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File.4 Borderline 18~20

  18
  
 桐生は草摩を見返し、穏やかに笑った。
「さあ、どうでしょうね……」
「…………」
「あの時、僕が何を思って、何を願っていたのか……。今更、わかりません」
 ゆるゆると首を横に振る。
「だけど、確実なのは」
 桐生の笑顔が、泣き笑いのように見えた。
「僕は、誰も、救えなかった」
 しん、と静まり返った部屋の中、桐生の独白だけが響く。
「誰よりも幸せでいて欲しかったのに……」
 ――誰に?
 母か。
 父か。
 祖母か。
 家族みんなか。
 それとも……、
 あの頃の自分か。
「僕は、ただ、全部」
 まるで仮面が剥がれたかのように、桐生の表情が消えた。そしてぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「全部……葬ってしまった。この手で」
 草摩は口を開く。そうせずにはいられなかった。
「お前は、誰も殺してない」
「…………」
「何も葬ってなんていない!」
「……いいえ」
 桐生は目を閉じ、首を横に振る。先ほどよりずっと激しく。
「誰が何と言おうと、それは僕の罪なんです」

  19

「…………」
 悔しげな顔で唇を噛み締める草摩。その横顔から桐生に視線をうつして、篠原は思う。まるで……あの当時の桐生千影に戻ったようだ。固い表情、冷めた瞳。薄い唇は全てを拒絶するように強く引き結ばれている。先ほど穏やかな表情で料理を運んでいた彼とはまるで別人だった。年月が少しは彼のこころを癒し、ほぐしたのかと思っていたのに……。
 篠原自身は、桐生と連絡をとったことなどなかった。一騎は彼を何かと気に掛けていて、どうやら手紙をやり取りしていたらしい。一騎は桐生の近況を篠原にも知らせてくれていた。
 寮生活にはすぐに馴染めたこと、はじめは級友も桐生のおかれた境遇に戸惑っていたが、すぐにまた今までどおりの付き合いができるようになったこと。盆正月には、母方の祖父母の元に帰省していること。彼らの希望もあり、近くの大学への進学を考えていること。
 やがてK大医学部へ進学したと聞いたが、彼が大学を卒業するまでに祖父母は亡くなったらしい。しかし、彼は何故父と同じ医師の道を選んだのか……一騎はそれをどう思っていたのか、今も篠原は知らない。
 内容を読んだことはないが、桐生の書いた手紙を見たことはある。飾り気のない白の便箋に、几帳面に並ぶ黒い細文字。
 半月ほど前に電話した時、こんな柔らかな声をしていたのだと驚いた。少年の時の面影だけが頭にあったためだろう。もっと硬質な声を思い描いていた。
 もっとも、彼が名乗った瞬間にその声は強張ったのだけれど。
「…………」
 言葉を失っている草摩。その険しい眼差しは一騎に良く似ていた。
 七条一騎が殉職した後、彼の遺言に従って桐生が草摩を引き取ることになったと聞き、篠原は内心一騎の考えを計り兼ねていた。何故、息子を桐生に託したのか。だが、今ならわかる。きっと一騎は、草摩に托したのだ。桐生を。
「……でも」
 絵音が不意に声を上げた。草摩ははっと振り向く。まるで救いを求めるようだ、と篠原は思った。
「桐生さんは守ったんじゃないかしら。お母様と、お祖母様の名誉を」
「…………」
 桐生は表情一つ変えずに絵音を見つめる。その吸い込まれそうな闇の色にも、絵音はひるまなかった。
「桐生さんがしたことは、もちろん良いことじゃない。警察の捜査を撹乱したわけだし……。それにお父様を脅かしたことだって、決して褒められたことじゃあないんだと思う」
「絵音……」
 草摩は呟いた。桐生はふっと息を吐いて微笑む。
「おっしゃるとおりです」
「だけど」
 絵音は声を大きくした。
「桐生さんが何もしなかったら。どうなっていましたか?」
「…………」
「医師の嫁が姑を殺害後自殺――嫁姑の確執が原因か、なんて面白おかしく書きたてられるのがおちでしょう?」
 葉山がふう、とため息をついた。煙草が吸いたいのか、どこか落ち着かない様子である。
「桐生慶吾さんだって、それまで通りに働き続けられたかしら」
「……でも、死ぬことはなかった」
 桐生は静かに答える。
「父は……死ななくて良かった。僕がいなければ」
「それは……」
 絵音が言葉につまる。桐生は穏やかな表情を崩さないまま言い募る。
「元々、祖母と母の仲が決定的に悪くなったのも、僕のことが原因でした。僕の教育方針を巡って、彼らはよく喧嘩していたから……」
「…………」
 絵音が目をつぶる。まるで、何かに耐えているようだった。
 草摩は思う。どうして彼女はこんなに苦しそうな顔をしているんだろう。何故桐生ではなく、絵音が……まるで我が事のように耐えているのか。
「僕がいたから、父母は離婚もできなかった。祖母は僕を桐生家の跡取りと考えていたし……、母は僕を絶対に手放したくなかったけれど、経済的な後ろ盾はなかったから、親権争いになったら危ないと考えたのでしょう。どんなにつらくても、母は耐えるしかなかったんです。そして父は、そんな状況を見てみぬふりをしていた。ずっと、仕事に逃げて……。でも」
 桐生は堰を切ったように喋り続けた。
「本当は、僕だって逃げていたんですよ。学校から帰宅したらすぐに自分の部屋に閉じこもって。何も見ない、何も聞かない、そんなふりで宿題やって、勉強して……いい点を取ってみんなに褒められて。そうやって逃げていたんだ」
「桐生……」

