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Alive and Dead

彼は、と私はいいたい、私は、とはとてもいえない。悪魔の申し子は人間ではなかった。その男にあるのは、恐れと憎悪だけだった。

「どういう風の吹き回しかしら、慎二」
 春枝の含みのある物言いにも、慎二は眉一つ動かさなかった。
「いつもの子が体調を崩してホテルから出られなくなったんで、代わりですよ」
「そう……」
 春枝は不機嫌そうに楽屋の壁をにらみつける。慎二はその横顔を無表情にただ眺めていた。今自分の言ったのは嘘である。ふだん春枝の身の回りの世話をしているのは彼女の弟子の一人である女性だが、休みを出したのは自分だ。――最近母と折り合いが悪くなっていて……一度腹を割って話し合いたいんだ。神妙な顔をしてそう言った自分を、彼女は何の疑いもなく信じた。
 同じ女でも百合子とは随分違うな、と思う。百合子は今まで慎二が出会った中で一番魅力的だ。おそらく、二番目は葉子だったろう。容貌だけならふたりはひどく似通っていたが、百合子は葉子にないものを持っている――あの、瞳だ。昏く煌く視線にとらえられると、慎二は身動きができないような気分になる。

 ――大丈夫、お約束したことは守ります。何もかもがうまくいけば、私は自由になれるわ。そして、貴方も。
 
 今、彼女は舞台の上だ。あと三十分もしないうちにすべての演目は終了する。そして二曲のアンコールが演奏される予定になっているが……。
「……慎二」
「何? 母さん」
 慎二は何事もなかったかのような表情で答えた。春枝は自分から目を逸らし、煙草をくゆらせている。
 そういえば、慎二にとっての母のイメージは、煙草の匂いと切り離せない。彼女が糖尿病を患うようになったのはまだ慎二が幼い頃だったが、春枝はいくら医師に止められても煙草だけは止めようとしなかった。
「最近の葉子はどう?」
「どう……って?」
 慎二はわずかに警戒を浮かべる。春枝は微笑して車椅子の上から息子を見上げた。
「忙しすぎてレッスンもままならないのよ。だから、あの子の近況を知りたいの」
「コンサートツアーには一緒に回っているでしょう?」
「それは、そうなのだけど……」
 春枝は少し迷うように言葉をきった。慎二は黙って続きを待つ。
 やがて、彼女は意を決したのか口を開いた。
「あの事件の前、貴方は葉子とお付き合いしていたわね?」
「ええ」
「それは今も変わっていないの?」
「そうだけど」
「……そう」
 春枝は険しい表情になって慎二を見つめる。
「貴方がこれからも葉子のマネージャーを続けたいのなら……そういう私的な関係は慎んだ方が良いわ」
「え?」
 慎二は戸惑ったように目を瞬かせた。春枝は小さくため息をつき、やがてもう一度口を開いた。
「はっきり言う。私は――母さんは、貴方があの子と付きあうのは反対」
「…………」
 喉の奥がぐる、と音を立てた。まるで猛獣の唸り声のようだ、と慎二は他人事のように思う。
 春枝の指先に挟まれた煙草は、ほとんど吸われないままに随分短くなっていた。
「慎二?」
 黙ったままの彼に、春枝は不思議そうな眼差しを向けた。慎二が言い返してくるであろうと予想していたのだろうか。――そんなはずはない。
 いつだって、母はそうだったではないか。生まれた時から父のいなかった慎二にとって、母はすべてだった。ふだんは忙しくてあまり家にもいなかったが、何かがあると母は必ず自分の前に現れ、そしてまるで被告人に判決を下すように決断する。それを聞くと、自分はいつだってもう何も言えなくなってしまうのだ。
 若い頃の母は自信たっぷりで、実力もあって、人気もあり――誰もが彼女を賞賛した。まれに彼女が慎二の学校に現れると、誰もがその後姿を目で追うほどだった。慎二はそれを自慢に思う一方で疎ましくもあった。母は自分の母であるより前に「吾妻春枝」なのだ。彼女は自分を産んだという意味においては「母」であったが、実際のところは「母」でなかった。慎二の養育のほとんどは春枝の母が担っていたのである。シングルマザーの道を選んだという意味では「妻」ではなく、そして「女」でもなかった。春枝は春枝だった――それ以外の何者でもなく。
 やがて自分は成人した。母は病で足を失った。今は自分の方が背も高いし健康でもあり、腕力も強い。それでもやはり母は母なのだ。母らしいことは何一つしてくれなかったのに、それでも母であることにかわりはない。それを誰よりも理解しているのは母――春枝だろう。その事実が、何よりも慎二を苛立たせる。
 慎二は軽く首を横に振り、壁にかかった時計を見上げた。そろそろ曲目がすべて終わる頃だ。YOKOは最後に必ず春枝を舞台上に登場させている。今日もそれは例外ではなかった。
「母さん、最近血糖値は大丈夫?」
 春枝は慎二の言葉に眉をひそめた。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「昔、俺が母さんに注射してあげていたことがあったね。高校生くらいの頃かな」
 慎二は春枝のバッグをとり、中を探る。春枝は慎二の行動を怪訝そうな顔で眺めていた。
「母さんは注射が苦手だったから……。今は自分でしているの?」
「ええ、まあ自分でやったり、してもらったり、いろいろだけれど」
「そう」
 慎二は春枝のインスリン注入器を取り出す。ペン型をしたそれらには何種類かあって、慎二は良くわからなかったが、見分け方は百合子が教えてくれた。
「何をしているの? 慎二」
 春枝の声を背中で聞きながら、慎二は注入器のダイアルを回す。
 
