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File.4 Borderline 16~17

  16
  
「な……」
 葉山は絶句する。その瞳に浮かぶのは――怯え。
「何故、父親を……」
「ああ、なるほど」
 不意に絵音が声を上げる。視線が一身に集まったことも気にならないように、彼女はにっこりと微笑んだ。
「それで、桐生さんは私を呼んだのか」
「……お分かりいただけたようですね」
 桐生は頷く。篠原が呟いた。
「『絆など、存在を縛るには卑小過ぎる』……か」
 草摩ははっと息をのんだ。
 それはかつて、名もなき教祖が篠原に告げた言葉だという。
 ――姉弟の絆など、貴方という存在を縛るには卑小過ぎますよ。
 妻を連れ戻して欲しい、と義兄に頼まれた彼は、それを聞いて引き返した。結局、そういうことなのだろうと思ったからだ。
 
 親兄弟、
 夫婦、
 恋人、
 友人、
 上司部下、
 先輩後輩……。

 そういった「絆」は、決して「個人」を縛ることはできない。関係性を保つために「個人」を破壊することはできないのだ。
 もしもその危機が訪れたなら――「絆」は崩壊する。
 篠原と姉の「絆」、姉と夫の「絆」。姉はそれを捨てることを選んだ。そうすることで教団に属する自分を、「個人」を守ったのだ。
 そして、篠原は姉弟という「絆」を諦めた。
 義兄は夫婦という「絆」を諦めた。
 そんな風にして、家族は――「個人」にかえっていく。ばらばらになっていく。
 桐生はそれを経験した。
 そして、
 絵音も。
 沈黙を破ったのは、草摩だった。敢えて、彼は謎解きに集中しているふりをしていた。
「この件に関しては、あまり良く分かりません。警察も早々に自殺だと断定しましたし……。だけど、一つ引っかかることがあるんです」
「火の玉……ね」
 絵音の言葉に、頷いた。
「そう。幾人もの人が目撃していた火の玉。見間違いとは思えません。無関係だとするには、あまりにも同時過ぎる」
「…………」
 篠原は興味深げに草摩の横顔を眺めている。一騎の面影を探しているのだろうか、それとも……。
「この事件において、火は重要な役割を果たしています」
 草摩はゆっくりと言葉を続けた。
 既に、この物語を誰に聞かせているのか、良く分からない。
 全てを知るはずの桐生か、
 ただ静かな眼差しで前を見ている絵音か、
 思いもかけぬ展開に青ざめている葉山か、
 目の前で暴かれていく過去を淡々と眺める篠原か。
 もしかすると……、
 これらは全て父に向けての言葉なのかもしれない……。
「最初の事件で、火は死亡推定時刻をずらすために使われました。でもその本当の目的は、桐生美里の犯行を隠すこと」
 後を続けるように、絵音が呟く。
「彼女が姑を殺害し、自殺した。その二つの事実が、隠された……」
「そう。火は、何かを『隠す』ために使われているんです」
「火の玉も、何かを隠すためだったと?」
「ええ」
 草摩は少し言葉を切り、ぐるりと見回した。
「皆さんは、桐生美里さんの生前の写真をご覧になったことがありますよね? 多分誰もが思ったはずだ。――桐生にそっくりだって」
「確かに……」
 葉山は桐生をじろじろと見ながら頷く。桐生は彼の不躾な視線も気にする様子はなく、穏やかに笑っていた。
 桐生が特別女性らしい顔立ちだというわけではない。身長も高いし、彫りの深い造形は繊細ではあるが同時に精悍さも兼ね備えている。しかし、それは今の桐生であって、当時の「桐生千影」ではない。
 十三歳の頃の桐生を、草摩は知らない。葉山とてそれは同じだろう。二十年も前の事件、それも未成年だった被害者の息子の顔写真など入手できるわけもなかった。それを知る人間は――篠原だけだ。
「…………」
 視線に気付いたのか、篠原が口を開いた。
「そうだね。当時の桐生君は、美里さんにそっくりだった。身長は桐生君のほうが高かったけれど……、あと髪の長さが違うくらいだったね」
「髪の、長さ……」
「え、もしかして」
 絵音が声を上げた。
「その、髪を燃やした?」
「かつらかい? いや、でも」
 葉山が首を横に振った。
「かつらなんてふつう持っているわけがない。事件前後の桐生君の行動は、それなりに調べられているんだ。購入したのなら足がついているはずだ」
「別に、かつらにこだわる必要はないでしょう? たとえば手芸用品を使ったっていい。どうせ暗い場所で、一瞬姿を見せて錯覚させればいいだけ。黒い糸だって構わないんですよ」
「それは、そうだが……」
「そのかつらを燃やして、窓から投げ捨てた。それが火の玉の正体。ライターは桐生慶吾のものを使ったのだと思います」
「でも、死んだ奥さんの幽霊を見ただけで、自殺にまで追い込まれるものかしら?」
 絵音が不思議そうに呟く。
「桐生慶吾は、多少なりとも妻に罪悪感は持っていたかもしれないわ。それをうまく刺激してやることで、おどかすのは簡単だったでしょうね。実際、不眠症にまで陥ったわけだし。でも……」
 草摩は中途半端に首肯した。
「うん。命を絶つのは並大抵のことではない――俺もそう思うんだ」
 ぐっと眉間に力が入るのを自覚する。
「だけど、わからない。実際はどうだったのか……桐生慶吾がどのような精神状態にあったのか。俺にはわからない……」
 ――そして、もう一つ。
「桐生慶吾の自殺が、その息子の望んだ結果だったのかどうかも……俺にはわからない」
 目を伏せる草摩の横顔を、桐生はただじっと見つめていた。
 
