instagram

PSEUDO

 その夜、草摩らは篠原家で夕食を振る舞われた。
「なるほど、義姉さんはまた大変なことに巻き込まれているのね」
 篠原の妻、亜矢子(あやこ)はフォークに巻きつけたパスタを口に運び、ワインを含んだ。長くつややかな黒髪に、ほっそりとした体型。篠原素の年齢を考えれば同級生だという亜矢子も五十を越えているはずだが、十歳以上は若く見える。彼女は都内の総合病院に勤めていた。
「あの人は感情の起伏が激しいから、いろいろと損をしているな」
 篠原は淡々と話しながらサラダをとり、ついでのように草摩の皿にも取り分けてくれた。絵音にも視線を送るが、彼女は会釈して辞退する。既に満腹らしく、少し苦しそうにしている。
 食卓に所狭しと並んだ料理の数々は全て篠原が調理したもので、亜矢子が仕事から帰宅したのは夕食の準備がすべて終わった後だった。篠原家では互いの忙しさによって家事の分担が行われているのだという。今日は篠原が休みだったため、家事全般は彼が受け持ったのだ。
「眞由美さんとお母さんって、仲良かったですか?」
 不意に草摩が口を開いた。素と亜矢子が顔を見合わせる。
「入信する前だよね? ふつうだったんじゃないかな……。悪くはなかったと思う」
「私の勝手な印象だけど」
 亜矢子は真っ直ぐに草摩を見つめた。切れ長の鋭い瞳。
「眞由美さんはお父さん子だと思った。まあ娘と父親じゃありがちな程度かもしれないけどね」
「…………」
 絵音が一瞬表情を曇らせるのを、草摩は視界の隅にとらえた。彼以外は気付かなかっただろう。彼女自身、草摩が気付いていることを知らないかもしれない。
「同性の家族って意外に難しいみたいだね。うちも姉が二人いるから何となくわかる」
 世津佳(せつか)と詠子、そして素。上二人と彼とでは関係性が異なっていたのだという。
「同性はどうしても意識しがちになるというか……、比較しちゃうのかな。本人たちにそんなつもりがなくても、周りの目とか」
「あら、異性は異性で大変よ」
 亜矢子が口を開いた。
「兄は勉強ができると親戚中から褒められたけど、私は『女の子なんだからそんなに勉強しなくてもいいのに』って言われていたもの。まあ親や兄も一緒になって怒ってくれていたから良かったけれど」
「それ……わかります」
 強い調子で語る亜矢子に、絵音も控えめに同意した。
「女の子は勉強できるより家庭的な方がモテる、とか。男の医者はモテるけど女は……とか」
「へえ、未だにそんなこと言う人いるんだ。で? やっぱり医学生はモテるの? 草摩君」
 不意に亜矢子に話をふられて、草摩は苦笑した。
「まあ、合コンは多いみたいですよ。あと、医学部の運動部にはやたらと女子マネージャーが多いかな……。周りの女子大からたくさん来てくれるから」
「マネージャーってそんなに魅力的なポジションなのかな」
「はじめちゃん、そんなわけないでしょ」
「はじめちゃ……」
 意外なあだ名に、絵音が小さくつぶやいた。噴き出しそうなのか、口元が引きつっている。篠原はといえば少しも表情を動かしていない。草摩は少し笑ったが、やがてため息まじりにつぶやいた。
「ま、需要と供給が釣り合っているんでしょうね」
「案外変わんないのねえ私たちの学生時代と。あなたたち見てると若い頃の私たちみたいだし」
「話がずいぶんそれてしまったね」
 篠原が幾分あわてたようにグラスを飲み干し、話を遮った。若い頃のことを暴露されるのはさすがに恥ずかしいのだろうか。彼にしては珍しい。
 篠原は草摩に向き直り、尋ねる。
「草摩君、本人たちと話してみてどうだった?」
「……そのことなんですが」
 草摩はぴんと背筋を伸ばして姿勢を正した。
「篠原さんに手伝って欲しいことがあるんです」
「僕に?」
 素は眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。
「眞由美さんのお母さんに、今夜帰宅してもらって下さい」
「……どういうことかな」
 素は静かに問い返す。
「眞由美さんは、お母さんが家を出た後ストーカーがいなくなったと言っていました」
 黙ったまま、亜矢子が少し眉をあげた。
「では、お母さんが戻って来たらストーカーはどうするのか……」
「なるほどね」
「ただ、眞由美さんの身に危険があってはいけませんから、明日は彼女の帰り道をちゃんと見張っておこうと。ストーカーについても情報が増やせるかもしれません」
「そのことは彼女には言うの?」
「いえ」
 否定した後、草摩は付け加えた。
「眞由美さんの挙動がいつもと違ってはいけませんから、友早にも言いません」
「ふむ」
 篠原は顎をつまんだ。
「眞由美さんの尾行は警察OBに協力してもらおうか。僕と一騎の知り合いで、心当たりがあるんだ。心強いだろう」
「ありがとうございます」
 礼を言う草摩に、素は苦笑した。
「ありがとうと言いたいのは僕の方だ。詠子さんは僕の姉なんだから」
「君、すごいね」
 亜矢子は草摩を見つめた。
「何がです?」
 きょとんとする彼に、
「今更だけど……わかってきたような気がするのよ」
 亜矢子は表情をくもらせる。
「ちょっと、荒療治になるかもしれないわね……」
「…………」
 草摩はぽつりとつぶやいた。
「それでも……真実を見据えなきゃ、何も始まりませんから」
「それが誰かを傷つけるとしても?」
 顔をあげた草摩は、亜矢子の視線に射られて唇を引き結んだ。
「はい」
 はっきりとうなずく。
傷を負わないようにと真実を覆い隠す、その行為そのものがさらに人を傷つける。自分か、他人か、その両方か……。
 脳裏に浮かぶのは(あずま)慧一(けいいち)であり、
 冴木(さえき)百合子(ゆりこ)であり、
 桐生千影(ちかげ)だった。
 草摩は思う。
 今夜、桐生にメールしよう。ちゃんと飯は食ってるかな。あいつ、忙しいとすぐに食事を省略しようとするから……。
 そんな草摩を、篠原は静かではあるが優しい眼差しで見つめていた。

