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Light and Dark

結局、私は他の人と同じなんだと思った。それから、自分のことを他の人たちと、善意をもって活動している自分と、無関心で怠けて残酷な人をくらべて微笑んだ。こんなおごりたかぶった考えにひたっていたちょうどその時、胸がむかつきだし、へどがでるほどの嫌悪感とたえられないほどの震えにおそわれた。

 悲鳴が飛び交う中、桐生は薄いバッグを手にとり駆け出した。彼らの座席は割合後ろの方だったのだが、その距離をものともしていない。草摩は慌てて後を追ったが、どう見ても追いつけそうになかった。
「避けてください!」
 張り出した座席の背をひょい、と飛び越える。草摩はぐるりと迂回しながら小さく舌打ちした――これだから足の長いやつは。
 桐生はオーケストラボックスに倒れ伏している春枝を、頚椎を動かさないように注意しながら仰向かせ、軽く肩をたたいた。
「吾妻さん! 吾妻さん!」
 意識はない。桐生は春枝を床に寝かせ、呼吸を確認した。耳を口元に押し当てながら指先で頸動脈を探る。呼吸には異常がないが、脈は早く、動悸も激しいようだ。指先はかすかに震えている。
 桐生は傍らのバッグを開け、白い錠剤を取り出した。ブドウ糖錠である。春枝の唇を押し開け、誤嚥させないよう注意しながら舌下に押し込んだ。みるみるうちに溶けていくのを確認して、もう一錠。意識を失っていることを考えるとブドウ糖の静脈注射が良いのだろうが、さすがに桐生にその持ち合わせはない。
「桐生」
 桐生が振り向くと、ちょうど草摩が携帯電話を閉じたところだった。
「警察と救急に電話した。……具合は?」
「外傷は特にないようですが、頭を打っているかもしれませんので精査が必要ですね。ただ意識が消失している原因は血糖値かもしれませんので、とりあえずブドウ糖を与えておきました」
「高血糖発作ではない?」
「どちらかわからない場合は低血糖発作の治療から始めるんですよ。後で高血糖だとわかったらその後その治療をします。脳が不可逆的に損傷されるのは、どちらかというと低血糖のほうなので」
「ふうん……」
 遅ればせながら駆け寄ってきたスタッフたちが桐生を取り囲む。医師としての顔で応対し始めた彼から目を逸らし、草摩はふと頭上を見上げた。
「…………」
 ――YOKO。いや、冴木百合子。
 ステージの上で光を浴びるその人の顔は、逆光になって良く見えない。だが、草摩の気のせいでなければ……わずかに微笑んでいる。そのように見えた。

 
 病室の廊下には天井の蛍光灯が映りこみ、ぼんやりとした光を放っていた。何となくそれを避けながら歩いていた伊吹(いぶき)は、向かう方角に見知った顔を見つけて思わずため息をついた。桐生千影だ。
「また貴方ですか……」
「奇遇ですね、刑事さん」
「警視です」
 辛抱強く訂正しながら、伊吹は桐生の顔を見上げた。決して自分は背が低いわけではない。この男が高過ぎるのだ。それでいて横幅も顔も自分よりずっと小さいのだから、世の中というものは不公平だ。
「どうしてこう、貴方の行く先々で事件が起きるんでしょうね」
「全くです。僕ってついていませんよね」
「あ、伊吹さん!」
 ぱたぱたと背後から掛けてくる音。伊吹はほっとしたように肩の力を緩めて振り向いた。
「草摩君。久しぶり」
「……なんか僕の時と反応が違うような気がするんですが」
「なんか、また妙な時に居合わせちゃって」
 困ったように表情を曇らせる草摩に、伊吹は首を横に振ってみせる。
「君が気にすることじゃないよ」
「……伊吹警視、さすがにそれはひどくないですか」
 肩越しに顔を覗かせた桐生に、草摩はきょとんと問い掛けた。
「どうした? 桐生」
「さっきまるで僕のことを疫病神か何かのように」
「それはそうと!」
 伊吹は声を上げ、やや強引に桐生をさえぎった。再び桐生に向き直り、仕事用の顔に戻って質問を投げかける。
「吾妻春枝の容態は?」
 桐生は背筋を伸ばし、眼鏡を軽く押し上げた。その奥の瞳は既に真剣な光を宿している。――ああ、やはりこの男は医師なのだと……自分と形は違うけれど、人の生死に携わっているのだと、伊吹は今更のようにそう思った。
「つい先ほどCTをとりましたが、人まず頭部に外傷はありませんでした。彼女が意識を失っているのはそちらが原因ではありません」
「では一体……?」
 伊吹はいったん口を噤み、近付いてくる足音の方に意識を向けた。――吾妻慎二。彼は伊吹を見てはっとした様子だった。やや神経質そうに辺りを見回しながら近付いてくる。
「吾妻慎二さんですね?」
「はい。……あの、母の容態は」
「低血糖発作ですね。先ほど測定したら四十ミリグラムパーデシリットルでした」
「現在の状態は?」
 伊吹の問いに、桐生は引き続き答えた。
「すぐに持ち合わせのブドウ糖錠を投与しましたし、脳には損傷が起こっていないと思います。もう少ししたら快復されますよ」
 慎二はちらりと伊吹を見遣った。
「あの、僕は母についていてもいいですか」
「いいえ。それは困ります」
 伊吹が何か言うより先に、草摩が口を開いた。
 
