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File.4 Borderline 4~6

  4

 午後五時半過ぎ、草摩は最寄り駅で絵音を待っていた。
 昼食後も草摩はことごとく料理に関わらせてもらえず、仕方なく洗濯物を取り込んだり、アイロンを掛けたりして時間を潰した。
「休んでいればいいのに」
 と笑う桐生を軽く睨み、だがそれ以上は何も言わない。
 忙しく立ち働いている者を横目に自分だけのんびりするのは嫌なのだが、それは草摩の都合であって桐生には関係のないことだ。とはいえ草摩のその性分は、桐生も知っているはずなのだが……。
 強い北風が吹き、草摩は白のダウンジャケットの前を合わせる。手は、絵音のプレゼントのおかげで暖かい。
 ──マフラーもしてくれば良かった。首をすくめてうつむいていると、しばらくして見覚えのあるブーツが視界に入ってきた。
「待たせてごめんね」
 冷たい空気の上で弾むその声に、草摩の顔には自然と笑みが浮かぶ。
 絵音は黒のロングコートに身を包み、長い髪が襟元のファーの上で跳ねていた。ブーツにもファーがついていて、草摩にはそれがとても暖かそうに見える。
 当たり前のように差し出される手を、草摩は手袋を脱いで握った。ひんやりと冷たい。
「こちらこそ、急にごめん」
「ううん」
 謝る草摩に、絵音は首を横に振る。
「誘ってもらえて嬉しかったわ」
「桐生は気まぐれだからなあ」
 草摩は苦笑した。
 桐生を動物にたとえるならばきっと猫科だが、猫というほど大人しくはない気がする。黒豹などがお似合いかもしれない。
 絵音には、きっと猫が似合う気がした。ふわふわした長い毛で優雅に寝そべっていたかと思えば、不用意に伸ばした手を引っかかれそうな。
「俺は、何かな」
「え?」
 呟いた草摩に、絵音は怪訝そうな視線を向けた。
「動物にたとえたら、の話。俺って何になるのかなあと思って」
「ああ」
 絵音は笑って、すぐに答えを出した。
「犬ね」
「犬?」
「そう」
 絵音はくすくす笑っている。
「耳が立ってて、しっぽがふさふさなの」
「……何それ」
「パピヨンとか、可愛いよね?」
「か、かわい……?」
「でも柴犬には勝てないけど」
 絵音は目を白黒させる草摩を後目に、一人でうんうんと頷いた。
「そういえば」
 草摩の顔を覗き込み、一言。
「草摩って柴犬に似てるよね?」
「…………」
 草摩は絵音の手をきつく握りしめ、無言で抗議の意を表した。

  5

 駅から歩くこと十分。草摩は家の玄関を開け、小さく首を傾げた。桐生のものではない、男物の革靴がある。色は黒で、そこそこ良く磨かれていた。サイズは桐生よりやや小さいか。
「お客さんかな」
 呟く草摩の背後で、絵音はやや落ち着かない様子である。基本的に物怖じしない性格ではあるようだが、それでもやはり緊張しているのだろう。
「ただいま!」
「お、お邪魔します……」
 絵音が草摩に続いて靴を脱いでいいものか苦慮しているうちに、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら桐生が現れた。まだエプロンをつけたままである。
「いらっしゃい」
 桐生の笑みは絵音に向けられている。
「お招き下さってありがとうございます」
 会釈する絵音に、桐生は笑った。
「こちらこそ、突然お呼び立てして失礼しました。……あ、どうぞお上がり下さい」
「失礼します」
 絵音はブーツを脱ぎ、用意されていたスリッパに足を通す。彼女の数メートル先で、草摩が何かぶつぶつ言いながら桐生をはたいていた。彼は笑ってたたかれるがままになっている。
 ──不思議な関係よね。絵音は思う。

