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KNIGHT

 二月二十日、昼前の東京駅。新幹線から降り立つ人々の中に、若い男女二人組の姿があった。二十台前半のカップルは珍しくもないのだが、何故か彼らは似合わないぴりぴりとした緊張感をまとっている。それをほぐそうとするかのように、男の方が口を開いた。
「絵音は東京って初めて?」
「たぶん、昔遊びに来たことはあるんだと思うけど……」
 覚えていない、というように首を横に振る。柔らかそうな長い髪が弧を描いて揺れた。
「草摩は昔住んでいたのよね?」
「うん、親父がずっと本庁に勤めていたからね」
 草摩は目を細めて空を見上げる。絵音はその横顔を黙って見つめた。彼の脳裏には、今はもう会えない父の姿があるのだろうか……。
「あ」
 草摩は声をあげ、ダウンジャケットのポケットを探る。手にはぶるぶると震えている携帯電話。絵音の見守る中、草摩はちらりと発信者の名前を確認した。
「篠原さんだ」
 つぶやき、電話に出る。絵音は冷たい風に首をすくめながら、東京のそらを仰いだ。

 草摩から東京に旅行しないか、と言われたとき、絵音はすぐに無理だと答えた。彼と二人で旅行するなど母がいいと言うはずがないし、嘘をついてまで行くつもりはない。
 だが、良く聞いてみるとただの旅行とは違っていた。新幹線のチケットを送って来たのは草摩の従兄弟で、しかも宿泊先は草摩の父の旧友、T大医学部法医学教室助教授である篠原素が引き受けてくれるらしい。従兄弟はともかく、篠原には絵音も会ったことがある。それにしても何故……。
 当惑する絵音に、草摩は彼の従兄弟──正確にはその彼女が巻き込まれている、ストーカー騒ぎについて説明した。従兄弟は草摩に話を聞いて欲しくてたまらないらしく、チケットも問答無用で二人分送られて来た。しかし気ままな大学生と違って勤務医である桐生はそう簡単には休めない。そこで草摩は絵音を誘ったのだという。
 事情を聞いた絵音は、一応母に話してみるとは言ったものの――案の定反対を受けた。しかし桐生や篠原からの電話もあり、また草摩自ら雪村家を訪問して母と話し、しぶしぶではあるが許してもらえることになった。それを聞いて一番驚いたのは絵音かもしれない。

「で、そのストーカー被害者と篠原さんは姪と叔父の関係なのね?」
 篠原の指定した場所に向かいながら、絵音は確認した。草摩はうなずく。
「篠原さんには、迷惑かけちゃうわね」
 眉を寄せる絵音に、草摩は少し微笑んだ。
「いや、篠原さんは喜んでくれているみたいだよ。俺が絵音を誘うって言ったら賛成してくれたし」
「そうなの?」
「そうでなかったら、わざわざ絵音のお母さんを説得しないだろ?」
「それは……まあ」
「あ」
 草摩は立ち止まった。絵音も目をこらす。見覚えのある小柄な人影が軽く手をあげていた。
「遠路はるばるお疲れ様」
 二人分の荷物を持っていた草摩から一つ鞄を受け取り、篠原は雑踏を抜けて歩き始める。
「わざわざすみません。ありがとうございます」
 謝辞を口にする絵音に、篠原はかぶりを振った。彼女もまた手ぶらな訳ではなく、おそらくは篠原への手土産であろう、紙袋を手に提げている。
「妻も楽しみにしているんだよ。うちは子供いないしね」
「奥様もお医者様なのだとお聞きしましたけど」
「そう。……お互い仕事が忙しくて」
 三人は地下鉄に乗り込み、草摩は人混みから絵音をかばうように立った。それはとても自然で、小さく礼を言う絵音も慣れた様子である。篠原の口元にやわらかな笑みが浮かんだ。まるで、草摩は絵音の騎士(ナイト)のようだ。
 そして、顔を引き締める。姪の恋人──つまり、草摩の従兄弟であるが、彼もまた、騎士を目指しているのだろうか。そして守られる側は、それを甘んじて受けるつもりなのか……。
「篠原さん?」
「ん?」
 気付くと、草摩がじっと彼を見上げていた。その視線に、今は亡き旧友を思い出す。
「どうして貴方が動いたんですか?」
「…………」
 端的な、しかし鋭い問いではある。視線をずらすと、絵音もまた静かに篠原を見つめていた。
「……気になる?」
 はぐらかすように問い返すと、草摩はすぐに頷いた。
「確かに須藤眞由美さんは先生の姪ですけど、叔父と姪ってそこまで近い関係でもないと思うんですよね」
「そうだね。僕が話を聞いたのは姉経由だけど」
 篠原はあっさりと認める。
「それに、先生なら俺たちを呼ぶよりも警察に話をすることを薦めるんじゃないかって。まあ、俺もそう言ったんですけど」
「理由はいくつかある。でも一番大きな理由は、妻が君たちに興味を持ったということだよ」
「え?」
 草摩はぽかんと口を開けた。それは、さすがの彼も想像できない理由だったらしい。
「僕自身も君たちともう一度会って話がしたかった。それは理由としては不足かな?」
「いえ……そんなことはありませんが」
「他の理由は、君たちに先入観を植え付けかねない」
 あと一駅。篠原は床に置いていた鞄を持ち上げた。
「まずは当事者から話を聞くのがいいと思うよ」

