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STALK

 ──誰かが私を見ている。

 誰かが私を監視している。
 誰かが私の邪魔をしている。
 誰かが私を否定している。
 誰かが私を突き落とそうとしている。
 誰かが、
 誰かが、
 誰かが、……。

「そういうのは警察がいいと思うけどなあ」
 隣の部屋から響いてくる声は、困惑の色をにじませていた。うとうとと浅い眠りに体を任せていた桐生(きりゅう)は、聞くともなしにその声を聞いている。
「だって、つけられてるんだろ? ストーカーかもしれないじゃん」
 しばしの沈黙。ああ、電話かと桐生は納得した。相手は誰だろう。多分、恋人ではない。もし彼女をストーキングするような男がいたなら、彼は彼女の元へすっ飛んでいくだろうから。
「え? 警察行った? ……ああ、そう」
 桐生はごろりと寝返りを打つ。徐々に目が冴えてきていた。病院から帰宅したのは朝の五時だった。今日は日曜日だが、今は一体何時だろう。
「まあ、確かに勘違いって可能性も……わかったわかった、怒るなって」
 時計を見る。短針は三と四の間を差していた。途端に空腹を感じて、桐生は苦笑する。睡眠が満たされれば食欲が湧く。人間の身体というのは複雑なようで、実は単純だ。とにかく生き延びること。それだけを考えているといっても過言ではない。
「とにかく落ち着けよ。お前がパニクってもいいことないだろ」
 桐生はもそもそとベッドから立ち上がった。不規則な生活をするものには不可欠な、遮光カーテンを勢い良く開ける。
「あっ」
 小さな叫び声。何があったのだろうといぶかしむ間もなく、声は慌てたように続けた。
「悪いけど、ちょっとあとで掛け直すよ。……うん、そんなところ。じゃ」
 部屋を出て大きく伸びをしていると、ちょうど隣の部屋のドアが開いた。
「あ、おはようございます」
 顔を見せたのは桐生よりも一回り以上下の青年。だが一見桐生のほうが腰が低いように見える。彼の場合はただのくせなのだが。
「おはよ。飯食う?」
「お願いします」
 七条(しちじょう)草摩(そうま)。遠戚である彼と同居し始めてから、そろそろ一年になる。大学は既に長い春休みに入っていた。
 草摩はキッチンに向かい、レンジを点けた。既に料理は作ってあるということらしい。
「起こしちゃった? ごめんな」
「いえいえ」
 首を横に振る。さっきの小さな叫びは、彼の起床に気がついたせいだったらしい。カーテンの開く音で気付いたのか。相変わらず敏感だと思う。そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに……それでも、やはり嬉しいことにはかわりがない。
「もともと昼前には起きるつもりで目覚ましをかけていたんです。自分で消したみたいですけどね」
「うん、ものすごい早さで消えてた」
 草摩が笑う。レンジが止まり、彼は両手にミトンをはめて皿を二つ取り出した。
「今日は塩焼きそば。この前絵音(かいね)が味付けの方法を教えてくれて」
「塩焼きそばって、塩だけじゃないんですか?」
「それじゃコクが出ないだろ」
 料理について熱く語る草摩の背中を眺めながら、桐生は気付かれないように小さく忍び笑いをもらした。絵音、というのは草摩の恋人の名前である。付き合い始めてから半年を過ぎた今でも、どうやら相変わらず仲は良いらしい。桐生自身も絵音のことは気に入っているし、何はともあれ喜ばしいことだ。
「聞いてる?」
「あ……ああ、すみません」
 桐生はふと自分の姿を見下ろした。安物の、フリース地の上下。着替えるのを忘れていた。
「着替えますから、先に食べていてください」
「冷める前に来いよ!」
「はーい」
 おはようと言ってくれる人がいて、ご飯を一緒に食べる人がいる。何でもないことかもしれないが、二十年以上前に家族を失った桐生にとってそれはかけがえのないしあわせだった。
 それを与えてくれた草摩と、そして今は亡き彼の父に――感謝している。
 
