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NERVOUS

「ちょっといいですか?」
 眞由美は立ち止まり、おそるおそる振り返る。背後に佇んでいたのは、くたびれたトレンチコートを着た初老の男だった。
「は、はい?」
「須藤眞由美さんですね?」
 つかつかと歩み寄る。眞由美が何も言えずにいるうちに、男は懐から一枚の写真を取り出した。
「ストーカーらしき男の姿をとらえたので、確認していただこうと」
「え?」
 眞由美の体が震える。男はじっとそんな彼女を見つめていた。
「構いませんか?」
「え、ええ」
 男の差し出す写真に視線を落とす。ニット帽にダウン、マフラー。眞由美は眉をひそめたままじっと見つめた。写真にプリントされた日付から、これは今日――というよりも先ほど撮られたばかりのものだとわかる。
 男は問いを重ねた。
「この男に見覚えは?」
「……ちょっと、これでは顔もわからないし」
「そうですね。顔は隠しているようです」
 男はうなずいた。
「あなたの知り合いではありませんか……?」
「…………」
 眞由美は少し戸惑ったように口ごもった。
「どう……かな……」
「この方にお心当たりがありますか?」
「あの」
 意を決したように顔を上げる。
「他にあやしい男はいませんでしたか?」
「…………」
 男と目が合い、不意に眞由美は怖くなった。そもそもこの男は一体何なのだろう。見た目から警察関係者だと信じてしまったが、警察手帳も見せてもらっていない。だが男の様子は落ち着き払っていて、眞由美の疑問など封じ込めてしまおうとするかのようだった。
 男は写真を眞由美の手から取り戻し、トレンチコートのポケットにしまった。
「今のところ、他には見つかっていません。人まずこの男を不審人物として身元確認を進めます」
「…………」
「よろしいですね?」
 眞由美は迷う。だが、今のところ他に選択肢がないのは事実だった。
「……はい」
「…………」
 男はまたじっと眞由美を見つめる。一体何なのだろう。眞由美は苛立ちを感じながら、一礼して踵を返す。自宅への一歩を踏み出したとき、彼女はその足を止めた。
 いつの間にか――眞由美の背後には写真の人物と同じ格好をした男が立っていたのである。
「俺……不審人物か?」
 東友早。悲しげにつぶやきながら、彼はニット帽を脱ぐ。友早の傍らには草摩と絵音が佇んでいた。
「ど、どういうこと?!」
 眞由美は声をあげた。
「どうして友早がここにいるの?!」
「それは」
 草摩が口を開いた。
「貴方のご両親の前でお話した方がいいんじゃないかな……?」
「…………」
 眞由美はぎゅっと唇を噛んだ。
 ――やっぱり。やっぱり邪魔をされるのだ。自分は監視され、否定され、しあわせにはなれない。
 涙の浮かんだ目で友早を見つめる。その視線は受け止められることなくそらされ……眞由美は絶望した。
「あっ!!」
 誰の叫び声だったかわからない。誰かが力を失った彼女の体を受け止め、抱きかかえた。だがそれは友早の腕ではない。そのことがどうしようもなく、悲しかった。
 
 
 須藤家のリビングルーム。廊下に続く扉が開き、誰もがそちらを注目する。入ってきたのは中澤と眞由美の母、詠子だった。
 草摩らが詠子に会うのははじめてだが、弟である篠原素とはさほど似ていない。そういえば篠原と眞由美も対して似てはいなかった。一方、眞由美と詠子はとてもよく似ている。初対面であっても間違いなく母娘だとわかることだろう。
「今は眠っています。目が覚めたら念のために病院へ行ったほうがいいのかもしれない……。本当に、ご迷惑をお掛けして……」
 詠子がつぶやく。その表情には焦燥の色が濃かった。今もまだ事態を把握できていないのだろう、ちらちらと草摩の方をうかがっている。
 草摩の向かいには友早と、眞由美の父である明利(あきとし)が腰掛けている。どちらも肩を落とし、疲れ切った様子であった。
「結局、どういうことだったのです……?」
 明利が口を開いた。草摩についてはある程度知っているのだろうか。草摩はためらいがちに口を開く。
「眞由美さんが何を思い、何を考えてこのような行動をとったのか俺にはわかりません。ただ、一体何が起こったのかという点であれば類推してお話しすることができると思います」
「素に良く似ていますね。七条草摩さん……だったかしら」
 詠子が彼らのいるソファに歩み寄り、明利の隣に腰を下ろした。
「私も今日のお話を聞いて大体のところは想像がつきました」
「本当か? 詠子」
「ええ」
 明利の言葉にうなずいてみせ、詠子はすぐに草摩へと向き直る。悲しげな色を瞳に湛えながら、それでも唇はかすかに微笑んでいた。
 
