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OBSESSION

 眞由美は焦っていた。携帯電話を開け、ミラー機能で背後を確認する。長身の男が十メートルほどの距離を開けて歩いていた。駅から今まで、その距離は全く変わっていない。眞由美が足を止めれば男もさりげなく立ち止まる。彼女がコンビニに入って十分ほどやり過ごし、店を出てしばらくするともう尾けられている。
 ──ああ。
 眞由美の歯がきりきりと音を立てた。昨日会った、友早の従兄弟──七条草摩。彼の見せた眼差しが気になる。彼女が何度も浴びてきた同情や心配の色は微塵もなく、ただそこにあったのは「それは本当か?」とでも言いたいような、淡々とした追求。それだけだった。それは彼女の叔父、篠原素を思い出させる。
 彼女の母が警察関係者と懇意だという自分の弟を頼り、眞由美を連れて会いに行った。そういえば草摩の名前を出したのも篠原だった。友早の従兄弟だと聞いた母が彼に頼み、連絡を取ってもらったのだった……。
 眞由美の足は止まらない。多分、まだ背後に男はいるだろう。彼女の後ろから離れるわけがない。ずっと、ついてくる。ずっと、ずっと……。
 違う。家に着くまでだ。家に着いてしまえば、この尾行は終わる。
 ずっとついてくるのは別のもの。ついてきて欲しくないのに否応なしについてくる……どうやったら逃れられるのだろう。どうやったら離れられるのだろう。
 ――私はただ自由になりたいだけ。しあわせになりたいだけ。なのにどうしてその邪魔をされなければならないのだろう。そんな権利など誰にもないはずなのに。
 眞由美はぐっと涙をこらえた。もう振り返らない。
 私は諦めない。何としてでも逃げ切ってみせる。何としてでもしあわせになってみせる。
 家の直前、最後の角を曲がる。そのとき。
「ちょっといいですか?」
 聞き慣れない声が耳に飛び込んできて、眞由美は凍りついた。
 
 
 草摩は首をひねった。
「確かに一人、ついてきていますね」
 コーヒーショップの二階、長い範囲で駅前の通りが見通せる。眞由美を見守るために中澤が選んだ場所だった。昼下がりの午後、店内は平日にもかかわらず混み合っている。窓際のカウンター席に三人。草摩の左に腰掛けた絵音は、ブーツを履いた足をぶらぶらとさせていた。
 草摩の視線の先にいる男は、眞由美が駅から出て来たときから十メートルほどの距離を開けてぴったりとついてきている。彼女が歩調を緩めるとそれに合わせ、コンビニに入った時には彼もまた本屋に飛び込んでいた。稚拙ではあるが、確実に眞由美を尾けている様子だ。
「ふうん……」
 中澤は目を細めた。さらに懐から小さな双眼鏡を取り出し、目に当てる。
「お嬢さんは、相手をどんな人物だと?」
「えっと」
 草摩は答えた。
「そんなに若そうには見えない……、多分、同年代には見えないってことだったと思います」
「ふうん」
 中澤の視線の先の男はニット帽を目深にかぶり、マフラーを靡かせている。確かにあれでは人相などわかったものではないだろう。だが、中澤の口元はきゅっと吊りあがった。
「あれは相当若い男だ。身につけているものを見ればわかる」
「え?」
 草摩が聞き返す。中澤の深い皺の刻まれた顔の中で、瞳がらんらんと輝いていた。
「人は誰しも年齢相応のものを着るものだ。草摩君だってわかるだろう? 君は既婚者向けの店で服を買うかい? ヤング向けの店で買うに決まってるさ」
「それはそうですけど……」
「まあ体型でもわかるんだがね。今の季節はコートを着ているとわかりにくい。だがあの男は」
 と指し示す。
「ダウンジャケットを着て、ストライプの入ったマフラーを巻いている。しかもジーンズだ」
「……確かに、私たちとそれほど年が違うようには見えないわね」
 絵音がつぶやいた。
「そうだろう? ……っと」
 中澤はポケットから小さなカメラを取り出し、何度かシャッターを切った。喧騒に包まれた店内では誰も気付いていない。フラッシュもオフになっている。
「あ……そうだ」
 草摩は思い出して口を開いた。
「確か、『高校時代に付き合っていた人はいるけど、恨まれる覚えはない』って友早は言ったんだ。『それにそんなに若そうには見えなかった』って」
「ふうん、なるほどね」
 中澤は続いて少し大きなカメラを鞄から取り出した。これには少し注目が集まったが、やがてすぐにそれは散る。シャッターを切ってから少し待つと、写真が現像された。ポラロイドカメラだったらしい。
「ほら」
 草摩の方に寄越した数枚の写真を、絵音と二人、額を寄せて眺める。
「これ……」
 草摩は眉を寄せた。そこにうつったシルエットには、見覚えがあるような気がした。
「ねえ!」
 絵音が声をあげる。
「うん?」
「これ、もしかして」
 振り向くと絵音は真剣な顔で草摩を見つめていた。
「友早君じゃないの……?」
「え……?!」
 草摩は改めて写真に目を落とす。そう言われて見ると、確かにそうとしか見えなかった。ニット帽のせいで人相はわからないし服装に見覚えもないのだが、何となく……。
「よし、追うぞ」
 中澤は立ち上がった。慌てて草摩らも彼の後を追う。咄嗟に振り返って窓の下を見ると、眞由美を追う男がちょうど角を曲がって姿を消したところだった。
 