 篠原宅は都心から地下鉄で十数分ほど離れた、閑静な住宅街にあった。
「実は、桐生君が昔お住まいだったところにも近いんだ」
「……そうですか」
 仕事の都合がつかないと分かったとき、桐生は少し残念そうだった。彼が東京を離れたのは大学入学と同時だったというから、もう十年以上前になる。少しは帰ってみたいと思うこともあるのだろうか……。
 一階の和室に絵音の荷物を、二階の洋室に草摩の荷物を置く。二人で住むには広い家だな、と草摩は思った。
「あ、私母さんにメールしないと」
「……俺も桐生に連絡しとくか」
 病院内では携帯電話ではなくPHSを携帯しているから、草摩からのメールを見るのはいつになるかわからないが、それでも一応連絡は入れておこうと思う。
 そういえば、父も時間さえあれば草摩に連絡を取るようにしてくれていた。当時携帯電話はなく、自宅の電話に留守電を録音しておくくらいだったけれど……。
「それにしても、心配ね。そのストーキングされているっていう彼女さん」
「うん……。何かちょっと引っかかるんだけどね」
 篠原は絵音の持ってきた菓子をお茶請けに、コーヒーを入れてくれるという。ちなみにそのコーヒーギフトを送ったのは桐生だ。草摩が彼に礼を言うと、「僕も保護者らしいことができて嬉しいんですよ」と笑っていた。
「引っかかるって何?」
「ああ……」
 草摩はソファの上で居住まいを正した。
「まあ、この後本人から話を聞けるんだから、そのあと考えればいいことなんだけどさ」
 この後は友早、眞由美らと合流し、昼食をともにすることになっている。
 篠原が盆にカップを三つ載せて戻ってきた。二人は腰を浮かせて会釈をし、それぞれのカップを受け取る。皿には絵音の地元ブランドの洋菓子。
 草摩はミルクと砂糖を加え、絵音はミルクをたっぷりと。篠原はそのままブラックですすった。
「ああ、話を続けて」
 篠原にうながされ、草摩が口を開いた。
「眞由美さんの話じゃ、ストーキングしている男は教団関係者かもしれないって話でしたよね」
「そうだね」
「では、何が目的なのでしょうか」
 絵音は小首を傾げた。
「ふつうに考えたら、眞由美さんのお母さんに教団に戻るように圧力を掛けるとか、そんなところじゃないかしら」
「もしくは」
 篠原が口を開く。
「教団を抜けた詠子さんに対する見せしめ――か」
「…………」
 絵音がぞくりと身体を震わせる。最悪の可能性が脳裏によぎったのだろう。
「そう。そのどちらかだと俺も思います」
 草摩はあくまで静かに話を進める。今、動揺しても何の助けにもならない。そのことを草摩は良く知っていた。
「もし絵音の言っていた通りだとしたら、教団側は母親に接触してくるはずです。でも今のところそのような動きはない。そうですよね?」
「うん」
 篠原はうなずく。
「では後者を考えましょうか。後者だとしたら、何故何日もかけて相手に悟られるまで尾行を続けるのでしょうか。犯罪行為に及ぶつもりがあるのなら、とっくに決行していておかしくはない。相手に悟られてしまっては、実行に移しにくくなります」
「それはそうよね……」
「ほかにもいくつか可能性は考えました」
 草摩はベージュ色に濁ったカップの中を見つめた。もちろん、そこには何も映りはしない。
