った。

 ――「この後、どうするんですか?」
 桐生に問われて振り向いた百合子は、少しだけ微笑んだ。わずかに白み始めた空の下で、まるでそのまま溶けて消えてしまいそうな、それは儚い微笑みだった。
「しばらく留学でもしようかしら? どちらにせよ先生とは訣別する。お互いにとってそれがいいと思う。……先生の中の葉子の記憶を、私で塗り替えてしまいたくはないの」
「そうですか……」
「以前、貴方はおっしゃったわね」
 百合子はじっと桐生を見つめる。
 
 ――貴方はもう、冴木百合子には戻れない。

 ――貴方は他人の、本来冴木葉子のものであった人生を生きていく以外に道はない。
 
 ――貴方は一生下らない茶番を続けていくしかない。
 
「私の答えは覚えておられますか?」
「ええ」
 桐生はすらすらと答えて見せた。
「『茶番ではない人生が、この世にあるとでも思っていらっしゃるのですか?』でしたっけ」
「そのとおり」
 百合子はまるであの時のように妖しく笑う。
「では、もう一度お聞きします。茶番ではない人生が、この世には本当にあるのでしょうか?」

 ――茶番だと、百合子はそう言う。
 妹が死んだこと、
 自分が妹として生きていかなければならないこと、
 妹を泣かせていた男に言い寄られたこと、
 もしかしたら自分を葉子だと思い込んでいる両親たちのことすらも――。

「茶番なんかじゃない」
 答えたのは、草摩だった。
「人生は茶番なんかじゃない」
「そうかしら」
「そうです」
 草摩は強い眼差しで百合子を見つめる。
「どうしてそう言えるの?」
「……貴方が冴木葉子と名乗ろうが冴木百合子と名乗ろうが、そんなことはたいしたことじゃないんです。貴方は、生まれてから死ぬまで貴方だから」
 草摩はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そして貴方は、貴方以外のものにはなれない。貴方は貴方に根ざしたもので、そして貴方は貴方から離れることはできない」
「……つまり?」
 百合子は無表情に先を促す。草摩は落ち着き払った口調で淡々と先を続けた。
「貴方の『意識』は貴方の『存在』を超えられない。貴方の『存在』は貴方の『意識』よりも上位にあるんです。なぜなら、貴方の『存在』を作り上げるのは貴方だけではないから――貴方の関わった人、見聞きしたもの、すべてが貴方という『存在』に影響を与えて、変化をもたらす。貴方は貴方の『意識』が自覚するよりもずっと多くことを経験している。――だから」
 桐生は黙って草摩の横顔を見つめていた。わずかに目を眇めた横顔は、夜闇の中でもはっきりと浮かび上がって見える。
「もし貴方が人生を茶番だと感じるのなら――ちゃちな、ちっぽけなものとしか思えないのなら、それは貴方が自分の『意識』にしか目を向けていないからです。『意識』が閉じこもっているから、すべては貴方の手の内にあるように錯覚してしまう。貴方は周囲の環境を過小評価し過ぎている、もしくは目を背けて逃げている。もし貴方が外に目を向けたなら、茶番だなどという言葉は出てこないはず」
「…………」
「確かに、この間のふたりは――名前は忘れましたけれど、彼らは貴方の思惑通りに動いてくれたかもしれない。けれど、それはただの偶然に過ぎない」
「今回だって上手くいくわ。吾妻慎二は破滅する」
 眦をあげた百合子に、草摩は静かに答えた。
「さあ、それはどうでしょう……。確かに今は一時的に破滅するかもしれない。それでも、未来は誰にもわかりません。未来は、底の割れた茶番などではないからです。貴方一人にどうこうできるものじゃない」
「…………」
「百合子さん」
 桐生が静かに口を開き、百合子は草摩を睨みつけていた視線を彼に移動させた。
「人生が貴方にとって茶番だというのなら、妹さんの死は一体何なのですか?」
「…………」
 百合子はふ、と笑みを浮かべた。
「妹は私が殺した。そして私は妹に成り代わった……それでいいの。『冴木葉子』という人間は消えない。ただ、演者が代わっただけ」
「つまり――」
 桐生はゆっくりと口を開いた。
「貴方が殺したのは『冴木百合子』という名の役柄だと、そう言いたいのですね」
「そうよ」
「貴方がそんなにも名前にこだわるのは――ああ、そうか」
 草摩の瞳が朝靄の中で輝いた。
「貴方たち双子はいつも名前で区別をつけられてきた、その名残かな。誰もが貴方たちを『名前』という記号で認識してきた……だから、自己の同一性についての意識が非常に希薄になってしまった。違いますか?」
「…………」
 百合子は少しだけ息を呑んだようだった。やがて、声を立ててくすくすと笑う。
「貴方は面白い人ね、草摩さん」
「それはどうも」
 彼女は大きく息をつき、微笑む。
「私、そろそろ行かなくちゃ。コーヒーをごちそうさま」
「どこへ?」
「先生のところに戻るのよ。先生の証言を聞いておかなくちゃ」
 横顔がちらりと見える。その時の瞳は復讐への期待にぎらついていた――。
「この目で見届けたいの。吾妻慎二を破滅させることは、『冴木百合子』の最後の仕事だから……」
 
 
 草摩はぱり、とウエハースをかじった。
「……ま、その復讐とやらは失敗しちゃったけどな。吾妻春枝は息子を庇ったわけだから」
「そうね……」
 絵音はフォークを置いた。まだ四分の一ほどパンケーキが残っているが、もう食べるつもりはないのかもしれない。
 彼女は気付いたのだろうか。人生は茶番などではないということ。彼女の意のままになることなど、実際のところは何一つないということ……いや、一つだけあるとすれば、それは「冴木百合子」という、彼女自身。だがそれすらも既に彼女は捨て去ってしまった……。
「彼女は……昔の僕と少し似ていますね」
 桐生は小さくつぶやいた。
 ――母を間接的にではあっても死なせた父を許せなくて、死に追いやった自分……。自分にとっての母が百合子にとっての妹であり、父は吾妻慎二だったのだろう。
 自分はその復讐に成功した。成功してしまった……それが長い悪夢の始まりだとも知らずに。

 折りしも、店内にピアノの旋律が流れ始めた。喧騒に掻き消されることもなく響く音――「あれ、YOKOじゃない?」などという声がちらほらと聞かれる。
「……俺、結構あの人のピアノ好きだったよ」
 草摩がぽつりとつぶやき、絵音もまた小さく頷いた。

 自分の生を殺した妹、
 自分の名を殺した姉。
 ふたりの奏でる旋律は、未だ終わらない――。