 
 草摩の言ったとおり、確かにその焼きそばは美味しかった。桐生は冷たい麦茶の喉ごしを楽しみつつ、空っぽの胃に次々と麺を流し込む。
「そんなに腹減ってたのかよ」
 呆れたように言う草摩に、桐生は苦笑した。
「朝五時に帰って来て、そのまま寝ちゃいましたからね」
「……今度非常食買っとくから。飲むゼリーとか、その辺な。せめて腹を膨らませてから寝ろ」
「寝る前に食べたら太りますよ」
「お前はちょっとくらい太っても大丈夫だから!!」
 他愛もない会話を交わしつつ、ふと桐生は手を止める。お腹はかなり満たされてきているが、そのせいではない。
「そういえば、先ほどのお電話はどなたからだったんです?」
「…………」
 草摩の手もぴたりと止まった。まるで喉につまった何かを流し込むように、一息でコップいっぱいの麦茶を飲み干す。
「友早(ともはや)だよ。覚えてる?」
「……ああ」
 桐生の脳裏に一人の青年の面影が浮かんだ。確か、草摩とそう年は変わらないはずだ。彼の従兄弟であり、そして去年の春の事件で父を喪った――。
「じゃあ眞由美(まゆみ)さんのことも?」
「覚えていますよ」
 桐生はすぐに頷いた。友早の恋人だということだが、それはまあどうでもいい。ただ、彼女が自分の古い知人の姪だということに一番驚いた。両親の離婚で姓が変わっていて気付かなかったとはいえ、世間はこうも狭いのかと……。
須藤(すどう)眞由美さん、でしょう?」
「そうそう。その眞由美さんのことで電話掛けてきたんだ」
「……別れ話の相談、ですか?」
 寝起きだったせいか、洩れ聞こえた会話の内容はおぼろげであまりはっきりとは思い出せない。草摩は首を横に振った。
「そんな平和なものならいいんだけど、ちょっと物騒な話で」
「物騒な……?」
「うん」
 草摩は眉を寄せた。
「ストーキングされてるっていうんだよ。眞由美さんが」

 草摩が語ったところによると、須藤眞由美がそのストーキングに気付いたのは先月、つまり一月の下旬頃らしい。毎日家に帰る途中、見覚えのない男がつけてくるのだという。たまたま方角が一緒なのかと思って帰路を変えてみても、必ず十メートル以上あけて背後をぴったりとついてくる。店に入って時間を潰しても同じ。駅から自宅までの十数分間、男はつかず離れず眞由美を追いかけてくる。しかもそれは決まって一人のときなのだ。
 