 
 駅前の人通りの多い中を中澤は縫うようにして早足で歩いていく。草摩と絵音はその後ろを走って追いかけた。草摩は絵音の手を引いている。
「さすが、早いなあ」
「元プロだものね」
 荒い息で囁きあっていると、中澤が歩調を緩めた。先ほど男が曲がった角のあたりに近付いたのだ。やがて足を止め、振り向く。草摩と絵音も立ち止まった。
「さっき見たところ、男はやたらときょろきょろしながら歩いていた。お嬢さんとの距離は一定に保つように努力していたようだが、ストーカーにしては何だか様子が変だ。パトロールしている警官を探していた、というのでもなさそうだし……。そもそもあの男以外にお嬢さんを追っている男はいなかった」
 ここで足を止めたのは男に見つからないようにするためらしい、と草摩は納得した。
「そもそも眞由美さんのお母さんが戻ってきた次の日にまたストーキングが始まるなんて……」
 不自然すぎる、と絵音は眉を寄せる。中澤は頷いた。
「そのとおり。ところでさっき言っていたトモハヤというのは……」
「あ」
 草摩が口早に答えた。
「眞由美さんの恋人です。俺の従兄弟でもあって、そいつから今回相談されたんですけど」
「恋人……ね」
 中澤はそろりそろりと歩き出した。
「それが確実なら、彼から話を聞いてみたいが……」
「そうですね」
 草摩がうなずく。
「携帯電話にかけてみましょうか。今どこにいるのか、聞いてみればいい」
「ああ」
 中澤は角から身を乗り出し、通りを眺めた。
「だいぶ離れた。そろそろ行こう」
「はい」
 草摩はアドレス帳から「東友早」の文字を探し出し、発信ボタンを押した。しばらくの電子音の後、
『ただいま、電話に出られません』
「…………?」
 草摩は眉を寄せる。今は友早も春休みのはず。授業ではない。バイトをしているという話も聞いていない。それでは一体何故……?
「どうだった?」
 中澤が尋ねる。
「出ませんでした」
 二回目の発信も同じ結果に終わり、草摩は携帯電話を閉じた。
「これはもしかすると、本当にあれが友早かも……」
「可能性は高そうだな。どうする?」
 振り向いた中澤は草摩に問い掛けた。真っ直ぐに目を合わせてくる。
「捕まえて声を掛けるか? それとも……」
「そうですね……」
 草摩は目を細めた。めまぐるしく思考がめぐる。一瞬のうちに、草摩は心を決めていた。
「声を掛けましょう」
 絵音を見る。彼女もまた、うなずいた。
「わかった」
 中澤は再び足を速める。草摩らも小走りに駆け出した。
 