「眞由美は……、私にこの家に戻ってきて欲しくなかったのね」

 明利は目を見開く。
「馬鹿な! あの子はそんなこと、一言も……」
 声を荒げた彼を制し、詠子は草摩を視線でうながした。草摩はうなずく。
「ストーカーは狂言だと思います。中澤さん……警察OBの方ですけれど、その方を通して警察内部の見方を聞いたところ、そちらでもストーカーについては実在しないのではないかという意見が大勢を占めていたそうです。眞由美さんは以前俺と一緒に……というか、俺の保護者を狙った事件に居合わせていますし、もちろん例の教団との関連性も視野に入れていて、そこそこ大掛かりな捜査を行なっていたようで、それで何も出てこないのはやはりおかしいと」
「でも」
 明利は反論する。
「あの子はあんなに怯えて……」
「怯えていたのは本当でしょう。でも、その怯えがストーカーに対するものかどうかはわかりません」
「…………」
 口をつぐんだ明利に代わり、詠子が口を開いた。
「私もおかしいと思いました。何の目的もなく人をつけまわす者などいません。それが正当なものかどうかはともかく、何らかの意図を持って行動しているはず。けれど今回それが全くわかりませんでした。住所をつきとめたのであれば郵便物へのいたずらや、もしくは何らかの手段で電話番号も調べるなど、いくらでもこちらにアプローチしてくる手段はあったはず。それが全くなかった。そして眞由美の言う男の姿を、私たちは誰も目撃することはできなかった……。そうだったわね、明利さん」
「……ああ、そうだった。それが余計に気味悪いのかと思っていたが」
「私も最初はそう思いました。でも……こんなことを言うと草摩さんにはおかしいって思われるかもしれないけれど」
 詠子は一瞬言葉を切り、少しためらってから続きを口にした。
「母親の勘……と言えばいいのかしら。何となくあの子の行動がおかしいと思ったの。そしてそれは私に関係することだと思った」
「だから君は義姉さんのところに……」
「何か、状態が変わればと思って。案の定、ストーカーは出なくなったと聞いたわ。それで確信した。眞由美は、私をあの家から追い払いたいんだって」
「……まさか!」
「そうしたら昨夜素から電話が掛かってきて、もう一度須藤家に戻ってくれと言われた。『このままではいけないのは、姉さんだってわかっているだろう。曖昧にしておいてはいけないんだ』って。『草摩君を信じて欲しい』って」
「篠原さんが、そんなことを……」
 草摩は驚いたようにつぶやいた。詠子はうなずく。
「だから私、信じることにした。以前私は弟を――家族を信じないで大きく道を誤ってしまったから」
 以前のめり込んだ宗教団体のことをさしているのだろうか。両膝の上で握り締められた拳は小さく震えていた。
「私は貴方を信じます。草摩さん」
 真っ直ぐに草摩を見つめ、詠子は言った。
「あの子の目的は……そうなのでしょう? 私をこの家から遠ざけること……」
「…………」
 草摩は少しの間をおき、やがてゆっくりと口を開いた。
「おそらくは」
「何故だ!」
 明利は握り締めた右拳を左手で握り締めた。
「やっと詠子が帰って来てくれて……教団もなくなりかけていて、これでようやく元に戻れるって思ったのに!」
「明利さん……」
「眞由美だって詠子を嫌っていたはずがない、だって実の母親なんだから、当たり前だろ?!」
「それは……」
 草摩の言葉を遮るように、絵音が口を開いた。