「でも、貴方がそのバッグを置いていくというのなら、構わないんじゃないですか?」

「――――?!」
 慎二の顔が歪む。伊吹ははっとしてとっさに彼の腕を捕らえた。
「君! どこに行くつもりだ」
「き――気分が、悪くて」
「それはいけませんね」
 やわらかな声とともに降りた手が、慎二のバッグをつかみ上げる。
「な、何を」
 慎二の抗議の声を無視し、桐生はにっこりと微笑んだ。
「お荷物、お持ちしますよ。おっと」
「あ……!!」
 悲鳴にも似た慎二の声。ばさ、とバッグの中身が床にぶちまけられた。あまりにもわざとらしい桐生の演技に一瞬呆気にとられた伊吹だが、やがて表情を変えた。
「それは、一体……」
 一風変わったボールペンのようにも見えるが、おそらくそうではない。草摩は落ち着き払った様子でそれにハンカチをかぶせ、手にとって伊吹に見せた。
「インスリンですよ」
「インスリン? 糖尿病の、治療薬の?」
「ええ、そうです」
「それは母のバッグなんです。だから」
「ふむ……」
 伊吹は目を細める。何となくこの二人が自分に示唆したいことはわかった。そして今、自分がどうしなければならないかも……。
「すみませんが吾妻慎二さん。伺いたいお話もありますので、一緒に来ていただけませんか」
「で、でも」
「お母様のことなら大丈夫ですよ、病院がちゃんと看護しています。それに」
 桐生はぽそりと慎二の耳元でささやいた。
「百合子さんもね?」
「?! ……な……何で……」
 慎二は強張った顔で桐生を見つめた。桐生は穏やかに微笑んでいる。
 ――先ほど対峙したときに慎二が見せていた余裕など、既にどこにもない。ただその瞳には追いつめられた獣の、臆病な獰猛さだけがちらついている。
「早くお母様の目が覚められると良いですね。それでは」
 桐生は伊吹に一礼し、草摩を促した。
「伊吹さん、これ」
 草摩はハンカチごと伊吹にインスリン注射器を渡し、桐生を追うように歩き出す。
「草摩君……」
 伊吹はつぶやき、まだ彼に腕をつかまれたままでいる慎二に視線を落とした。繊細に形作られたその横顔には濃い影が落ちている。
「何故……何故、あの男は……何故……」
 唇の中でぶつぶつと何かを呟いている慎二を見つめ、伊吹は表情を引き締めた。――間違いない、この男は何かを知っている。もしあのまま母親の病室に行かせたら、また何かが起こっていたのかも……。
 ――それにしても、何故あの二人がここに?
 疑問符を浮かべたまま慎二に何か言おうとした時、春枝の寝ている病室のドアが開いた。ほっそりとした黒い人影が滑り出してくる。
「ようこ……」
 呆然とした慎二の呟きをよそに、伊吹はその人影に軽く一礼した。彼女がまだYOKOと名乗る前から、伊吹は彼女を知っている。彼女の姉が亡くなった事件――その時、伊吹は彼女と顔を合わせていた。涙一つ零さず、青ざめた顔をして唇を噛んでいた彼女。つとめて冷静でいようとしながらそれに失敗している、そんな顔つきだった。まるで背伸びして強がってみせる子供のような……。
「警視さん」
 YOKOは慎二に視線を向けることなく伊吹に声を掛けた。
「少し出てきます。よろしいですか?」
「ええ。またすぐに戻って来られますね?」
「もちろんです。私も何だかくらくらするような気がして……何か飲み物を買って、休憩させていただこうと思って」
「構いません。……コンサートの後ですし、お疲れでしょう」
「お気遣いありがとうございます。何かありましたら携帯電話にご連絡下さい」
 YOKOのほっそりとした指が差し出すメモを受け取り、伊吹はうなずいた。YOKOは黒いドレスの裾を翻し歩き始めて……
「あっ」
 一瞬だけ、YOKOの視線が慎二に向けられた。唇がきゅうっと弧を描く。

 浮かんだのは、
 冷笑。
 
 伊吹につかまれている腕ががくがくと震え出す。慎二はその時初めて――この女が怖い、と思った。
 
 
 古ぼけたエスカレータが止まる。草摩と桐生が続いて乗り込み、扉を閉めようとボタンに手を伸ばす――。
「待って下さい」
 凛と響いた声。草摩はドアの向こうをちらりと眺めた。佇んでいるのは、YOKO。
「何の用です?」
 冷ややかな桐生の声にも動じる様子はなく、YOKOはふわりと微笑んだ。
「貴方たちにお礼を申し上げたいのです。少しだけお時間をいただけませんか?」
「…………」
 草摩と桐生は顔を見合わせ、やがて揃ってため息をついた。
「ちょっとだけ、ですよ?」
 草摩の声に頷きながら、YOKOはエレベータに乗り込み屋上へ向かうボタンを押す。
「貴方もよくよく屋上が好きな人ですね」
 桐生の嫌味を背中で聞きながら、YOKOはくすくすと笑った。――本気で可笑しくてたまらなかった。妹が死んでから、初めて笑ったような気すらする。笑いが止まらない。
「ちょ、ちょっと」
 焦ったような草摩の声。YOKOは――百合子はただただ笑い続けた。零れる涙をぬぐうそぶりすら見せず、ただ、笑っていた。