 ――ああ、確かにこれは「懺悔」なのだと。

 草摩はそう思った。
 桐生の内側でずっと血を流していた傷。それを掻き毟るのは彼の爪に他ならないのに――それでも彼は止めない。それが贖罪なのだと信じて。
 いや、贖いきれないのだと諦めているかもしれない。
 うつろな瞳、自嘲を浮かべる唇。退廃的な空気は、普段の桐生からは考えられない。
 これは、草摩の知る桐生ではない。
 
 
  20
 
 桐生千影。
 亡父の知己。実は遠戚だという。
 外科医。腕はいいらしい。大学の先輩にあたる。
 男の自分から見ても、相当整った顔立ちをしていると思う。職場の女性陣には結構人気があるのではないだろうか。しかし、彼女はいない。友人もいるのかどうか良く分からない。
 彼の人当たりはいい。物腰も柔らかだし、実際優しい男だと思う。けれど、彼の人間関係を草摩は知らない。彼との付き合いが浅いせいとも思えない。桐生はただ、仕事に没頭することで毎日を過ごしているように見える。
 草摩が来るまでの彼の生活はどうだったのだろう。まるで世捨て人のように、ほとんど他人と交渉を持つこともなく暮らしていたのではないだろうか。
 それもまた、桐生が自分に課した枷だったのかもしれない……。
 ――二十年間、桐生はずっと……。
「なあ、桐生……」
 こんな桐生を、見ていたくはない。
「お前、結局逃げるのか」
 だから……。

「お前の自責は、他人から責められないための防御に過ぎない」

 桐生が息をのむ。同時に草摩の側に座る絵音が――体を固くした。
「自分が悪いことを自らアピールすることで、周りの人間が糾弾できないように予防線を張ってるんだ。ずるいんだよ、そういうの」
「草摩君……」
 葉山が驚いたように口を挟もうとするが、草摩はそれを許さなかった。
「お前はそうやって自分を責めることで、何がしたいんだよ」
「何、が……?」
 桐生が呟く。
「そんなことしたって誰も帰ってくるわけじゃないだろ。誰も生き返らねえだろ!」
 大切なものを失う痛みを知らないわけではない。手の届かなかった悔しさを知らないわけではない。
 それでも、草摩と桐生では全く事情が違う。草摩の父母は周りが呆れるほど仲が良かったと言うし、父と草摩が過ごした時間もとても楽しく穏やかなものだった。ただその平穏な時間が短かったというだけ。
 桐生のような状況は、想像がつかない。
 しかし、だからといって、桐生の生き方を認めるわけにはいかなかった。――何故なら……。
「お前はさっき言ってたじゃないか。家族はみんな、それぞれの方法でお前を大切に思ってたって」
 母も、父も、祖母も。
 ばらばらになった家族ではあっても、その想いだけは誰もが共通していた。その方法が、表現が、誤っていたとしても。
「お前の家族の、最後の『絆』が――桐生。お前だったんじゃないのかよ」
「…………」
「それだけじゃない」
 草摩はぐるりと周りを見回した。心配そうに彼を見ている葉山、静かに見守っている篠原、そして目を伏せている絵音。
「お前のことを気に掛けてくれる人は今までだっていただろ? 俺の親父だってそうだし……俺はあんまり知らないけどさ、絶対いたはずなんだ」
「…………」
「お前はその人たちの気持ちに、どうやって応えてきたんだよ。ちゃんと応えてきたのかよ!」
「……僕には、そんな価値は」
「そんなもの、お前が決めるな」
 草摩は立ち上がり、桐生の腕を掴む。――びくり、と桐生は震えた。
「それにそう思うんなら、他人をお前の懺悔とやらに巻き込むな。特に絵音なんて、まるっきり無関係な他人だ」
「あ、いや、私は別に……」
 しかし、草摩は絵音の言葉を遮った。
「それでもみんなここに来たんだ。お前に呼ばれて。篠原先生も、葉山さんも。――絵音も」
 絵音は驚いたように草摩を見つめる。こんなにも強引に話を進める草摩を、彼女は知らない。
「お前のクイズに付き合ったんだよ。お前のために」
「…………」
「お前のわがままに、付き合ってるんだよ。今も」
「…………」
 桐生は黙って揺さぶられるがままになっている。
「それはお前に、何らかの――『絆』を感じてるからじゃないのか」

