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File.4 Borderline 1~3

雑音が静けさに変わる瞬間を
絆が少しずつ欠ける惨劇を
切り裂けば楽になれた証拠を
どうか見逃さないで 置き去るのは過去だけでいい

  1
  
 十二月二十三日、祝日。久しぶりに草摩は桐生と揃って朝食を摂った。
「今夜、出かける予定はありますか?」
 桐生に尋ねられ、草摩は聞き返す。
「何で?」
 食後の皿を重ねながら、桐生は答えた。
「今夜、クリスマスパーティをしようかと思っていまして」
「……は?」
 草摩はぽかんと口を開ける。――クリスマスパーティ? 昨日までそんな話は全く出ていなかった。何だってまた、急に。
「イブは草摩君、デートでしょう? だから、今日なんです」
「う……」
 図星をつかれ、草摩は赤面する。
「それに、別に大したことをするわけではありませんよ」
 桐生は穏やかに微笑している。
「良かったら絵音さんも誘っていただけませんか。ご都合が合えば、ということで構いませんから」
「う、うん。それはいいけど」
 草摩は頷いた。
「で、他に誰が来るの?」
「それはひみつです」
「何でだよ! 俺絵音さんに何て言って誘うわけ?!」
「そこはまあ、何とか」
「何ともならねえだろ、そこは!」
 いつもと変わらない日常だった。草摩も、そして桐生も。
 特に桐生は、ひどく上機嫌に見えた。何か良いことでもあったのだろうか、と草摩が思ったほどに。
 ――その時は、まだ。
 
 
  2
  
 冷蔵庫には老舗ブランドのケーキが眠っていた。一体いつの間に買ってきたのだろうと思う。ここのところ桐生は立て続けにオペが入っていて、眠る間もないくらいに忙しかったはずなのだが。
「…………」
 草摩の背後では、包丁の音が響いている。
 桐生は料理が得意だ。一人暮らしが長かったせいもあるだろうけれど、元々手先が器用なのだろう。無論、そうでなければ外科医など勤まらないのかもしれない。
「それにしても、何だってクリスマスパーティ……」
「え?」
 桐生は振り向いた。眼鏡の奥の目が少し赤い。鼻をつくこの匂いはタマネギだろう。タマネギの刺激で目を赤くしている桐生がおかしくて、草摩はくすりと笑った。
「いや、なんか俺準備しとかなきゃいけないものあるかなって」
「特にありませんよ」
 桐生は笑う。
「さっきも言いましたけど、大したことをするつもりはありませんから」
「今頃から料理作ってるくせに?」
 今はまだ午前中だ。パーティを始める時刻は午後五時。
「ローストチキンは漬け込む時間が必要なんですよ。本当は一晩くらいかけたほうがいいんですが……」
「めちゃめちゃおおごとじゃねえか」
「そうですか? パーティならこんなものでしょう」
 桐生は首をひねりながらレシピ本を覗き込む。草摩はその隣にすっと立った。
「手伝うよ。何したらいい?」
「え、いいですよ」
 桐生は腰を伸ばし、手をぱたぱたと振った。タマネギくさい。
「僕が勝手に言い出したことなんですし」
「いや、でも俺、暇なんだよな」
 確かに暇だった。既に大学はなし崩し的に冬休みに入ってしまっている。
「そうですか……それなら、お昼ご飯を作ってください。僕と君の分」
「ん。わかった」
 草摩は冷蔵庫を開けた。
「なあ、使っちゃ駄目な食材ってどれ?」
「ああ、それはですね」
 桐生が一つ一つ示すのを頷いて聞きながら、草摩は何故か頬が緩むのを止められなかった。彼もパーティが楽しみになってきたのかもしれない。
 ――絵音も来てくれればいいな。草摩はそう思った。
 