「父親と母親に相談して……、そうそう、眞由美さんのお母さん」
「ああ、篠原さんに聞きましたよ。どうやら再婚の運びになりそうだとか?」
 桐生はうなずいた。篠原(しのはら)(はじめ)、というのがその知人の名前である。そして須藤眞由美の母親は彼の姉にあたる、篠原詠子(えいこ)。離婚後、しばらくある宗教団体に所属していたが、最近脱会したという。
「良かったよなあ」
 朗らかな顔で笑う草摩。そんなに簡単なものではないだろう、と桐生は思うが、そうやって真っ直ぐに笑う草摩が嫌ではなかった。むしろそうであれたなら、と願う。もしも自分が草摩のようであったなら、自分の過去はもっと違ったものになっていたかも……。
「まあ、それはいいんだけどさ」
 草摩の言葉に、桐生は思考を元に戻した。
「当たり前だけどお父さんもお母さんもびっくりして、彼女が出かけるときは駅まで送り迎えしたり、警察に相談したり……」
「それだけじゃ警察は動けないでしょうねえ」
「一応パトロールは増やすって言ってくれたみたいだけどな。まあ今のところ実害もないし、結構離れてついてくるからどんな男かもわからないみたいで……」
「そうですか……。眞由美さんに心あたりは?」
「ないって。高校時代に付き合っていた人はいるけど恨まれるような覚えもないし、それにそんなに若そうには見えなかったって」
「年齢くらいは大体わかっているんですね」
「歩き方とか体格でわかるんじゃないかな」
「なるほど。特に今まで交友関係でトラブルになったことはないと」
「本人は、そう言ってる」
 微妙なニュアンスを感じて、桐生は心中同意した。――確かに、眞由美は友早にはそう語っただろう。もしかすると警察や両親にもそう語ったかもしれない。しかし本当にそうだろうか。彼女が本当のことをしゃべっているという確証はどこにもない。自分にとって都合の悪い事実があるのなら、ぎりぎりまで隠そうとするだろう。
 また、彼女が真実を語っていると仮定したところで、一方的な逆恨みというものも存在する。そのことに彼女が気付いていないだけかもしれない。
「電話がかかってくるとか、他に何か嫌がらせのようなことはなかったんですか?」
「今のところはないみたいだ」
「うーん」
 桐生は軽く首をひねり、つぶやいた。
「友早君は一体何を草摩君に望んでいるんですかねえ」
 つまり、何のために電話してきたのか。そういうことだ。
「警察が動いてくれないから、お前ちょっと調べてくれないか――だってさ」
「君は探偵ですか」
 苦笑した桐生に、草摩は肩を落とす。
「まあ、確かにこの前いつか東京に遊びに行きたいとは言ったけどさ……あくまでついででいいからちょっと相談に乗ってくれって。ご飯奢るとか言われた」
「相談に乗るのは電話でもできますよね……。君にその不審な男を捕まえて欲しいとでもいうんでしょうか」
「無理。俺親父と違って武道の経験ないし」
 警察官だった亡父が体術に長けていたのはもちろんだろうが、彼はどうやら息子に柔道や空手は習わせなかったらしい。
「危険なことに巻き込まれるのは、ちょっとどうかと思いますけど……」
「何か、電話では言えないことがあるのかな」
 草摩はぽつりとつぶやいた。桐生は口をつぐんで彼を見つめる。その色素の薄い茶色の瞳が、徐々に輝きを増しつつあった。彼の思考がめまぐるしく動いている証拠だ。
「警察にも、両親にも言えない。友早は眞由美さんに打ち明けられたものの、途方に暮れている……」
「そんな様子があったんですか?」
 そこまで言うからには根拠のないことでもないのだろう。追及する桐生に、草摩はうなずいた。
「眞由美さんは、もしかしたら例の教団関係者じゃないかって言ってるらしい」
 一瞬、息がつまった。
「え……?」
 銀髪の、青い目をした少年が浮かぶ。今は亡き――自ら命を絶った、教祖。「オリーブの恵」。篠原詠子のいた場所。
「それは何故……」
「自宅の前でバッジを拾ったんだって。教団の。怖くなって捨てちゃったらしいけど」
 最後のほうはどこか苦々しい口調だった。何だって証拠品を捨てるのか、と言いたいらしい。
「そういえば男はいつもどこで姿を消すんです?」
「自宅に向かう最後の角を曲がると、見えなくなるんだって」
「そうですか……」
 桐生は少し考えるように視線を落とした。
 それならば両親や警察に言いづらいのはわかる。自分をつけまわしているのが母親のいた教団の者だとわかったら、父親は再び母親と別れたいと言い出すかもしれない。そして、それは眞由美にとって喜ばしくない……。
 草摩はため息混じりに言った。
「友早は、打ち明けたほうがいいって言ってるみたいだけどな」
「僕もそう思いますよ。草摩君が行ってどうにかできることでもありませんし」
「だよなあ。ま、後で掛け直して言っておくよ」
「お電話中断させてしまってすみませんでした」
 謝る桐生に、草摩は気にするなというように手をふる。桐生は洗い物のために立ち上がった。
 
 この話はこれで終わり。二人ともがそう思っていた。冷たいかもしれないが、所詮東京で起こっていることだ。新幹線で二時間かかる場所にいる自分たちにはどうすることもできない。
 しかしすぐに、甘かったのだと思い知らされる。恋人の身を案ずるあまり、時に人は他人が思いも寄らない行動に出るのだ、と。