 ――絆など、存在を縛るには卑小過ぎる。
 
 篠原は、そう語った教祖を思い出す。彼はそれに納得した。だが、草摩は――きっと納得しないのだろう。
 彼が一体何を語るのか。もう少し聞いていたいと思った。
「お前は何も感じてないのか。親父に――今まで出会ってきた人たちに。今ここにいる人たちに」
 ――そして誰よりも、
「俺に!」
「草摩君、」
 桐生が口を開く。その頬は少し紅潮していた。
「何なんだよ。お前は俺にこんな話して、何を望んでるんだよ」
 草摩は俯いたままがくがくと彼の腕を揺する。
「すみません……」
「謝って欲しいんじゃない!」
 草摩は強い口調で彼の言葉を遮った。
 桐生の家族になりたかった。あの時――父が亡くなって落ち込んでいたとき、草摩は桐生に救われたから。
 同じことをしたい、とは言わない。ただ……。
「お前が、俺に何を望んでいるのかを、知りたいんだ」
「…………」
 桐生は口をつぐんだ。
 草摩は、待つ。ただ、じっと待ち続けた。
「僕は……」
 ぽつり、と桐生は呟く。
「裁かれたかった」
 訥々と、彼は語る。
「かつて、一騎さんは僕を裁かなかった。僕もそれ以上、誰かに告白することはできませんでした」
 一体どうして一騎は見逃したのか。桐生のしたことは犯罪行為だったのだ。何故それを誰にも言わず、草摩に托したのか――。
「僕は理由がわからなかった。最初に、草摩君の保護者になってくれと言われたときも驚きましたし……」
 自分でいいのか、と尋ねた桐生に一騎は答えた。――君がいいんだ、と……。
「かつて家族を失った僕が、また草摩君と暮らすことになって……」
 桐生の表情が少し緩んだ。
「楽しかったんです。君はとてもいい子だし。だけど、どこかで君を騙しているような気がしてならなかった。だから……」
「こんな風な場を、作ったのか」
「…………」
 桐生は沈黙で答える。草摩はふっと息をついた。
「桐生君」
 篠原が口を開いた。
「一騎が君を草摩君の保護者に選んだのには、ちゃんと理由があるんだよ」
「え……?」
 桐生が顔を上げる。草摩も驚いて篠原を見つめた。篠原は相変わらずの落ち着き払った表情に、わずかに笑みを浮かべている。
「一騎は、君の事件を立件するのは難しいと思っていたんだ。別に何か決定的な物証があるわけじゃなかったしね。君がいくら自白したとしても、それだけじゃあ……。それに、ちょうど一騎は本庁に呼び戻されていた頃でね。仕事の引継ぎはちゃんとしていったが、……まあ、後任の捜査は今一つだったんだろうな。君の関与には全く気付かなかった」
「…………」
「それからというもの、君は他人との関わりを嫌っていただろう。一騎は例外で、連絡をとりあっていたようだが……」
「ええ……そうですね」
「だが、一騎は君にそうなって欲しくなかったんだ。君のこころを、少しでも前進させたがっていた。そのためにもう一度、『家族』が必要だ、と思っていたんだね」
 そして、一人残されることになるかもしれない一人息子のためにも、「家族」になってくれる人間が必要だと思った。
「一騎は、桐生君になら草摩君を任せられる、と思ったんだよ――」
「……どうして」
 桐生は尋ねる。
「どうして、僕に。大切な息子さんでしょう?」
「大切だからこそ――だろうね」
 篠原は答える。
「で、どう? 一騎の決断は間違っていたのかな?」
 その問いは草摩に向けられたものだった。桐生が、葉山が、絵音が、草摩を見る。
「……いいえ」
 草摩は、桐生をじっと見つめた。
「俺の保護者は、桐生以外考えられません」
 親戚は他にもいた。けれど、草摩は桐生を選んだ。確かにそれは何も知らなかった頃だけれど……、間違っていたとは思わない。
「……貴方に」
 桐生は呟いた。気の抜けた、疲れたような……それでいて素直な表情だった。
「僕が救えるんですか」
 ――草摩はくすっと笑った。
「救う?」
 一体何がおかしいのかわからないのだろう、桐生は不思議そうに自分を見ている。
「何から救うんだよ。訳のわかんないこと言うな」
「え?」
 ――僕には君を救えない。一騎は確かにそう言ったのに……。
「お前は、何も救いなんて必要としていない」
 草摩は微笑んでいた。
「お前に必要なのは――ただ、許すこと」
「…………」
 桐生は息をのんだ。草摩はゆっくりと、繰り返す。
「お前が、お前の歩んできた道を――過去を許せるか、そして今ここにある自分を受け入れられるか、どうかだ」