「教団関係者だという眞由美さんの考えが、単なる思い込みに過ぎない可能性。つまり彼女が見つけたバッヂはストーカーとは関係なく、たまたまそこにあったものかもしれないわけです」
「そもそも、そのバッヂが本当に教団のものだったかどうかも分からないわよね? 良く似たデザインのものかもしれないわけだし」
「そうだね。それもある」
「そういえば……」
 篠原は洋菓子の個包装を破りながら口を開いた。
「詠子さんが家を出ようかと悩んでいるようだよ。自分のせいで娘が危ない目に遭ったらいけないからと」
 草摩は怪訝そうに眉を寄せる。
「眞由美さん、教団のことは誰にも言っていなかったのでは?」
「友早君、だっけ? 彼が警察に言って、それが姉夫婦の耳にも入ったらしい」
「……そうですか」
 草摩は目を細めた。
「警察も教団にコンタクトを取ったそうだが、もちろんそんな事実はないで突っ返された」
「そりゃあそうでしょうね」
「教団側は『篠原詠子の脱会は認めている。今更こちらから干渉することはない』と言っているみたいでね」
「最近はどうなんです? 以前、教団は脱会を認めていませんでしたよね?」
「だいぶ変わったね。今は本当に教団を必要としているものだけで運営しようとしている。小規模で、まあ害はないというか。だから詠子さんも抜けられたんだけど」
「カリスマ性のあった教祖が亡くなったから、なんですか?」
 絵音の問いに、草摩と篠原は顔を見合わせた。
「どうなんだろうな。俺はその教祖に直接会ってないから」
「僕もほんの少ししか会話してないよ。だけど……」
 篠原は目を伏せる。
「確かに不思議な少年だったよ。うまく人の心の隙間をついて、支配するのに長けている」
「宗教家にぴったりというわけですね」
 絵音はため息をついた。
「そうだね。今じゃもう、あの教団は既に教祖の追悼だけを目的としているといってもいい。政財界に対する影響力もなくなったし。いずれは自然消滅するだろう」
「そんな状況の教団が、いくら幹部だったとはいえ一個人の脱会に目くじら立ててどうこう言うかな……?」
 草摩は首をひねる。
「そんな状況だからこそ、かもしれないわよ」
 そう言う絵音も、自分の言葉にたいして自信はなさそうである。
「とりあえず、須藤眞由美さんに話を聞くのが一番だ」
 篠原はきっぱりと言った。その口調に何かを感じたかのように、草摩は顔を上げる。だが何も言わないまま、彼もまた洋菓子に手をつけた。
 ふんわりとしたマドレーヌ。バターと卵の香りが口に広がる。草摩は何となくその味に母親を想った。記憶にもない――ただ、写真でしか見たことがない母親。七条夏海(なつみ)。生前、父とはとても仲が良かったという。死後の世界がもしあるのなら、きっと二人はそこでも仲良くやっているのだろう。
「あ」
 絵音が携帯電話を取り出している。母親からの返信だろうか。
 
 初子(はつこ)と絵音。
 詠子と眞由美。
 夏海と草摩。
 この世界には無数の母子の形がある。それと同じだけの愛情と、……。
 
 ――「愛も憎しみも、執着が形を変えただけ。思っているほど、違いなんてないんですよ」
 
 いつかの絵音の言葉が脳裏に蘇り、草摩は小さく息をのんだ。