 翌朝、篠原家に来客が訪れた。出勤前の篠原が慌ただしく草摩に紹介する。
一騎(かずき)の元上司、中澤(なかざわ)承太郎(しょうたろう)さんだよ」
 なお、篠原詠子は無事須藤家に戻ったそうだ。素が何を言ったのか、どんな口実を設けたのか、草摩は知らない。その点は素に任せている。
「はじめまして。突然お呼び立てしてすみません」
 頭を下げる草摩に眼前の老人は相好を崩した。
「どうもどうも。……いや、あのときの赤ん坊がこんなに大きくなったのか。私も年を取るはずだ」
「え?」
「いや、まだ夏海さんがご存命だった頃に一度赤ん坊だった君と会ったことがあって……。まあ、ずいぶんと昔の話だが」
「母のこと、ご存知なんですね」
 草摩の顔が切なげに歪む。彼には母の記憶がほとんどない。こうして母を知る人物を通して、はじめて本当に自分にも母がいたのだと実感することができる。
「中澤さん、すみませんが僕はこれで……」
 篠原の声が湿っぽくなった空気を乱す。今の草摩にはありがたいタイミングだった。
「おう、気を付けてな」
 年の割には動作が若々しく、体も無駄なく引き締まっている。退職した後も鍛えているのかもしれない。
 父がもし殉職していなかったら、退職した後はどんな風に過ごしただろう。やはり体がなまると言ってジムや道場に通うだろうか……。望むべくもない未来をふと垣間見たような気になって、草摩は視線を落とした。
「で、私に頼みたいことというのは?」
 中澤の声に我に返り、顔をあげる。彼は厳しい表情をしていた。
「大体の話は聞いたが、具体的に何をすればいいんだね。須藤眞由美さんというお嬢さんの警護かな?」
「大体そんなようなところですけど、ちょっと違います」
 草摩は表情を引き締めた。
「須藤眞由美さんを尾けるものがいるかどうか、いるとしたらそれはどんな人物かを特定したいんです」
「……草摩君、と言ったね」
 中澤は目を細める。
「何か目星をつけているようだが……話してくれないか?」
「…………」
 草摩は少し黙考する。やはり元警察関係者だけあって質問が鋭い。
 沈黙が続いている間に絵音が階段を降りてきて、中澤の姿を見て驚いたように足を止めた。中澤は彼女に向き直る。
「中澤といいます。聞いているだろうが七条一騎君と篠原君の知り合いといったところです。よろしく」
「はじめまして、雪村(ゆきむら)絵音です。よろしくお願いします」
 中澤は草摩と絵音を見比べてうんうんとうなずく。彼らの関係を事前に知っていたのか、それとも……。
「中澤さん」
 草摩が口を開いた。二人の視線が彼に集中する。
「あくまでもこれは俺の想像です。でも……」
 少し間をあけ、意を決したように草摩は一息で告げた。

「眞由美さんは嘘をついている。俺はそう思っています」

「嘘?」
 中澤は太い眉の下の目をぎょろつかせた。
「彼女の語るストーカー像……不自然過ぎる」
 草摩は絵音をちらりと見た。彼女は静かにうなずく。
「まず目的が不明です。一体何のために駅から自宅近くまで眞由美さんを尾行しているのか、全くわかりません」
「不審な電話や郵便物の紛失はないんだね?」
「ええ。特に郵便物については、ポストに鍵がついているそうですから」
「ふうん……お嬢さんは声をかけられたこともない?」
「そう聞いています。とにかく尾行以外のアクションは一切ない」
 中澤は腕を組んでうなった。
「確かに奇妙だね。ストーカーの存在自体が彼女の気のせいではないのかな」
「まあふつうはそう思いますよね……ただ、眞由美さんの確信は非常に強いんです」
「ストーカーの意志らしきものが垣間見えた唯一の事象は……」
 絵音がつぶやく。
「この件に教団が関わっているのではないかと恐れたお母さんが家を離れた途端、姿を見せなくなったということ」
「それも変な話なんだ。何でそのストーカーは眞由美さんのお母さんが家にいないとわかったんだろう? 一日中家に張り付いているはずもない……警察がパトロールしていたし、そんな不審者がいれば捕まえているでしょう」
「警察はストーカーの存在を把握しているのかね? つまり、外見や特徴からしぼりこんで、特定していたかということなんだが」
 いつの間にか、中澤はまるで現役時代に戻ったかのように黒い手帳を取り出し、メモをとっていた。
「いえ、何も実害がないので、パトロールをしていたくらいです。それ以上は……」
「なるほど。つまり」
 中澤はゆっくりと口を開いた。

「ストーカー騒ぎそのものが狂言かもしれない……と言うわけか」

 草摩は彼の目を見据え、うなずく。
「可能性は、高いと思います」
「しかし何のために……?」
「…………」
 草摩は黙して答えない。絵音がその横顔を心配そうに見守っていた。