 兄弟ではない。
 親子でもなく、
 友人でもない。
 だが、それは確かに一つの絆の形だった――「家族」、と呼んでもいいような。

「絵音さん」
「は、はい」
 桐生は、まるで絵音の胸中を見透かしたかのように微笑んでいる。
「僕はもう少し準備がありますので、先に草摩君とリビングに行って下さいますか?」
「わかりました」
「なあ、桐生」
 草摩が桐生を見上げた。草摩の身長は同世代男子の平均より少し低いくらいだから、桐生とは十センチ以上も違う。
「誰か来てるの?」
「ええ」
「お久しぶり」
 桐生の背後にそっと佇む人影に視線をうつし、草摩は目を大きく見開く。軽く一礼する、壮年の紳士。
「し……」
 呆然とする草摩の顔を、絵音は不思議そうに眺めた。
「篠原さん……?」
「――――?!」
 瞬間、絵音の顔に走った驚愕を、桐生は見逃していなかった。
 
 
  6
  
「そちらのお嬢さんは?」
 篠原が首をかしげて絵音を見つめる。草摩は慌てて紹介した。
「こちらは雪村絵音さん。サークルで知り合った友人で、H大医学部一回生です」
「はじめまして」
 続いて絵音に向き直る。
「篠原先生、T大の法医学教室助教授」
「こちらこそ、はじめまして」
 篠原は軽く会釈を返した。いつの間にか、桐生はキッチンに入ったらしい。
「T大……って、東京からこちらに?」
 驚いたように言う絵音に、篠原は頷いた。
「実家がこちらなので、帰省のついでにね」
 柔らかな物腰は桐生に似ているようでいて、全く異質のものだった。
「そうなんですか」
 絵音は内心渦巻く動揺を表さぬように気をつけながら、上手に笑みを作る。自分の表情を制御することには慣れていた。
「僕は、草摩君のお父さんの同級生なんですよ」
 篠原はテーブルに伏せられていたグラスを手に取り、麦茶を注いだ。草摩へ、絵音へと順に手渡す。
 礼を言って受け取った絵音は、その半分ほどを一息に飲み干した。いつの間にか、喉がからからに乾いている。
「桐生君とも古い知り合いなんだ」
 淡々とした口調からは何も感じられない。まさか彼らが知り合った事情のその裏にあのような事件があったのだとは、誰も想像だにしないだろう。
「へえ、そうなんですか」
 絵音は初耳だ、という顔をして頷く。横で草摩が少し顔をゆがめていた。
 こんな風に平気で嘘をつける自分を、草摩はどのように思っているのだろう。快く思っていないことだけは確かだ、と思う。
 ――本当は、こんな自分を見せたくないのに。絵音は苦い気持ちを噛み潰す。嘘が下手な草摩が好きなのに、自分はこんなにも上手く感情を塗り隠せてしまう。一体何故、こんな風になってしまったのだろう。いつから自分は自分を偽ることに慣れてしまったのだろう。
 ぼんやりと考えていた絵音の耳に、桐生の声が飛び込んできた。
「草摩君、料理を運ぶのを手伝ってもらえますか?」
「おう、今行く!」
「そういえば」
 篠原がつぶやく。
「もう一人来るはずなんだけど……」
「まだいらしてないんですか?」
 絵音が相槌を打つと、篠原は無表情に頷いた。
「どうも、昔から時間にルーズなところがあるやつでね」
「その方ともお知り合いなんですか?」
「僕の甥だよ」
 端的な答えが返ってきて、絵音はそれ以上問うのを止める。どうせすぐに顔を合わせることになるのだから。
 ――それにしても……。
 絵音は一人ごちる。
 ――桐生さんはどうしてこのパーティを開こうと思ったのだろう……。
 
 草摩。
 絵音。
 篠原。
 そして、あともう一人。
 彼らは舞台の観客として呼ばれたのか、それとも演じる側なのか。
 
「お待たせしました」
 満面の笑みを浮かべてローストチキンを運ぶ桐生を迎えながら、絵音は湧き上がる疑念を抑えることができなかった。