 ――大丈夫。何もかもがうまくいけば、俺は自由になれる。

 割れんばかりの拍手が耳に痛い。草摩は音を立てない程度に軽く手を叩きながら、桐生に小さく耳打ちした。
「なんか、何事もなく終わったんだけど……」
「ええ、そうですね」
 桐生はあっさりと拍手を終了し、腕を組んで首を傾げた。
「結局何だったんでしょうねえ。チケットといい、さっきの手紙といい」
「まあ、一応まだアンコールは残ってると思うけど……」
 一度舞台袖に入ったYOKOが、再び姿を現す。彼女は師である春枝の車椅子を押していた。歓声が一層大きく上がる。草摩はため息をついた。
「……俺の心は汚いわ」
「いえいえ、草摩君が汚いなら僕なんてもう」
 YOKOに人気がある一つの理由は、彼女の師に対する献身的な姿勢であろう。どれだけ人気が出ても師への感謝を忘れない。体を壊して一線から退いた師をこうして表舞台にも出してやり、賞賛を分かち合う。いまどきの若者にしては礼をわきまえていて感心だ、確かにそうとも取れるかもしれない。――だが草摩にとっては一連の献身とやらが道化にしか見えなかった。彼女は師の健康の不具合までもを利用している、そのようにしか思えないのだ。それは桐生も同じらしい。
 草摩はくすりと笑った。
「確かに、お前の心は綺麗とはいえないかもしれないけどさ」
「……何か、傷つきます」
「あ、ごめん」
 慌てて謝る草摩の視線の先で、桐生はわざとらしく肩を落とす。――本当は傷ついてなどいないのだと悟り、草摩は大げさに舌打ちをして舞台の方へと向き直った。
 車椅子が中央までの道のりの半分くらいを進んだ時。不意に、春枝の体がぐらりと揺れた。
「あっ」
 叫んだのは草摩か桐生か、どちらだっただろう。
 春枝の体はバランスを失い、車椅子は大きく傾いだ――YOKOの手を離れ、舞台上から転落する……。
 草摩はとっさに目算した。このホールはオペラやバレエなども上演できるような大ホールだ。今は空っぽだが舞台の下にはオーケストラボックスが存在していて……つまり、春枝は確実に二メートル以上の高さを落下することになる。
 
 歓声が、悲鳴に変わった。