「それは、ただの思い上がりですよ」

「思い上がり?!」
 立ち上がりかけた明利を詠子がとどめる。
「ごめんなさい。貴方のお名前は?」
「雪村絵音と言います。すみません、初対面の方に不躾なことを言って」
「構いません、絵音さん、どうか続けて下さい」
 詠子にうながされ、絵音はうなずいた。落ち着いた様子で話し始める。
「親には子供を愛するための準備期間が用意されている。たとえば母親にとっては自分の体内に子供が存在する十ヶ月間――辛いことも多いだろうけど、たぶんそれだけじゃない。形容しがたい一体感があるのだと思います。違いますか? そしてそれを見守る父親も同じ。母親ほどではないかもしれないけれど、既にその期間から親子の絆は始まっている。だけど、それは親にとっての理屈ではないでしょうか」
 少し気持ちを落ち着けた様子の明利が口を挟んだ。
「子供には子供の理屈があると……?」
「そうです。子供はふつう、胎内にいたときの記憶なんて持ち合わせていないでしょう?」
 絵音はふ、と苦笑を浮かべた。
「子供が親に言ってはいけない言葉の一つに『誰も生んでくれとは頼んでいない』が挙げられますよね。それってたぶん、どうしようもなく真実だから」
「真実……?」
「親は親になることを選んで親になる。子供は親の選択の結果生まれてくる。子供は何も選択できない。すべて親に権利があるのです。その権利の行使を誤ったとき、子供はそう叫ぶしかないのでしょう。親の行動が是正されることを願って……自分の無力さを訴えるしかない。もちろん褒められた言葉ではありませんが」
「…………」
 明利は絶句している。絵音はそんなものだろう、と思った。だがここでなじられたり否定されたりしないのは意外だ。大抵の親に向かってこんなことを言えば、もっと激しい反応が返って来るだろうから。
「何となくわかってきました」
 詠子はうなずいた。その表情は先程よりもずっと蒼白だ。
「眞由美は、私が許せないのね。母親であることを一度は放棄しておきながら、のこのこと母親面して帰ってきた私が……」
「それだけではないように思います」
 絵音の視線に答えるように、草摩が口を開いた。
「一つ、教団に対する悪意が強くうかがえること。ふたつ、友早を非常に頼りにしていること。一つめは母親との経緯を考えれば当然とも思えるかもしれないし、友早を頼るのも恋愛関係にある者には良くあることでしょう。だけどこのふたつをそろえて考えると、他の可能性が見えてくる」
「……あっ」
 友早が叫んだ。
「もしかして……?」
 草摩はうなずく。
「あの教団は俺の親父を殺した。叔母さんにとっては兄にあたる。考えようによっては教団さえいなければ叔父さんだって死ななくて済んだかもしれない」
「そんなこと、わからない……」
 友早はつぶやく。
「親父のことは俺、今でも良くわからないし……」
「友早がどう思っているかはこの際問題じゃないんだよ。眞由美さんがどう考えたか、だ。その教団の信者――しかもそこそこ重要なポストに自分の母親がついていたということを。そして叔母さんはそのことを知っている……」
「なるほど」
 明利が深く息をついた。
「離婚したのであればもう関係はない。むしろ教団に母親をとられた娘として、被害者側でいられる。だがもし復縁するようなことがあれば……友早君のお母様が一体それをどのように思うか、それを怖れたというわけか」
「もちろん、これはただの想像ですけどね……」
 草摩は控えめにうなずく。友早は腕の中に頭を埋めた。
「馬鹿だなあ……。そもそも俺の親父が教祖をバックアップしなかったら、教団なんて生まれなかったんだ。俺は最大の加害者の息子だよ。草摩の親父を殺したのだって俺の親父なんだから」
 口調が徐々に重くなり、途切れがちになる。たぶん、友早は泣いていた。父の葬儀でも見せなかった涙――。
「友早君……」
 明利がその肩をに手を置いた。言葉に詰まっているようでもある。だがその手は優しく、しっかりと彼の肩に触れていた。
「眞由美の気持ちもわかるんです。俺だって、あの父親の息子であったことを恨んだ。呪いもした。自分が生きていていいのかって自問した……。親父は草摩にまで、手をかけようとしたんだから」
 声を震わせながら顔を上げる。友早の目は真っ赤だった。
「正直、俺は今でもわからない。俺は生きていていいのかって。親父のせいで死んだ人がいるのに、俺は……」
 その問いは草摩に向けられているのだろう。友早の父によって父を奪われた草摩に。草摩は少し目を閉じ、やがて目を開けた。
 友早を救うのは自分の仕事ではない。誰かを救うなど自分にはできないし、もし自分の言動によって友早が救われた気分になったとしたなら、それは危険な幻想に過ぎない。
「新幹線の時間もあるので、そろそろ失礼しようかと思います」
「え?」
 口々に当惑の声をあげる彼らを残し、中澤に向かってうなずいてみせる。彼もまたうなずき返した。後のことは中澤に頼んである。素や亜矢子も仕事が終わり次第こちらに向かうそうだ。草摩にできることはもう何もないだろう。
「草摩!」
 友早の声に、既に立ち上がっていた草摩は少し振り返る。
「何で眞由美……俺を不審者って……」
「……そう言うしかなかったからだよ」
 草摩はため息混じりに吐き出した。
「眞由美さんは、俺たちを利用したかったんだ。自分を追う友早の姿を見せて、ストーカーは実在すると思わせたかった。まさか警察OBを引っ張り出してくるとは思わなかったのさ。どうせ眞由美さんからは『危ないからふだん着ないような服で出かけて』って言われてたんだろ? 顔も見られて覚えられないように、隠しておけって。眞由美さんは友早に『誰かにつけられている』と話した。だが中澤さんや俺たちは友早以外に眞由美さんをつけている人物など見つけられなかった。写真を見せられて眞由美さんが完全に否定してしまったら、自分の発言とあわせていろいろとややこしいことになる。それでああいう曖昧な言い方しかできなかったんだ」
「…………」
 友早は絶句する。
 草摩は眞由美の両親に向き直った。明利は呆然と、詠子は悲しげに目を伏せている。
「それでは失礼致します。眞由美さんが一刻も早く回復されますように」
「あの、失礼なことを言ってすみませんでした」
 絵音が深々と頭を下げる。詠子が立ち上がった。
「ありがとう、おふたりとも。……気をつけてお帰り下さいね」
「はい」
 草摩は答え、詠子をじっと見つめる。これが母親という存在なのだと、改めて思った。