 
 男に追いつくにはさほど時間はかからなかった。
「すみません」
 中澤が呼び止めるとびくっとしたように体を強張らせ、ゆっくりと振り向く。警戒心をあらわにしたその男は、やはり友早だった。
「友早……」
「そ、草摩?!」
 中澤から視線を動かし、友早は素っ頓狂な声をあげる。
「お、お前、こんなところで何を……」
「それはこっちのセリフだよ。携帯にも出ないし」
「あ、ごめ、眞由美が無事着いたら掛け直そうと思って」
 友早は慌ててポケットを探る。絵音が一歩進み出た
「じゃあ今友早さんは眞由美さんの護衛のつもりで?」
「ああ。眞由美にも頼まれたんでね。ストーカーを探してたんだ」
「ふうん……。でも」
 草摩は冷たく言い放つ。
「俺たちは駅前通りの上から見てたけど、お前以外に眞由美さんを追っかけてるやつはいなかったぞ」
「え……?」
 友早は一瞬口をぽかんと開け、やがて力なく笑い出す。
「そうか。今日はいなかったんだ。眞由美のやつ、勘違いしたんだな」
「勘違いって?」
「さっき俺に電話してきて、『誰かついてきてる』って言うから」
「…………」
 草摩は思わず口をつぐんだ。中澤と視線を交わす。彼は首を横に振った。
「間違いない。この坊ちゃんの他にお嬢ちゃんを尾行している男なんざいなかったね」
「ほ、本当ですか?」
「友早、この人は元警察官で篠原さんのご友人の中澤承太郎さん」
 友早は目を白黒させながらも頭を下げる。
「は、はあ。はじめまして。俺は東友早です」
「東君……?」
 中澤の目が一瞬光ったが、やがてすぐにそれは消えた。もしかすると、中澤は東慧一のことも知っているのかもしれない。今は亡き父・一騎の親友……そして父を殺した男。
「中澤さん」
 草摩は口を開いた。この混乱した状況を打破するための方策。篠原亜矢子が言っていた通り、荒療治にはなるがこの際致し方あるまい。
「お願いがあるんです」
「ん?」
「ちょっと先回りをしてもらってもいいですか」
「先回りを?」
「ええ」
「あ、あのさ」
 友早は草摩をさえぎった。
「悪いけど、俺眞由美が心配だから先行くわ」
 草摩はあっさりとうなずく。
「ああ、わかった」
「家に帰るのを見届けたら連絡するから!」
 手を振り駆け出していく友早。その後姿を、絵音は少し悲しげな眼差しで見送った。
「眞由美さん……どうして……」
 草摩は中澤に向き直る。今はまだ、眞由美に同情すべきときではない。また全てが明らかになったとしても、自分はきっと同情しないだろう。
 
 昨夜桐生にメールを送った後、すぐに電話がかかってきた。たまたま桐生は家にいたらしい。
『明日は帰って来られそうですか?』
「そのつもりだよ」
『そうですか……』
 しばらくの沈黙の後、桐生は少し笑ったようだった。
『不思議ですね。一人暮らしには慣れていたのに、今は何だか物足りないような気がするんです』
「…………」
『今はもう、一人暮らしではないからかもしれませんね』
「……お」
 思わず喉がひきつれる。
「俺が出て行くまでに、ちゃんと家族作れよな」
 電話越しに、桐生はくすくすと笑った。
『……そうですね。君みたいに口うるさくて世話焼きでおせっかいな奥さんが欲しいです』
「お前、帰ったら覚悟してろ」
『あ、あの、納豆は勘弁してください』
 草摩は笑い出す。桐生は納豆が食べられないのだ。一度朝食に出したらにおいに顔をしかめて食卓の端へと押しやっていた。草摩はそれを思い出し……涙が出るほど、笑い転げた。
 桐生の声は優しい。
『気をつけて帰って来てくださいね。篠原さんたちと、絵音さんによろしく』
「ああ。おやすみ」
『おやすみなさい』
 草摩は電話を切り、ベッドに腰掛けて再び笑った。今度は、涙は出なかった。