『そう、いずれ――』
 あの時、教祖は言っていた。
『貴方は選ばなければならない』
 その言葉を、あの、教祖が。
『貴方が貴方を許すか、どうか』
 桐生はそれを、はっきりと覚えている。
『その命題はきっと七条草摩によってつきつけられることでしょう』

「それは、お前以外の誰にもできないことだろう?」
「…………」
 桐生は口元を喘がせる。
「そんなこと、できるわけ……」
「決めつけるな」
 草摩は言う。
「俺は、今現在のお前しか知らない。過去のお前のことはわからない。でも、今のお前を、俺は必要としている。『家族』でありたいと思ってる」
「…………」
「その気持ちを、否定する気か? 自分にそんな価値はないって言って逃げるのか。俺から――今ここにある『絆』から――」
 草摩は、真っ直ぐに、彼の瞳を見つめた。

「逃げるなよ。桐生」

 それはまるで、祈りにも似た響き。
 草摩は、心から願っている。桐生が、これ以上自分を憎むことがないように。自分を傷つけずにすむように。その気持ちが、痛いほど伝わった。
「…………」
 桐生はしばらく沈黙し、やがて――。
「……そう、ですね」
 ――静かに、微笑んだ。
「僕ももう、失いたくない……」
 草摩を。家族を。もう二度と、失いたくはない。その気持ちに、嘘はつけなかった。
 ――己を許せるかどうかは、まだわからない。
 けれど、もうこれ以上過去に囚われ続けていてはいけないのだと思った。草摩の言うとおり、あからさまに自分を責めてみせてもどうにもならない。本当はそんなこと、ずっと前からわかっていた――今更、何も、変わらないと。

 失ったものは戻らない。
 だが、得たものもきっとあるはずだ。そう、たとえば今ここにあるこの時間(とき)――。

 草摩は桐生の言葉を聞いて、ぱっと身を翻した。その瞳には少しだけ、涙が浮かんでいたような……。
「桐生、あの取って置きのワイン開けろ!」
「え、あれは今日肉料理に使いましたけど」
「ばか! 何であれを使うんだ!! 料理には安物使えよ!!」
 わいわいと騒ぐ二人を眺め、篠原はくすりと笑った。いつの間にかその横に立っていた絵音が呟く。
「でも、彼ならきっと……救えるわ」
 ――桐生を。そして……。
 
 いつか、彼に話してみようと思う。
 自分の背負うもの、どうしてもぬぐえない罪の意識。
 私が生まれなければ母はもっと早く幸せになれたのだと……、父に苦しめられることもなかったのだと、ずっとそう思い続けてきた。
 絵音を身ごもっていることに気付き、断念した離婚。子育てに追われて諦めた、母のいくつもの夢。
 どれも、絵音にはどうしようもなかったことかもしれない。
 それでも自分のせいなのだと、そう思っていた。自分は母の幸せを犠牲にして生きてきたのだと……。
 だから、自分が嫌いだった。どうしても好きになれなかった。どんなに努力しても、自分を認めてやれなかった。それはとても苦しいことなのに……どうしようもなくて。
 彼は――彼らは、何と言うだろうか。
「絵音さん」
 いくら飲んでも酔っ払わない、白皙の頬をしたその保護者。
「絵音!」
 腕にボトルを抱えて笑う、絵音の初恋の人。

 ――それでも、「絆」を……信じている。