 
  3
  
「クリスマスパーティ?」
 絵音は声を上げる。手元の携帯電話から聞こえるのは、草摩の声だ。
『うん。なんか桐生が企画しててさあ……俺も良く分からないんだけど』
「別に私は暇だけど……お邪魔じゃないかしら」
『そんな訳ないよ。そもそも桐生が誘えって言ったんだし』
「ううん……」
 絵音は唸る。行きたくない訳ではない。しかし、草摩の家に上がるのは初めてのことだし、そもそも何故桐生は自分を誘えと言ったのだろう。それもこんなに急に……?
 ちらりと時計を見る。正午前。そのパーティが始まるという時刻まで、あと数時間。
『いや、無理して来なくてもいいんだよ。どうせ明日会うんだしさ』
「え、い、いやそれは」
 さらりと言われた言葉に、絵音はうろたえる。
 どうにも恋愛沙汰に絵音は免疫がない。それは草摩も同じはずなのだが、自分に対しているときは恥ずかしげもなくそれっぽいことを言ったり、行動したりするから、始末に終えない。
「とりあえず母に相談してみるわね」
『うん。決まったらメールしてくれる? わざわざごめんね』
「いえいえ、お誘いありがと。それじゃね」
 絵音は電話を切り、居間でくつろいでいる母の元へと向かった。
「母さん」
「何?」
 広げていた新聞を畳み、母は顔を上げた。
 絵音は一瞬躊躇したが、やがて先ほど草摩から伝えられたばかりのことを彼女に説明する。
「…………」
 考えるように眉を寄せて聞いていた母だが、やがて微笑んだ。
「いいんじゃない? 行ってらっしゃいな」
「え、いいの?」
「行きたくないわけじゃないんでしょ? だったら行けばいいじゃない」
「う……うん。でも急すぎるかな、とか……」
「桐生さんって方は、草摩君の保護者なのよね。お若いけれど、父親代わりといったところなのかしら」
「多分」
 絵音はゆるりと頷く。そういえば母は桐生とは会ったことがない。母は一体彼をどんな風に判断するのだろう。人当たりはいいのだけれど、内に何か底知れぬものを秘めた、あの男を。
「貴方がその人に会ったのは、付き合い始める前だけでしょう?」
「うん」
「だったら、やっぱり会ってみたくなるものじゃないかしら。草摩君の『彼女』としての貴方に」
「……そう……なのかな」
「そうだと思うわよ」
 母は頷く。
「私だってもう一度会いたいもの。草摩君に」
「え」
「あら、驚くことないじゃない。当たり前のことよ」
 母は穏やかに笑っていた。
「もし、絶対に長いお付き合いにならないと断言できるのなら、会う必要なんてないでしょうね。でも、少しでもその可能性があるのなら、私は会っておきたいわ」
「……そっか」
 絵音は母に微笑み返した。
「そうね。……そうよね」
 ――いつか、草摩もこの家に遊びに来ることがあるのだろうか。あればいい。そう遠くないうちに、きっと。
 絵音はそう思った。同時に脳裏を過ぎる、草摩の言葉。
 ――あの事件の真相は、多分……。
 はっきりとは教えてもらえなかったけれど、絵音も薄々気付いていた。ところどころわからない部分もある。草摩には全てがわかっているのだろうか。もし、わかっているのだとしたら――。
 
 桐生と初めて会った時、草摩に少し似ていると思った。それと同時に、何故か妙に親近感をも感じたのを覚えている。
 その理由は、あの事件に隠されていたのかもしれない。
 
「ねえ、絵音」
 母の言葉に、現実に引き戻される。
「人のお家に、手ぶらじゃ行けないでしょう? お菓子やケーキはきっとご用意なさっているでしょうから、何がいいかしらね」
「そうねえ」
 絵音は首をひねる。
 彼女が何も思いつかないうちに、母はぽん、と手をたたいた。
「そうだ。お紅茶なんてどう? きっとケーキやお菓子は用意されているでしょうし、お紅茶なら日持ちがするわ」
「あ、それいいかも!」
「じゃあ、お昼ご飯を食べたら準備しましょうか」
 母はにっこりと笑って立ち上がる。
「……うん。ありがと」
 絵音は頷いた。母が自分のために一生懸命考えてくれるのは嬉しかった。
 ――この出会いが貴方にとって素晴らしいものかどうか、ちゃんと見極めなさい。そのための手伝いならお母さんがしてあげるわ。
 草摩と付き合いだした時、母はそう言っていた。
 ――私のような失敗は繰り返しちゃ駄目よ。
 その言葉には、やはり少し胸が痛んだけれど。