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Forte and Piano

全てのことには終わりがある。大きなはかりもついには一杯になる。そして悪へと少し気を許したために、とうとう魂のバランスが崩れてしまったのだ。しかも私はそれに気づきもしなかった。

 コンサート当日は雨だった。昨日までの陽気が嘘のようになりを潜め、日没後はことさら肌寒く感じられる。地下鉄の構内から出た草摩はぶるりと体を震わせた。
「こんなに寒いんならまだダウン、クリーニングに出すんじゃなかった……」
 つぶやく草摩に桐生は苦笑する。
「まあ、ここは寒暖の差が激しいですからね。夏と冬、昼と夜」
「うう」
 草摩は肩をすくめ、前方に立つホールを見遣った。
「車を出しても良かったんですが……」
「いいよ。駐車場代もただじゃないんだし、あほらしいだろ」
「でも僕らのチケットは貰いものですからねえ」
「……そりゃ、そうだけどさ。この件で金払うのは癪だ」
 言葉に似合わず真摯な声音。桐生はふと草摩の横顔を見つめた。その眼差しは真っ直ぐに前を貫き、頬はやや緊張して強張っている。
「なんか、嫌な感じがする……」
「それはあの女性に対してですか?」
「うん」
 それはまあ、そうだろう。桐生は小さくため息をつく。――実は、自分も全く同感だった。

 二、三日前、草摩は真剣な顔で首をひねっていた。いくら見た目がそっくりな一卵性双生児だとしても、そうたやすくもう片方に相手になり変わることができるのだろうか、と。
「同一化のレベルによるのでは?」
 桐生の答えに草摩は少し眉を寄せ、やがて了解したのか小さくああ、とつぶやいた。
 冴木葉子という女性。彼女を深く知る人物ほど違和感を抱きやすいに違いない。それぞれがどれだけ「葉子」の同一性を――否、「葉子」と「百合子」という双子の同一性を理解していたか。そこが問題になる。顔見知り程度の間柄であったなら、ふたりと同時に接してもどちらがどちらかわからないかもしれない。だが家族であったなら、きっとふたりを見違えることなどなかったはずだ。
 だが「百合子」は「葉子」を消し去り、自らが「葉子」になることを望んだ。意図的に「葉子」を装う「百合子」を、見破ることができるか、どうか――。
「でも、親まで騙せるかなあ」
「……万が一気付いたとして」
 桐生はぽつり、と答えた。
「敢えて真実を明らかにする必要があるでしょうか――あくまで彼らにとっての真実、という意味ですけれど」
「え?」
「彼らの娘の一人は去り、一人が残った。いずれにせよその事実は変わらないわけでしょう? 残った娘が『葉子』だと言っているのですよ……それを疑って、追求して、何か良いことがあるでしょうか。むしろ『葉子』に『百合子』に似たところを見つけて、ほっとしているかもしれません」
「…………」
 草摩はどこか苦しそうな表情で視線を落とした。桐生の言うことは理解できる。だがこころの奥底では否定したがっている。奇妙な焦燥が胸を焼いた。
「むしろ僕は、家族以外が危険だと思いますよ。家庭での経験は姉妹で共有することが多いでしょうが、外ではそうはいきません。葉子さん独自の交友関係だって必ずあるはずです」
「ショックで記憶が混乱している、って誤魔化すとか?」
「そんなこと言ったら親がびっくりして病院に連れて行きます。他人を名乗っている以上、いろいろ検査を受けるのは危険でしょう。彼女は曲がりなりにも医学生だったわけですし、それくらいのことはわかっているでしょうよ」
「――なあ、もしかして」
 草摩が顔を上げた。
「あの人、急にデビューしたよな。今はもうほとんど大学にも通ってないはずだ」
「……そうですね」
 桐生は軽く顎をなでる。
「環境を変えたのは、そういう意図もあったかもしれません……今の彼女の立場なら、知人とはいえマネージャーを通して連絡することも可能でしょう。直接交流しなくてすむ」
 草摩は、まるで睨みつけるかのような厳しい表情で桐生を見つめた。
「そこまで考えて動いているんだとしたら……凄いな」
「僕が心配なのは……」

 ――私には、あれ以来人が変わったように思えるのです。今の葉子とかつての葉子は別人なのではないか――と思うほどに……。

 吾妻春枝。数年来の葉子の師だったという。そして吾妻慎二もまた、葉子の古い友人だとか。もし今「葉子」の変化に気付くとしたら、きっとその二人だ。
「特に先生の方は、お前にまで連絡してきたんだろ?」
「ええ……そうですね」
 沈んだ声の桐生に、草摩はわざとらしく朗らかに言う。
「いくらあの人だってさ、先生とかその息子をどうこうはできないだろ。今警察沙汰になったら前の――『冴木百合子』の事件のことも絶対に出てくるし」
「それはそうだと思うのですが……」
 ――何かが引っかかっている。まるで喉の奥を何かが塞いでいるような不快感。だが桐生が焦れば焦るほど、その塊は輪郭をおぼろげなものにし、息苦しさは一向に改善されない。一体どうすればいいのか……。
「ま、向こうが俺たちを呼ぶのはそれなりの理由があるんだろうし」
 草摩は食卓テーブルの上に置かれていたチケットを取り上げ、天井を照らすライトに翳した。
「行ってみようぜ」
「……そうですね」
 桐生は静かに頷いた。
 