 
  17
  
「つまり」
 篠原が沈黙を破った。
「草摩君は、少年に殺意があったかどうかはわからない、と」
「ええ」
「実際は殺意がなかったにもかかわらず、桐生慶吾が自ら死を選んだ可能性もあるというんだね」
「そういうことです」
「…………」
 篠原の視線と、草摩のそれとがぶつかる。
 再び、沈黙。
 やがて、空気が動いた。桐生がふっと息を吐き出し、もたれていた壁から背中を浮かせたのである。
「では……採点をお願いしましょうか。篠原先生」
「…………」
 篠原は聞こえているのかいないのか、草摩の目をじっと見つめていた。それはほんの数秒のことだったのかもしれない。それでも草摩にはひどく長く感じられた。
「……そうだね」
 篠原は呟き、視線をそらした。草摩は強張らせていた体から力を抜く。
「最初の事件についての見解は、一騎のものと全く同じだった……。だが」
 誰もが、身じろぎもせずに聞き入っている。
「二つ目が、違う」
 篠原はそこで言葉を切り、桐生を見遣った。
「答えてしまって構わないの?」
「ええ、どうぞ」
 桐生はいつも通り、穏やかな顔で篠原をうながす。篠原はすっと息を吸い、やがて一息に告げた。
「一騎は……、桐生君には明確に殺意があったと考えていたようだ」
「…………」
 草摩は目を細める。
「それは不思議ですね」
「どうしてそう思う?」
「だって、かつらをつけて脅かしたくらいで相手が死ぬとは思いませんよ。幽霊をとっつかまえてやろうとするとか、彼のように心療内科で治療するとか、その程度でとどまると思うのがふつうではないでしょうか」
「……そうだね」
 篠原は小さく微笑んだ。彼の見せる、数少ない表情。
「確かにそうかもしれない。だが、一騎は……」
 言葉を切り、桐生を見る。桐生はただ穏やかな表情で彼らのやり取りを見守っていた。
「一騎は当時実際に捜査し、聞き込みをして――また、桐生君とも直接話した」
「…………」
「その上で、彼なりに結論を出した。桐生千影は、桐生慶吾に対して殺意を持っていた――とね」
「しかし」
 黙っている草摩にかわり、葉山が口を開いた。
「父親は父親でしょう。いくら母親を苦しめていたとはいえ、息子に対して何らかの虐待を加えていたわけでもない。殺意が浮かぶほどの憎しみを、感じるものですか?」
「葉山さん」
 りん、とした声がその場を打った。
 絵音。
 諦念、理解。そんな言葉で表せそうな、物憂げな眼差しが宙を見ている。

「愛も憎しみも、執着が形を変えただけ。思っているほど、違いなんてないんですよ」

「え……?」
 一瞬呆然とした顔をする葉山。
 草摩は――不意に、絵音の手を握り締めたくなった。そのほっそりとした冷たい手を、壊れるほどに握りたい。
 だが、草摩がしたのは全く別のことだった。座っていたソファから立ち上がり、桐生へと真っ直ぐ視線を合わせる。
「親父は――確かに七条一騎は、当時を良く知っていたでしょう。俺は知らない。当時の桐生がどんな風だったのかも……桐生慶吾がどんな男だったのかも、何も知らない」
 ――少なくとも――僕には君を救えない。
 それは、かつて一騎が発した言葉。一粒の涙とともに。
 それは、桐生のこころを弔う葬礼だった。
 母の縊死体を見つけた瞬間、彼のこころもまた――殺されてしまったのだ。
「だけど」
 草摩は微笑んだ。
「俺はお前を知ってる。四月からまだ半年ちょっとしか経ってないけど……親父よりはずっと長い間お前と一緒にいたんだ」
「草摩……君」
 桐生はかすれた声で彼の名を呼んだ。

 信じられない。
 信じたくない。
 
 ――彼は貴方の過去を知っても、きっと貴方を許すでしょうから。
 
 教祖の言葉。不吉な、予言。
「お前は試したんだろう」
 草摩の声が、響いた。
「お前の父親のことを。そのために――脅した。母親の代わりに父親を裁こうとした」
 一瞬の息継ぎ。そして、草摩はゆっくりと問い掛けた。
 
「お前は父親を許せなかったけれど、本当は許したかったんじゃないのか……?」