 草摩は玄関に向かい――ぴたりと足を止めた。廊下に眞由美が立っている。白い顔で荒い息をついていた。
「眞由美!」
「眞由美……」
 両親の声も、友早の声も無視して眞由美は草摩を睨みつける。
「どうして。どうして邪魔をするの。私はしあわせになりたいだけなのに……! どうしてみんな邪魔をするの!!」
「あんたはしあわせだよ」
 草摩は振り上げられた彼女の手を軽く受け止めた。
「そのことに気付いていない。そのことは、不幸だけど」
「は、離してよ!!」
「眞由美!!」
 詠子が駆け寄り、彼女を抱きかかえた。
「離して! 母さんなんてっ……母さんなんか!!」
 一気に慌しくなった須藤家を見回し、草摩はため息をついた。
「……帰ろう、絵音」
「いいの?」
「これ以上のことは俺たちには関係ないよ……」
「……それもそうか」
 絵音は軽く肩をすくめ、玄関でブーツに足を通す。
 鍵を開けて外の冷たい空気を吸い――少しだけ、振り返る。眞由美はまだ泣き叫んでいた。なだめる父、抱きとめて話をしようとする母、おろおろとする友早、冷静に誰かと連絡をとる中澤……。
 
「しあわせになりたいだけ……か」

 絵音のつぶやきを聞いたのか、草摩が足を止めた。灰色の空を見上げる。
「眞由美さん、気付いているのかな……」
 彼女の主張は彼女の憎んでいる教団の教義に良く似ている。しあわせになりたい。しあわせになろう。自分は不幸だと叫ぶ彼女の姿は、恐らくかつての母・詠子と類似しているのではないか。
 事実を追い、一周して戻ってきたところで裏側に入り込んでしまったような、気持ちの悪い感触。草摩はそれを拭おうとするかのように絵音の手を取る。
「帰ろうか」
 微笑む彼女にうなずきながら、草摩は冷たい空気を胸に深く吸い込んだ。