 
 コンサートはスムーズに進行していった。前回のように舞台上で誰かが倒れるというようなことはない。客席も演奏中は静まりかえっているが、曲の余韻が消えた後は割れんばかりの拍手で会場を埋め尽くしている。
 今夜のYOKOも黒のロングドレスを着ていて、それは一種のトレードマークになりつつある。なだらかなAラインを描くスカートを軽く持ち上げて歩く姿は颯爽として、長い黒髪は高くまとめられ、どれほど激しい曲を演奏しようが乱れる様子はない。むき出しの肩から伸びる細い腕。だがその奏でる音は激しく、強い。
「……どうですか?」
 前半と後半に挟まれた十分間の休憩で、桐生は草摩に尋ねた。
「何が?」
 草摩はきょとんと桐生を見上げる。
「いや、草摩君はクラシックお好きでしょう? だから何かご感想があるんじゃないかと思って」
「別に詳しいわけじゃ……」
 首を傾げていた草摩が、何か気配を感じたのか、ふと後ろを振り向いた。
「失礼します。七条草摩様と桐生千影様でいらっしゃいますね?」
 掛けられた声に、桐生もまた背後を振り返る。ふたりの視線の先で、背後に佇んでいた人影が丁寧に一礼した。
「……あなたは?」
「YOKOのマネージャーを勤めております、吾妻慎二と申します」
 草摩は呆気にとられて慎二の顔を眺める。――彼はまるで美少年系芸能人御用達の某事務所に所属していてもおかしくないような、そんな顔立ちをしていた。桐生のもつ鋭利な知性の代わりに華やかなオーラをまとった彼……鮮やかなハニーブラウンに染められた髪も、全く違和感がない。どこか童顔で儚くも見え、その辺りが女性にはきっとたまらないだろうな、と思った。
 現に、彼の出現に気付いた周りの観客はざわめき始めている。慎二自身はそれに全く頓着していないようだった。草摩と桐生を交互に見比べ、穏やかな笑みを浮かべている。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそお招きいただきまして」
 桐生は立ち上がり、慇懃に一礼した。――これはまた豪華なツーショットだ、と草摩はぼんやりと思った。
 そういえば慎二よりも桐生の方が背が高く、桐生が彼を見下ろすような形になっている。もちろん草摩も桐生よりずっと背が低いのだが、桐生が気を遣ってくれているのか、草摩はあまり桐生に見下ろされていると感じたことがない。ということは、今のこの態度はわざとだろうか……。
「それで、何かご用ですか?」
 あくまで笑顔なのだが、声だか言葉だかのどこかに剣が潜んでいる。慎二もそれに気付いたのだろう、わずかに唇が歪んだ。
「YOKOからの伝言をお届けに参りました」
 慎二の取り出したのは、おそらく封筒。桐生は手を伸ばすこともなく、じっとその上に視線を落とした。
「七条様、どうぞ」
 慎二は、何故か座ったままの草摩へとそれを差し出す。
「へ? 俺?」
 草摩は驚きながらもそれを受け取った。――彼は昔から街角でティッシュをやたらと受け取ってしまう方なのである。
「それではわたくしは失礼致します。どうぞ後半もお楽しみ下さいませ」
 桐生と草摩の視線に見送られ、慎二は足早に歩み去った。
 桐生は一つため息をつき、席に座り直す。彼らを注目していた観客たちも、開演を告げるブザーにうながされるようにして自席へと戻っていった。
「……何ですか、それ」
「手紙、かな」
「開けてみます?」
「……うん」
 封筒は真っ白で宛名も何もなく、封すらされていない。草摩は封筒の中から便箋を取り出し、開いた。中に記されていたのは、たった一言。
 
 ――わたしのジキルに(はなむけ)を。
 
「……は?」
 草摩は思わず声を上げ、慌てて口を閉じた。折りしもYOKOが舞台上に登場し、客席の拍手を浴びている。
 桐生は黙ってその紙片を眺めていた。彼は以前の事件の時に冴木百合子の筆跡を目撃している。彼女が元恋人である岡崎(おかざき)遊斗(ゆうと)に送ったものだ。今彼の目の前にある細くて小さな文字たちは、そのときのものと非常に良く似ていた。
「ジキル……、ジキルっていえば」
「『ジキル博士とハイド氏』ですよね」
 ぼそぼそとささやきあう彼らに向けたものか、周りから小さな舌打ちが聞こえた。彼らはさらに声を落とす。
「ジキルって葉子さんのことかな? 自分をハイドに例えて」
「でもあのふたりは二重人格でしょう。双子じゃないですよ」
「それはそうだけど……」
「まあ彼女の比喩のセンスはともかく」
 桐生は険しい表情で草摩に囁いた。
「僕はこの『餞』という言葉が気になります」
「……餞って、おせんべつって意味だろ? 相手が死者の場合に手向けるものっていえば、花とか、そういうの?」
「まさかそんなことを僕らに知らせてくるとは思えません」
「そりゃそうだ」
 再び、舌打ち。先ほどよりも大きくなったそれに、ふたりは口を噤んだ。同時に肩をすくめ、そのことに気付いて微笑みを交わす。
 
 ――わたしのジキルに餞を。
 
 折しも、舞台上では悲しみを含む美しい旋律が演奏されていた。
 タイトルは、「別れの曲」。